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婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜  作者: きなこ
第2章「辺境の花、咲き始める」

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第39話「崩落と覚醒」

第39話「崩落と覚醒」


 翌朝、夜明けを少し過ぎた頃に、急報が届いた。


「クレイン村から伝令です。鉱山で崩落が——」


 ディートリヒが扉を開けた瞬間、カイン様はすでに椅子から立ち上がっていた。


 わたくしも朝食のテーブルから立った。


「状況を」


「崩落は坑道の奥の区画。昨日我々が入った場所よりさらに奥です。ゲルツ親方と鉱夫五名が内側に閉じ込められています。二次崩落の危険があって、入口側からの撤去が進められない状態です」


「行く」


---


 クレイン村に着くと、坑道の入口から先が変わっていた。


 昨日通った道に、大量の土砂と岩が積み重なっている。天井が落ちたのだ。


 カイン様の騎士たちが岩を動かし始めていた。しかし——


 ぱきり、と音がした。また小さな岩が天井から落ちた。


「止まれ」


「無理に動かすと天井がまた落ちる。向こう側の鉱夫を潰す可能性がある」


 ディートリヒが額に手を当てた。


「慎重にやるしかないですが——時間が」


「酸素の問題がある」


 ベルンハルトが静かに言った。


「六名が息をし続ければ——半日もあるかどうか」


 ゲルツ親方と五名の鉱夫。六名の命が、この岩の向こうにある。


 わたくしは崩落した岩を見た。


 冷たい石。積み重なった岩と土砂。その向こうに——


(感じる)


 昨日、坑道の壁に触れたときと同じだ。岩の内側が温かくなって、向こう側に何かがある感覚が来た。


「エリナ様」


 ディートリヒが振り向いた。


「何か、わかりますか。昨日のように」


 全員の視線がわたくしに向いた。


 わたくしは崩落した岩に近づいて、手を当てた。


「向こう側に人がいます」


 確かめるように言った。


「感じます。生きています」


 ディートリヒが息を飲んだ。ベルンハルトも。


「Cランクの土属性魔法で——」


「わかっています」


(わかっている。Cランクでこんな感知ができるはずがない。でも感じている。論理で説明できないことが、感覚としてある)


「場所がわかるか」


 カイン様の声だった。


 振り向くと、カイン様が静かにわたくしを見ていた。情報を求めている目だ。


「奥の方向に。生きている感覚が向こうにあります。岩に触れていると、それが伝わってくる気がします」


---


 ディートリヒが地図を出した。


「崩落した区画の奥には作業場があります。高さもある。六名がそこにいれば、空気はもう少し持ちます」


「迂回路は」


「山の西側に古い坑道の跡があります。今は使っていないが——」


「確認してから入らなければ、二次被害になる」


「時間がかかります」


「わかっている」


 わたくしは岩に手を当てたまま、聞いていた。


 手のひらの下、冷たい岩。その向こうに伝わってくる——生きている感覚。


(時間がない。迂回路を確認して進んで、辿り着くまでに——間に合うかどうか)


 わたくしは決断した。


 論理ではない。感覚でもない。もっと単純な——


(あの人たちを助けたい、という、それだけだ)


「カイン様」


「何だ」


「試させてください。わたくしに、この岩を動かせるかどうか」


 カイン様の目が細くなった。


「できないかもしれません。でも——やってみたい」


 沈黙があった。


 カイン様は一度だけ息を吐いた。


「無理をするな」


「はい」


「倒れるな」


「はい」


「——やれ」


---


 わたくしは岩壁の前に立ち、両手を押し当てた。


 冷たい。固い。


 でも——温かさが来た。すぐに来た。昨日より早い。まるで待っていたように。


 岩の奥底に、土が生きていた。脈打つように、眠るように、そこにずっとあった。


 はじめて気づいたとき——いや、はじめてではない。最初に坑道に入ったとき、壁に手が触れて温かさを感じた。その前にも、温室の土に手を入れたとき、農地を踏んだとき、何度もこの感覚に触れていた。


 ただ、わたくしにはそれが何なのかわからなかっただけだ。


(お願い——動いて)


 意識を手のひらに集中させた。温かさが強くなった。腕の内側を流れる何かが、手のひらから岩に向かって出ていこうとしている。前世の記憶に「魔力の使い方」という知識はない。ただ、感覚に従った。


 その瞬間。


 体から、光が噴き出した。


 金色の光だった。


 指先から、手のひらから、腕の内側から——体全体から、光が溢れてくる。Cランクの微かな土属性ではない。もっと深いところから来る、別の何か。


 わたくし自身が、最も驚いていた。


 光が、岩壁の内側に吸い込まれていった。


---


 最初に聞こえたのは、石の動く音だった。


 ごり、と重い音。それから続けて、ずずず——と低く長い音。崩れるのではなく、動く音だった。


 光の中で、岩が割れた。


 いや、割れたのではない。左右に分かれたのだ。崩落した土砂が、まるで誰かの手が掃うように左右に分かれ、その間に道が開いた。


---


 坑道の天井が、揺れた。


 瞬間、光が変わった。わたくしの体の奥から何かが引き出されるような感覚があって、両腕から金色がさらに強く噴き出した。


 その光が天井に向かって走り、土の中に根のように広がった。


 天井の揺れが止まった。


 土砂の間から、柱のようなものが現れた。人の腕ほどの太さがあって、鉄より硬そうなそれは——土でできていた。硬化した土の柱が、崩れかけた天井を支えている。


 三本。五本。七本。


 坑道が、再構築されていた。


 その光景を見ながら、わたくしはどこか他人事のように思った。これはわたくしがやったのか。本当に?


 王都で魔力測定をしたとき、計測器の目盛りはほんのわずかしか動かなかった。Cランク相当。魔法の才がないと、幼い頃から家族に言われ続けた。ヴァルトシュタイン家には魔法の血が薄い、と。


 それを信じていた。十八年間、信じていた。


 なのに——今、この坑道に、金色の光が満ちている。


---


 背後でディートリヒが息を呑む音がした。


「……これは」


 ディートリヒの声は震えていた。驚愕を隠そうとして、隠せていない。


 カイン様の声は聞こえなかった。聞こえなかったけれど——視線は感じた。じっとこちらを見ている。そういう感覚だけが、朦朧とし始めた意識の中に残っていた。


 光の向こうに、闇が見えた。


 開いた坑道の奥に、人影があった。


 一人、二人——五人。それから大きな影が一つ。


「嬢さん——」


 しわがれた声が、坑道に響いた。ゲルツ親方の声だった。


---


 六人が歩いて出てきた。


 全員が無事だった。


 足をひきずっている人が一人いたが、自分の足で立っていた。埃まみれで、顔が青白かったが——全員、生きていた。


 全員の顔が見えた。みんな、生きている。


 そして——膝から力が抜けた。


---


 立っていられなかった。


 両膝が地面についた。右手で坑道の壁に触れようとしたが、指が届く前に体が傾いた。


 目の前が白くなった。白い中に光の粒が散って、頭の中がひどく遠くなった。


(魔力を、使いすぎた)


 けれど——全員助かった。


 それだけが、朦朧とした頭の中でも確かだった。


---


「嬢さん——あんた、何者だ」


 ゲルツの声が頭の上から聞こえた。呆れているのでも、恐れているのでもない。ただ、純粋に驚いている声だ。六十年生きてきて、こんな光景は見たことがない——そういう驚き方だった。


 何者——


 わたくしには、答えられなかった。


(わたくし自身が、知りたいくらいよ)


 領地開発顧問。元公爵令嬢。転生者。それが自分の肩書きのすべてだと思っていた。Sランクに迫る土属性魔法使いなど、リストの中にはなかった。


 答えようとして、口が動かなかった。意識の縁が、滲んで崩れていく。


---


 足音が近づいた。


 地面を踏む音が二つ——そのうちの一つが速くなった。


「しっかりしろ。エリナ」


 声が、耳のすぐそばで聞こえた。


 カイン様の声だった。


 普段の声と違った。命令ではなかった。低くて、硬くて、でも——縁が溶けているみたいな声だ。


 柔らかいのではない。切迫しているのでもない。ただ——祈りのような、そういう響きだった。


(名前を呼んだ。カイン様が、わたくしの名前を呼んだ)


 そのことに気づいたのは、気を失う寸前だった。


---


 腕が肩に回った。


 倒れかけたわたくしの体が、しっかりと支えられた。


 カイン様の腕だ。広い肩が、頭の横にある。鎧の金具の冷たさと、その奥の体温とが、ちぐはぐに伝わってくる。


(温かい)


 前世の記憶をどれだけ掘り起こしても、こんなふうに誰かに支えてもらったことはなかった。


 倒れそうになったときも、一人で床を掴んで立った。泣きたいときも、誰もいない場所で泣いた。誰かの腕の中で息をしたことは——一度もなかった。


 それなのに今、この腕の中が——こんなにも当たり前のように温かい。


 この温度が、怖くて、でも、離れたくないと思った。


---


 意識が遠くなる。


 金色の光は消えていた。坑道は薄暗い。


 カイン様の体温だけが、はっきりと近かった。


 坑道の外から、空の光が差し込んでいるのが見えた。まだ日は高い。


 あの岩の向こうで、六人が暗闇の中で待っていた。怖かっただろう。空気が薄くなる感覚があっただろう。助けを呼んでも届かなかっただろう。


 それでも——わたくしには感じられた。


 土の向こうに、息がある。心臓が動いている。諦めていない人間がいる。その気配が、坑道の岩の向こうからずっと伝わってきていた。


(あれが、わたくしの力だったの)


---


 耳の底に、低い声が沈んできた。


「……やはり、そうか」


 独り言のような声だった。誰かに向けた言葉ではなかった。


 意識が白に向かって落ちていく中で、わたくしはその言葉の意味を問えなかった。


(やはり——?)


 カイン様は何を知っていた? 何を確かめた?


 答えを考えるより先に、目が閉じた。


 カイン様の腕の中で、わたくしは意識を失った。


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