第36話「母が遺したもの」
第36話「母が遺したもの」
帰り道の馬車は、行きよりも揺れが少なかった。
同じ道のはずなのに——たぶん、御者が帰路に慣れたのだろう。あるいは、わたくしの体が揺れに馴染んだだけかもしれない。
カイン様はミルト村に残った。帰路の護衛はディートリヒが務め、カイン様はガルスと燻製の量産体制の打ち合わせを続けるという。
「明日には俺も戻る」
出発前にそう言った。短い言葉だったけれど、「待っていろ」というふうに聞こえたのは、わたくしの気のせいだろうか。
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帰りの馬車には、わたくしとヨハンナが乗っていた。
ディートリヒは先頭の馬車の御者台で護衛を兼ねている。つまり——馬車の中は、わたくしたち二人きりだった。
窓の外を、大河沿いの春景色が流れていく。雪解け水に膨らんだ川面、岸辺の緑、風に揺れる名も知らぬ白い花。
ヨハンナはしばらく黙って景色を見ていた。それから、静かに口を開いた。
「お嬢様。ミルト村で大河をご覧になったとき——何か、お感じになりましたか」
「川を、ですか? ええ、大きくて力強い川でしたわ。水産加工の可能性を考えるのが楽しくて——」
「いいえ、そういうことではなく」
ヨハンナの声が、いつもより少し低かった。
「大河そのものに——懐かしさのようなものは、ございませんでしたか」
懐かしさ。
不思議な問いかけだった。わたくしは首を傾げた。
「特には……。わたくしが初めて見る川でしたわ」
「そうですね。お嬢様は——初めてですね」
ヨハンナが何かを確かめるように頷いた。そして、膝の上に置いた手をゆっくりと組み直した。
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「お嬢様のお母様のことを——少し、お話ししてもよろしいですか」
心臓が、小さく跳ねた。
母の話。
以前、カイン様のお母様——リーゼロッテ様の肖像画を見たとき、ヨハンナとエリナの母について少し話した。あのとき、わたくしは自分の母との距離感を口にした。
「お母様のこと——はい、聞きたいですわ」
「お母様のお名前は——マルグリット様と仰いました」
マルグリット。
その名前を聞いた瞬間、胸の奥で何かが揺れた。エリナとしてのわたくしは、その名前を知っている。知っているけれど、あまり口にしたことがなかった。
「マルグリット・フォン・エッシェンバッハ。ヴァルトシュタイン公爵家に嫁がれる前のお名前でございます。エッシェンバッハ侯爵家のご令嬢で——花を愛される、静かなお方でした」
「花を……」
「特に野の花がお好きでした。庭師が整えた薔薇よりも、道端に咲く小さな花を摘んでくるような方で。お嬢様がお生まれになったとき、産着に野の花を刺繍してくださったのを覚えております」
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ヨハンナの目が、遠くを見ていた。
窓の外ではなく、もっと遠い場所——三十年以上前の、公爵邸の光景を。
「マルグリット様は——実は、この辺境に嫁いでこられるはずだったのです」
「え?」
わたくしは思わず身を乗り出した。
「母が——辺境に?」
「はい。マルグリット様と、先代の辺境伯夫人——カイン様のお母様、リーゼロッテ様は、王立学院時代のご学友でした。とても親しく、文通を続けておられました」
(母とカイン様の母親が——友人だった?)
胸の奥で、何かが音を立てて繋がった。
「リーゼロッテ様が辺境に嫁がれた後も、お二人の手紙は続きました。リーゼロッテ様はよくお手紙に、大河の景色を描いて送ってくださったそうです。春の川辺に咲く白い花、秋の鮭の遡上、冬の凍てついた水面に朝日が差す様子——」
(あの白い花。昨日、馬車の窓から見た。大河の両岸に群生していた花——)
「マルグリット様はそのお手紙を読んで、『いつかわたくしもあの大河を見たい』と仰っていました。そして——」
ヨハンナが少し言葉を切った。
「先代の辺境伯様が、弟君のためにお嫁を探しておられたのです。リーゼロッテ様のご紹介で、マルグリット様にお話がまとまりかけた時期がございました」
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「まとまりかけた——では、成立しなかったのですか」
「ヴァルトシュタイン公爵様との婚約が先に決まりました。家と家の政略でございます。エッシェンバッハ侯爵家にとって、公爵家との縁組は辺境伯家の弟君との縁組よりずっと格上でした。断る理由がなかったのです」
「お母様は——どう思われたのですか」
「……わたくしの見たところでは」
ヨハンナが膝の上の手を、少しきつく握った。
「マルグリット様は、辺境に行きたかったのだと思います。お手紙で読んだ大河を、ご自分の目で見たかった。でも——家の決めたことに逆らう方ではありませんでした。静かに、公爵家にお嫁入りされました」
わたくしは、黙って聞いていた。
声が出なかった。
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「マルグリット様は公爵家で立派にお勤めを果たされました。お嬢様をお産みになって、その四年後にクラウス様を——いえ、クラウス様が先でお嬢様が後ですわね」
(ええ。お兄様の方が年上だもの)
「けれど——体がお強い方ではありませんでした。クラウス様、お嬢様と続けてお産みになった後は、お体を崩されることが多くて。お嬢様が物心つく頃には、もう寝台にいらっしゃることがほとんどでした」
「はい。わたくしも——お母様の記憶は、いつもお布団の中だったように思います」
「それでもお手紙だけは続けておられました。リーゼロッテ様が亡くなった後も、辺境の景色を描いた手紙を大切にしまっておられて——」
ヨハンナの声が、わずかに震えた。
「お嬢様がこの辺境を選ばれたと聞いたとき、わたくしは——」
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馬車が揺れた。
小さな石を踏んだのだろう。でもヨハンナの声は、揺れに紛れなかった。
「運命のようなものを感じました」
「運命——」
「マルグリット様が行けなかった場所に、お嬢様が来られた。マルグリット様が手紙でしか見られなかった大河のほとりに、お嬢様は立っておられる」
わたくしの目が、じわりと熱くなった。
(母が——行きたかった場所に、わたくしは来ている)
婚約破棄がなければ、わたくしは辺境に来なかった。アルフレートに捨てられなければ、この地を選ばなかった。
悲しい出来事の果てに、ここにいる。
でも——その「ここ」は、母が憧れた場所だった。
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「ヨハンナ」
「はい」
「お母様は——わたくしが辺境に来たことを、ご存じなのですか」
ヨハンナが少し間を置いた。
「公爵様のお側におられますから、ご存じではあると思います。ただ——お手紙は」
「ありませんわ。辺境に来てから、一度も」
「……はい」
(わかっている。母はいつも——遠かった。前世でも。今世でも。手紙が来ないのは、嫌われているからではないと思う。ただ——母にはいつも、何かが足りなかった。手を伸ばす力が)
でも今は、不思議と——怒りは湧かなかった。
代わりに、悲しみとも違う、温かい痛みのようなものが胸に広がった。
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「ヨハンナ。もうひとつだけ教えてください」
「何でございましょう」
「お母様がいつも大切にしていた手紙に——大河の白い花のことは、書かれていましたか」
ヨハンナが微笑んだ。目尻に皺が寄る、温かい笑みだった。
「はい。『春になると大河の岸辺に白い花が咲く。こちらの人はヴァッサーブルーメと呼んでいる。水の花という意味だそうだ。来年の春、一緒に見たい』——リーゼロッテ様からマルグリット様へのお手紙に、そう書いてありました」
ヴァッサーブルーメ。水の花。
昨日、馬車の窓から見た白い花。大河の両岸に群生していた、名前を知らなかったあの花。
名前を、今知った。
母が——見たかった花の名前を。
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馬車が城門に近づく頃には、空が夕暮れの色に変わっていた。
グラフ城の石壁が見えてきた。帰ってきた、と思った瞬間に——不思議な安堵が胸に広がった。
(ここが、わたくしの場所だ)
馬車を降りたとき、ヨハンナがわたくしの手をそっと握った。
「お嬢様。マルグリット様がお手紙を出さないのは——きっと、お嬢様が心配だからではなく、信じているからでございます。あの方はそういう方でした。大切な人が大丈夫だと——信じて、待つ方でした」
「……ありがとう、ヨハンナ」
声が震えた。
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自室に戻って、窓辺に立った。
夕陽に染まった辺境の景色。遠くに大河の輝きがかすかに見える。石壁の向こうには城下の灯りが灯り始めている。
窓辺の鉢植えの芽——もう芽とは呼べない。葉が何枚も開いて、茎がしっかりと伸びている。
(お母様。わたくし——ここで、ちゃんと生きています)
声に出した。小さな声で。
窓の外の風が、その言葉を攫っていった。
(あなたが行きたかった場所に、わたくしは来ました。あなたが見たかった大河を見ました。あなたの友人が愛した土地で、わたくしは——根を張っています)
涙が一筋、頬を伝った。
悲しいのではない。
嬉しいのだ。
前世では知らなかった。母がどんな人で、何を望んでいたか。二十六年間、母のことをよく知らないまま死んだ。
でも今世では——少しだけ、知ることができた。
マルグリットという名前の女性が、野の花を愛し、辺境に憧れ、手紙を大切にしまっていた。それだけのことだけれど——それだけで、世界が少し温かくなった。
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涙を拭いて、顔を洗って、廊下に出た。
夕食の前に管理棟に寄って、ミルト村の記録を整理しておきたかった。
角を曲がったところで——足音が聞こえた。
カイン様の足音だ。
(え? カイン様はミルト村に残ったはずでは)
角の向こうから、カイン様が現れた。外套に旅の埃がついている。馬で戻ってきたのだろう。「明日には戻る」と言っていたのに。
カイン様がわたくしの顔を見た。
足が止まった。
深緑の目が、わたくしの目をまっすぐに見ている。
「……泣いたのか」
(見つかった)
目の赤みは、もう引いたと思っていたのに。この人は——いつも、見えないものが見える。
「いいえ。ただ——少し、嬉しかっただけです」
「嬉しくて泣くのか」
「……たまに、ございます」
カイン様は何も言わなかった。
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追及しないのが、この人だ。
理由を聞かない。説明を求めない。ただ——そこにいる。
廊下の灯りが石壁に長い影を落としていた。夕暮れの冷たい空気が、窓のない廊下を抜けていく。
カイン様がそばに立っていた。一歩分の距離。近すぎず、遠すぎない。
「……飯は食ったか」
「まだですわ」
「行くぞ」
それだけ言って、食堂の方へ歩き出した。
わたくしは——少し遅れてその背中を追った。
何も聞かなかった。何も言わなかった。ただ、そばにいてくれた。
そのことが——どんな言葉よりも、温かかった。
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食堂で夕食を取った。カイン様は向かいに座って、いつも通り黙々と食べていた。
「ミルト村のガルスと話がまとまった。燻製の作業場を村の共同施設として建てる」
「カイン様——それを決めるために、今日中にお戻りになったのですか」
「……話が早い方がいい」
(嘘だ。それだけじゃない。でも——追及しないでおこう)
「ありがとうございます。明日、ルドルフに手紙を書きますわ」
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夜。
自室のベッドに横になった。
窓辺の鉢植えが、月明かりの中で葉を広げている。
今日知ったことが、頭の中でゆっくりと並び替えられていく。
母がこの辺境に嫁ぎたかったこと。カイン様の母と友人だったこと。大河の白い花——ヴァッサーブルーメを見たかったこと。
偶然だろうか。
それとも——。
(運命、とヨハンナは言った。わたくしはそういう言葉を簡単には信じない。前世のOLとしての合理的な自分が「偶然の重なりに意味を見出すのは認知バイアスだ」と言っている)
でも。
合理では説明できないものが、この世界にはある。
土に触れたときに指先が光ること。魔法が当たり前に存在すること。そして——婚約破棄という不幸の果てに、母が望んだ場所に辿り着いたこと。
(偶然でも、運命でも、どちらでもいいわ。大事なのは——わたくしがここにいて、ここで生きていること。それだけ)
目を閉じた。
廊下でカイン様がそばに立っていてくれた温もりが、まだ残っている。
泣いた理由を聞かず、ただそこにいてくれた人。
(この温もりの正体を——わたくしは、いつか認められる日が来るのだろうか)
川の水音が、記憶の中で静かに流れていた。
母が見たかった川の音。
わたくしが、今日聞いた川の音。
同じ川だ。
目頭がもう一度熱くなったけれど、涙にはならなかった。
代わりに——微笑んだ。
暗い部屋の中で、誰にも見えない微笑みを。
おやすみなさい、お母様。
明日もわたくしは、ここで生きます。




