第37話「聖女の綻び」
第37話「聖女の綻び」
朝のお茶の時間。
カイン様と向かい合って座り、わたくしは辺境ブランドの進捗を報告していた。
「印章の試作品ができました。木版ですが、蝋封にも使える形に仕上がっています」
机の上に、小さな印判を並べた。グラフ辺境伯領の紋章——山と河——を簡略化した意匠が、掌に収まる大きさに収められている。
カイン様が印判を手に取り、裏の彫りを指先でなぞった。
「……悪くない」
「ルドルフの商会では来月頭から使い始めます。最初の印入り出荷は燻製サーモンの予定ですわ」
「好きにしろ」
いつもの短い言葉。でも声が硬くない。白湯に口をつけるカイン様の横顔を見て、わたくしはふと思った。
(この人が「好きにしろ」と言うとき、本当に「好きにしろ」という意味だ。任せている、という信頼の言葉だ。最初に聞いたときは冷たく感じたのに——今は、温かい)
お茶を飲み終えて、カイン様が席を立った。扉の前で一瞬だけ振り返る。
「印は——よくできている」
それだけ言って、出て行った。
(褒められた。短いけれど、褒められた)
紅茶のカップを両手で包み、少しだけ口元が緩むのを自覚した。
同じ日の朝。
遥か南東の王都アルカディアでは、辺境とは全く異なる空気が流れていた。
王都中央の大神殿。
白い大理石の柱が並ぶ広間に、朝の光が斜めに差し込んでいる。高い天井に描かれた壁画は、古の聖女が光の奇跡を行う場面——千年前の伝承を、金箔と顔料で描いたものだ。
その広間の中央に、一人の騎士が横たわっていた。
白い布の上に寝かされた騎士は、顔の右半分から肩にかけて、広範囲の火傷を負っていた。訓練中の事故だという。医術師の手当てで命に別状はないが、傷跡は深く、通常の治療では完全な回復は見込めない。
神官長が、広間の隅に控えていた。白髪交じりの頭を少しだけ傾け、中央に立つ人物を静かに見つめている。
メリア・シュヴァルツ。
聖女と称される少女は、騎士の前に跪いていた。目を閉じ、両手を——正確には胸元の石に手を重ね、祈りの姿勢をとっている。
「聖女の光よ——」
メリアの声が、広間に響いた。
胸元から、淡い光が漏れ出した。白に近い金色の光。見る者に清浄さと畏敬を感じさせる——はずの、光。
だが。
光が騎士の傷に触れた瞬間、メリアの額に汗が浮かんだ。
火傷の範囲が広い。肩から顔面にかけて、皮膚の損傷は表層だけではなく深部にまで及んでいた。聖女の治癒であれば、この程度の傷は一瞬で消えるはずだった。
光が騎士の肌の上を這うように広がる。しかし——傷の表面が薄く膜を張る程度で、深部の損傷にはほとんど変化がない。
メリアが歯を食いしばった。
(なぜ——届かない)
石の温度が下がっている。朝はまだ安定していたはずだ。なのに、力を引き出そうとすると、石が冷えていくのがわかる。
光が——揺らいだ。
「……っ」
メリアは目を開けた。騎士の傷は、火傷の赤みが多少薄くなった程度で、完全な治癒には程遠い。
広間に、沈黙が落ちた。
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神官長が、ゆっくりと歩み出た。
「聖女様」
「は——はい。少し疲れてしまいまして。もう一度——」
「お待ちください」
老人の声は穏やかだった。しかし、その奥に鋭い刃のようなものが潜んでいた。
「本来の聖女の治癒は、この程度の傷であれば一瞬でございます。千年前の記録にも、三百年前の記録にも、そう記されております」
「わたし——今日は体調が——」
「体調ですか」
神官長が首を傾げた。
「先週の祝福の儀でも、光が以前より弱くなっておりましたな。その前の浄化の祈りでも。おかしいですな、聖女様。本来の聖女の光は、体調で揺らぐものではございません」
メリアの顔から、血の気が引いた。
横たわった騎士は意識が朦朧としていて、この会話を聞いていない。しかし広間の隅に控える神官二名は、確実に聞いている。
「少し——お休みをいただければ——」
「もちろんでございます。ご無理はなさらぬよう」
神官長は深く一礼して、それ以上は何も言わなかった。
しかしメリアは、老人の目の奥に浮かんだ色を見逃さなかった。
疑い、ではない。確認だ。疑いはとうに終わっていて、確認の段階に入っている——そういう目だった。
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処置を終えて控えの間に向かおうとしたとき、廊下の角から声が聞こえてきた。
騎士の傷の手当てを待っていた、中年の女性の声だった。息子の火傷を案じて何日も神殿に通い詰めていると、神官から聞いていた。
「……前の聖女様なら一瞬だったのに。あの方はいつもすぐに治してくださったわ」
同行の侍女らしき女性が「しっ」と声を潜めた。しかし母親は止まらなかった。
「あの方は本当に聖女様なの? 今日の光、ほとんど変わらなかったじゃないの。息子の傷が——」
声が詰まった。
廊下の壁の陰で、一人の若い神官が足を止めた。
中年の女性の言葉を聞いていた。目が細くなり、それから広間の方へ向き直る。表情は静かだ。しかし何かを考えている目だった。
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メリアが控えの間に戻ろうとしたところで、その若い神官が歩み寄ってきた。
「聖女様。もしよろしければ——こちらの方にも、お時間をいただけますでしょうか」
神官が示した先に、椅子に腰かけた少女がいた。神殿の慈善活動で週に何度か来る孤児院の子供だろう。左腕に白い包帯が巻かれている。
メリアの胸が冷えた。
(断りたい。でも——断れない)
神官の目が、穏やかだった。穏やかすぎた。怒りも、疑いも表面には出ていない。だからこそ——断ることができない。
「……はい。もちろんですわ」
少女の前に跪いた。包帯の下の傷は、軽度の切り傷だ。これなら、まだ残っている力で——。
メリアは石に手を当てた。
光よ、出て。どうか、今だけ。
指先が、かすかに輝いた。
少女が首を傾けた。わずかな光が傷の周りを漂い——そして。
石が、完全に光を失った。
一瞬だった。石の中の熱がすっと消えて、掌の中で石がただの石になった。
すぐ隣に立っていた修道女が、息を飲んだ。
「聖女様……光が……」
修道女の声は小さかった。しかし広間に反響した。
メリアは立ち上がった。顔が青くなるのを感じながら、声を整えた。
「体調が優れないだけです」
声が、震えた。
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神官長が、広間の遠い端から、この場面をすべて見ていた。
何も言わなかった。
ただ——見ていた。
その沈黙が、怒りの声よりも、問い質す言葉よりも、ずっと重かった。
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その日の夕刻。
王城南棟の一室で、バウム顧問が記録用紙を広げていた。
七十年近く宮廷に仕えた老魔法師は、今朝の神殿での出来事を既に聞き及んでいた。神官長とは旧知の仲だ。
記録用紙には、この二ヶ月間のメリアの「聖女の光」の計測データが並んでいる。
バウム顧問は老眼鏡を直し、数値の推移をゆっくりとなぞった。
「聖女と称する者の治癒効果——」
呟きながら、新しい記録用紙を取り出した。羽根ペンにインクをつけ、几帳面な文字で書き始める。
「本日の観測記録。対象:メリア・シュヴァルツ。治癒対象:火傷の騎士。結果——」
ペンが一瞬止まった。
「——通常の光属性魔法と差異なし」
書き終えて、ペンを置いた。
「道具が古くなるのと、同じ弱り方だ」
老人は記録用紙を閉じた。
これを報告する先は、既に決めている。しかし——もう少しだけ、確認が必要だった。確信を持って報告するのが、七十年の経験で得た流儀だ。
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夜。
メリアは自室に戻り、扉に鍵をかけた。
灯りは小さな蝋燭を一本だけ。部屋を暗くして、胸元から石を取り出した。
掌の上で、聖光石が鈍い光を放っている。
いや——放っていない。今日の広間での一瞬以来、光はほとんど消えていた。蝋燭の炎の方が、よほど明るい。
(新しい石を手に入れなければ)
闇商人に発注したのは、もう二週間前だ。高品質の聖光石。費用はアルフレートの名義で支払う手筈だった。しかし——まだ届かない。
指先が、小さく震えた。
今日の修道女の声が耳に残っている。「聖女様……光が……」
それを見ていた神官長の沈黙が、もっと耳に残っている。
(まだ大丈夫。証拠はない。この石が光る限り、私は聖女だ)
石の表面を撫でた。温度は——冷たい。
蝋燭が、ちりちりと音を立てて燃えていた。
辺境の夜。
わたくしは自室の窓際で、窓辺の植物——もう「芽」と呼ぶには大きくなった——に水をやっていた。
蕾が、膨らんでいる。今朝より少し、開きかけているように見えた。
(もう少しね。もう少しで、咲く)
ヨハンナが淹れてくれたカモミールティーに口をつけながら、今日一日のことを振り返った。
辺境ブランドの印章ができた。ルドルフが動き始めた。
そして——カイン様の言葉。
(印は——よくできている)
頬が熱い。
春の夜風が、開けた窓から入ってくる。星が近い。王都では見えなかった星が、いつも通り手の届きそうな場所で光っている。
(王都のことは、考えなくていい。わたくしの世界は、今ここにある)
蕾がもう少し開いたら。この感情にも、名前をつけなければならない日が来るのだろう。
(でも——もう少しだけ。もう少しだけ、このままで)
カモミールティーを飲み干して、灯りを消した。
辺境の夜は、静かだった。
——王都の夜も、静かだろうか。蝋燭一本の暗い部屋で、何かが終わりかけていることに気づかないふりをしている人が、いるのだろうか。




