第38話「鉱山と岩蜥蜴」
第38話「鉱山と岩蜥蜴」
春が深まると、空の色が変わる。
冬の低い空がどこまでも澄んだ青になって、馬車の窓から見える山の稜線もくっきりとしていた。頂上にだけ白いものが残っている。
(帳簿の上の「鉱山収入」の現場が、今日はじめて見える)
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クレイン村は山の麓にある小さな集落だった。
石造りの家が十数軒、山道に沿って並んでいる。洗濯物が軒先に翻って、広場の端で子供が二人遊んでいた。質素だが活気のある、働いている人たちの村だ。
馬車を降りると、村の入口に人が待っていた。
六十代ほどの老人。横幅があり、肩から腕の筋肉が盛り上がっている。手は岩のように大きく、節くれだっていた。
「辺境伯様、よくお越しくださいました」
頭を下げながらも、目はしっかりカイン様を見ていた。次にわたくしに移ってきた。その目が少し止まった。
「この嬢さんが噂の」
「ヴァルトシュタイン嬢だ。領地開発顧問として働いている」
カイン様の短い言葉に、老人——ゲルツ親方が無言でわたくしの右手首を取った。手のひらを上に向けさせて、じっと見る。
(手相でも見るのでしょうか)
「ほう」
老人が小さく息を吐いた。
「仕事をする手だ。いい手だ」
それだけ言って、手を離した。
(山で長年働いてきた人の、信頼の基準だ)
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坑道の入口は、村の北側、山が迫ってくる場所にあった。
太い木材で枠が組まれ、中から少し冷たい空気が漏れてくる。鉄と土の混じった、地の底の匂いだ。
「主な産出は鉄鉱石と銅ですが、奥はまだ調査が終わっておりません。それと——」
ゲルツ親方が坑道の壁を手のひらで叩いた。
「深い層でたまに出る石があります。光る石ですわ。埋め込まれた状態で自ら光っている」
「ルーン石、ですか」
「そう呼んでいます。ご存じで?」
「以前に少し聞いたことがございます」
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坑道の中へ入った。
壁に炎の灯りが等間隔に下がって、岩肌が近くなると灰色と茶色の岩が両側から迫ってくる。表面には鉄の道具で削った筋が無数に刻まれていた。
(これだけ掘り続けた歴史が、壁に全部刻まれている)
ゲルツ親方があるところで立ち止まった。
「ここらへんは鉄鉱石が豊富に出た層です」
わたくしは壁に手を伸ばした。
ただ確かめたかっただけだ。帳簿で見ていた鉱山が、どんな手触りをしているのか。
冷たい岩の表面。ざらざらして、しっとりしている。
その瞬間——
指先から腕全体に向かって、温かい波が広がった。
(——っ)
今まで感じたことがない感覚だった。指先だけが温かくなるのは何度かあった。でも今回は違う。腕の内側を伝わって、胸のあたりまで流れてくる、確かな波。
岩の奥に、眠っているものの気配がある。
「嬢さん」
ゲルツ親方の声が、すぐ近くでした。
わたくしは手を離した。温かさが少し遠くなった。
「大丈夫ですわ。岩の手触りが面白くて」
「そうですか」
老人の視線が、手から顔へ移った。探るような目ではなく——確かめているような目だった。
少し離れた場所に立つカイン様の視線も感じた。振り返ると、深緑の目が静かにこちらを見ていた。何かを確かめるような——静かで真剣な視線。
ゲルツ親方が、低く静かな声で言った。
「あんた——土の声が聞こえるのか?」
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わたくしは、なんと答えればよいかわからなかった。
土の声。
聞こえているのかと問われれば——聞こえている、と言えるのかもしれない。岩に触れたとき、波が来た。向こう側に何かがある感覚が来た。
それを「声」と呼ぶならば——
「……わかりません」
正直に言った。
「確かなことは、何も」
ゲルツ親方は少しの間、じっとわたくしの顔を見ていた。それから、岩のような手で自分の顎を一度だけ撫でた。
「そうか」
それだけ言った。深追いはしない。この老人は、聞くべき時と聞かないべき時を知っているようだった。
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さらに奥へ進んだ。
昼前の時間帯で、鉱夫たちが坑道の中で働いていた。すれ違うたびに会釈をする。顔は煤けているが、目はしっかりしていた。
「まだ探索が済んでいない区画がこちらです」
灯りの間隔が広くなっている区画へと進んだ。坑道の幅が少し狭くなり、天井も低い。足元は整えられておらず、岩と土が混じった地の底の固い床がそのまま出ている。
「この先は、今年に入ってから少しずつ掘り進めています。ルーン石の鉱脈がこの方向に延びているという感触がある。水の流れ方が、そう告げています」
(壁の湿り方で鉱脈がわかる。四十年の積み重ねで、体が知っている)
そのとき——低い唸り声がした。
全員が立ち止まった。
「……ゲルツ親方」
ベルンハルトの声が低くなった。右手が剣の柄に添えられた。
「岩蜥蜴だ」
ゲルツ親方の返答は落ち着いていたが、声の奥に緊張があった。
「最近、出没が増えています。本来は深い層にしか棲まないはずなのですが——ここ一ヶ月ほど、浅い場所でも見かけるようになった」
岩肌と同じ灰色をした生き物が、坑道の右側の壁にいた。体長は大人の腕一本と半分ほど。岩にぴったりと張り付いていて、言われるまで気づかなかった。目が二つ、こちらを見ている。喉のあたりで低い唸りが続く。
「下がれ」
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短い声と同時に、カイン様が前に出た。
剣を抜く動きをわたくしはほとんど見えなかった。腰の剣が鞘から抜き出されたと思ったときには、もう振り下ろされていた。
一太刀。
それだけだった。
岩蜥蜴が床に落ちた。動かなくなっていた。
カイン様が刃を一度だけ横に払い、鞘に納めた。全ての動作が止むまで、三拍もかからなかった。
わたくしは気づけば一歩下がっていた。
(……速い。剣を抜いたことも、振り下ろしたことも、目で追えなかった。この人は領主であり武人だった。わたくしが帳簿を見ている間、この人はこうやって人々を守ってきた)
「怪我はないか」
「……はい。ご心配なく」
「手が震えている」
指摘されて、自分の右手を見た。確かに、わずかに震えていた。
「驚きました。正直に言います」
「正直でいい」
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ゲルツ親方が岩蜥蜴の体を確認した。
「浅い層に上がってくる原因に心当たりは」
カイン様の問いに、老鉱夫が顎を撫でた。
「断言はできませんが——ルーン石の鉱脈が、何かを引き寄せているかもしれない。光を放つ石は、深い層の生き物にとって目印になるのかもしれない。あるいは鉱脈に沿って魔力的な流れがあって、それが魔物の活動を活性化させているのか」
「調査が必要だな」
「そう思っています。採掘の安全に関わります。対応を検討していただければ」
「わかった。持ち帰る」
わたくしは壁の少し奥を見た。
岩の中に埋まった石があって——周りの岩とは違う、かすかな光を持っていた。
ルーン石だ。
灯りが届かないはずの場所で、自分で光を持っているように見えた。
そこに向かって、指先が——
(また、来る)
温かさが腕の内側を伝わって広がった。岩の中の光に、呼応するように。
わたくしは急いで手を引いた。
(今は、ここで確かめるときではない)
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坑道の出口に向かって歩きながら、頭の中を整理しようとした。
あの光。岩の奥で光っていたものに指先が反応した。腕全体が。
Cランクの土属性魔法で、そんなことができるはずがない。
前世の記憶に「土属性魔法の高位使用者」についての知識はなかった。当然だ。現実の会社員には魔法の知識などない。ただ——腕に残る温かさは確かだった。
岩蜥蜴の出没と、ルーン石の鉱脈と、わたくしの指先の反応が——何か、つながっている気がした。
「帰るぞ」
カイン様の声が、振り返らずに言った。
短い言葉だったが、声にわずかな緊張があった。いつもの「帰るぞ」とは、少し違う。
わたくしは「はい」と返して、外の光へ歩いた。
坑道から出ると、外の光が眩しかった。
春の青い空が、山の頂と岩の間から覗いている。
カイン様は坑道を出る前に一度だけ振り返って、岩の壁を見た。
その目は——何かを測るような、静かで深い目だった。




