第40話「目覚めと感謝」
第40話「目覚めと感謝」
天井が、見えた。
白い漆喰の天井だ。見慣れた筋が走っている。右の角に、小さな木の節から染み出た跡がある。
グラフ城。わたくしの部屋だ。
(……帰ってきた)
体が重い。まるで石になったみたいだ。腕を動かそうとして、痺れているのに気づいた。足の先も、どこか遠い感じがする。魔力を使い果たした反動というのは、これほど体に出るものなのか。
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「お嬢様」
カーテン越しに光が差し込んでいる。昼の光ではない。朝だ。
ヨハンナが椅子を引いて立ち上がる音がした。鉱山の坑道でも崩れないこの城でも変わらない、落ち着いた足音でベッドの横に立つ。
「ご無事で何よりです」
声が潤んでいた。ヨハンナがそういう声を出すのを、わたくしはあまり聞いたことがなかった。
「ヨハンナ……今、何時ですか」
「朝の七時を過ぎたところです。昨日の昼前にお戻りになって——丸一日、眠っていらっしゃいました」
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「一日——」
「はい。カイン様がお嬢様を抱えてお戻りになって。ギルベルト侍医が参りまして、魔力枯渇による昏倒と診断されました。眠って回復を待つしかないと」
天井を見つめたまま、わたくしはその言葉の重さをゆっくり飲み込んだ。
(カイン様が、運んでくださったの)
馬に乗せてではなく——抱えて、という言葉を、ヨハンナは使った。鉱山からグラフ城まで、どれほどの距離があるか。その道を、カイン様がわたくしを抱えて。
「それは——その——言葉の綾では……?」
「文字通りでございますよ」
顔に出ていたらしい。ヨハンナが穏やかに訂正した。
「おりましたので。わたしも城門でお見受けしました。カイン様がお嬢様を胸に抱えて、馬から降りてこられました。ディートリヒ様が受け取ろうとされましたが、離されませんでしたよ」
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「あの——カイン様は、今?」
「廊下においでです」
「廊下?」
「はい。昨夜からずっと、椅子を一脚持ち出してお嬢様の部屋の前においでです。わたしが交代のお申し出をしましたら、ありがたいが結構だと。ディートリヒ様も断られたと聞きました」
わたくしは、もう一度天井を見た。
一晩中、廊下の椅子で。
(カイン様が、ずっとそこに——)
胸の奥に何か重いものが沈んで、それがゆっくり溶けていくような感覚があった。
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「お呼びしてもよろしいですか」
「……はい」
ヨハンナが扉を開けた。廊下でひと言、短いやりとりがあった。
足音が入ってきた。
カイン様は昨日と同じ服だった。鎧は外していたが、上衣に坑道の土埃がまだついている。
目の下に、うっすら影があった。一晩、眠っていないのだろう。それでも顔つきは変わらない。あの深緑の目が、まっすぐこちらを見ている。
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「起きたか」
「はい」
「具合は」
「……だいぶ、楽になりました。ご心配をおかけしました」
カイン様はベッドの横に立ったまま、少しの間こちらを見ていた。
表情は変わらない。いつもと同じだ。けれど——目の奥が、いつもより少し違う気がした。何かがある。言葉にする前の何かが、あの深緑の目の奥に沈んでいる。
「痛みはあるか」
「ありません。ただ、体が鉛になったみたいで」
「それは二、三日続く。無理はするな」
短い言葉だった。そのあと、カイン様が椅子を引いて、ベッドの横に腰を下ろした。
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「聞け」
「はい」
「最初にお前に会ったとき——わかっていた」
低い声が、静かに続いた。
「お前の魔力はCランクではない。隠していたのか、気づいていなかったのか——後者だったな」
わたくしは、息を止めた。
最初に会ったとき。それは——半年以上前のことだ。婚約破棄を申し渡され、辺境に赴任してきたあの冬。
あの時点で、カイン様にはもうわかっていた?
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「……いつから、ご存知だったのですか」
「初めから」
「でも、ずっと何も——」
「言う必要がなかった」
カイン様が、静かに言い切った。
「お前が自分で気づくまで待てばいい。魔力は、使う者が理解していなければ制御できない。外から教えても意味はない」
わたくしは、その言葉を何度か頭の中で繰り返した。
(待つ——?)
一年以上ずっと待っていた、ということだ。出会ったその日から。何も言わずに。
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「最初から知っていた。昨日の力は——何ランクでしたか」
「今の俺には正確には測れない。だがAランクを超えているのは確かだ。Sランクに迫るかもしれない」
Sランク。
国内に数人しかいないと聞く、最上位の魔法使いの水準。
(わたくしが——?)
自分のことが、自分で信じられなかった。王都にいた頃、魔力測定でCランクと出た。
「でも、倒れました」
「使い方を知らなかっただけだ。制御できるようになれば、倒れない」
「……訓練できますか」
「する必要がある」
カイン様が、静かにそう言った。否定ではなく、肯定だった。
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「お前の力はこの辺境を変える力だ」
カイン様が、まっすぐこちらを見た。
「だが無理はするな」
「……はい」
「倒れた。丸一日、意識がなかった。その代償を軽く見るな」
命令だった。叱責ではなく、心配でもなく——ただ、事実として言い渡している。
それがカイン様の言い方で、わたくしはその言い方が好きだった。
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扉をノックする音がした。
「カイン様、よろしいでしょうか」
ディートリヒの声だった。
カイン様が立ち上がり、扉を開けた。ディートリヒが申し訳なさそうに入ってきて、わたくしに目礼した。
「エリナ様、ご回復何よりです。実は——ゲルツ親方からご報告がございまして」
「鉱山の件ですか」
「はい。昨日の後、ゲルツ親方が坑道の状態を確認されたそうです。土の柱が今も完全な状態で残っており——それどころか、坑道の奥の壁面に、これまで見たことがない鉱脈が露出しているとのことで」
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「鉱脈——」
「ルーン石の、大鉱脈です」
ディートリヒが言葉を選んで続けた。
「崩落の衝撃で、奥の岩盤に亀裂が入り、長年眠っていた鉱脈が露出したようです。ゲルツ親方の言葉を借りれば——『坑道の壁一面が光っている。こんな鉱脈は五十年掘り続けても見たことがない』とのことです」
カイン様が、静かに窓の外を見た。
「昨日の崩落が、鍵を開けた」
「はい。親方は——エリナ様が開いた坑道がなければ、この鉱脈には一生辿り着けなかったと申しておりました」
部屋の中が、しばらく静かになった。
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「ゲルツ親方に伝えてくれ。坑道の調査は俺が許可する。ただし安全確認が済むまで作業員を入れるな」
「承知しました」
ディートリヒが退室した。
カイン様が振り返った。
「休め」
「は、はい」
「鉱脈の話は後でいい。今日は動くな。詳細の確認は俺がする」
「……カイン様は、お眠りになられませんでしたか」
一瞬、カイン様の目が細くなった。
「余計なことを言った奴がいるな」
「ヨハンナが——」
「あいつは口が軽い」
でも否定はしなかった。
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カイン様が扉に向かった。手をかけた瞬間、わたくしは思わず声をかけた。
「カイン様」
足が止まった。
「……ありがとうございました。支えてくださって。運んでくださって」
一瞬の間があった。
「礼はいらない」
「それでも——言わずにいられません」
今度は、間がもう少し長かった。
カイン様が扉の取っ手を握ったまま、少しだけ振り返った。横顔だけが見えた。
「……寝ていろ」
扉が、静かに閉まった。
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回復期間は、思ったよりも退屈なものだった。
ギルベルト侍医の診断は「魔力枯渇による肉体疲弊。最低三日は絶対安静」というものだった。後遺症が残っては困ると思ったから、大人しく従うことにした。
カイン様は翌日も、その翌日も、部屋に来てくださった。
朝は窓を開けて、鉢植えの様子を確認する。昼は侍医の指示だからと薬草を混ぜた回復のお茶を持ってくる。夕方には領地の今日の様子を短く報告してくれる。
(「侍医の指示」とおっしゃっているけれど——ヨハンナに薬草の配合を尋ねて、ご自分でお入れになったのではないかしら)
そう気づいたのは、二日目のお茶を一口飲んだときだった。
カモミールとリンデンバウムの葉の割合が、侍医が処方したものと微妙に違う。どちらも体に良い組み合わせだが——誰かが自分で考えて選んだ配合だった。
指摘するのは、やめておいた。
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三日目の夕方。
廊下でディートリヒとすれ違った。
「エリナ様、今日カイン様、何回お部屋に来ましたか」
「三回……ですが。朝と昼とお茶の時と」
「なるほど」
ディートリヒが、何かをこらえるような顔をした。
「辺境伯、あの方——本当にわかりやすいですね」
「何がですか」
「いいえ、何も。では失礼します」
足早に廊下を去っていくディートリヒの背中を、わたくしはしばらく見送った。
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三日目の翌朝。
ギルベルト侍医の許可が出て、はじめて自分の足で管理棟まで歩いた。
廊下を渡って、階段を降りて。体はまだ少し重かったけれど、自分の足で歩けるというのは嬉しかった。
管理棟の扉を開けた。
いつもの机。積み上げた台帳。インクの匂い。
そこに——花が一輪、置いてあった。
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青い、小さな花だった。
水を入れた小さな器の中に、茎を短く切った花が一輪。
野の花だ。庭師が育てた品種ではない。城の周囲か、どこかの野原に咲いていたものを——誰かが摘んできた。
机の上の書類の横。わたくしがいつも仕事をする場所の、ちょうど目の前に。
(誰が置いたか——聞かなくてもわかった)
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わたくしはしばらく、その花を見つめていた。
豪華ではない。高価でもない。ただ、野原の片隅に咲いていた、名前も知らない青い花。
(でも——こういうのが一番、胸に刺さる)
花の茎を一度そっと触れて、それから台帳を広げた。
三日ぶりの仕事が、不思議と少しも億劫ではなかった。
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その日の午後、ゲルツ親方が見舞いに来た。
仕事着のままではなく、清潔な上衣を着ていた。大きな体が、部屋の入口でいつもより小さく見えた。
「邪魔するぞ、嬢さん」
「いらっしゃいませ、親方。お顔の色が良くて安心しましたわ」
ゲルツはそれには答えず、部屋の中ほどに立ったまま、少しの間黙っていた。
それから——深く、頭を下げた。
「嬢さん。俺たちの命を助けてくれた。この恩は——忘れない」
低い声が、部屋の石壁に染み込むように響いた。
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(泣くな。泣いてはいけない。でも——)
わたくしの目が、じわりと熱くなった。
「親方」
「ん」
「頭を上げてください。わたくしは——あの場で、ただやれることをしただけです。でも、皆さんが無事でいてくださって、本当に良かった。それだけで——それだけで、十分ですから」
ゲルツがゆっくり顔を上げた。
しわがれた目に、薄く光るものがあった。
「あんたは——不思議な嬢さんだ」
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ゲルツが帰り際、振り返って言った。
「あの土の柱——まだ立ってる。測ったら、鉄より硬いと言ってた」
「まあ」
「俺が五十年掘り続けてきた坑道の中で——一番頼りになる柱だ」
それだけ言って、照れたように視線を逸らしながら部屋を出ていった。
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部屋に一人になって、わたくしは机の上の青い花を見た。
窓の外には、管理棟から見える小さな中庭。カイン様の姿はなかった。今日はすでに東の村の視察に出ている、とディートリヒから聞いていた。
台帳を広げた手を止めて、ふっと思った。
起き上がろうとしてふらついたとき、カイン様の手が肩に当たった。
反射的に、だったと思う。でも——。
(まだ無理をするな、とおっしゃった。声が、いつもより少し低かった)
肩の温度が、まだどこかに残っている気がした。
台帳の数字が、今日は少しぼんやりして見えた。




