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婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜  作者: きなこ
第2章「辺境の花、咲き始める」

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第35話「燻製とブランド」

第35話「燻製とブランド」


 朝靄の中に、煙が立ち昇っていた。


 ミルト村の川辺。昨日ガルスに頼んで組んでもらった石の台から、白い煙がゆっくり上がっている。川の水音と、遠くで鳥の声。春の朝の空気に、木の甘い匂いが混じり始めた。


(前世で読んだだけの知識だけれど——やるしかない)


---


「それで——煙で魚を炙るってのは、具体的にどうするんで」


 ガルスが腕を組んで燻製台を見下ろしていた。隣にはミルト村の漁師が五人。全員が半信半疑の顔をしている。


「まず、魚を三枚におろして塩に漬けます。塩は水分を引き出して、雑菌の繁殖を抑えますわ。二時間ほど漬けたら水で洗って、ここからが干し魚と違います——木材の煙で、じっくりと燻すのです」


「一日も待って、何が変わるんだ」


「煙には殺菌の力があります。木の成分が魚の表面に膜のように付いて、品質が長く保たれますわ。十日以上、この味と品質を保ったまま——王都まで届けられます」


 漁師の一人が首を傾げた。


「王都ったら、貴族のお屋敷だぞ。うちみたいな小さな村の魚がそんなところに」


「作ってみてから、判断しましょう」


---


 切り身を並べ、グラフブナのチップに火を入れた。


(前世の知識では、桜やりんごの木が燻製に良いとあった。ブナ系なら代替になるはず)


 炎ではなく、くすぶるような煙が出るように火加減を整える。白い煙が隙間からゆっくり漏れ出した。木の甘い香りが、川辺の空気に溶けていく。


「あとは——半日ほど、煙に任せます」


「待つだけでいいのか」


「はい。焦ると失敗しますわ」


---


 午後も半ばを過ぎた頃。


 燻製台の蓋を開けた。


 薄くなった煙の奥に——琥珀色に輝くサーモンの切り身が並んでいた。


 表面にしっとりとした艶があり、煙の膜がうっすらかかっている。色も、質感も、匂いも——干し魚とは明らかに違った。木の芳醇な香りと、サーモンの脂の甘さが混じり合って、鼻腔をくすぐる。


「おい……何だこの匂いは」


 ガルスが鼻をひくつかせた。


「味見をしましょう」


 わたくしは切り身をひとつ取り出し、薄く切った。


「どうぞ」


 ガルスが一切れを口に入れた。咀嚼した。目が丸くなった。


「こいつは——うまい」


 声の色が変わっていた。


 隣の漁師も手を伸ばした。


「干し魚とは全然違う。脂が残ってる。それに——この煙の香りが、鼻から抜けるような」


 ガルスがわたくしをまっすぐ見た。


「このお嬢様は——本物だ」


---


 カイン様が近づいてきた。


 馬の世話を終えたのだろう。外套に干し草がついている。


 ガルスが切り身を差し出した。


「カイン様。一口いかがですかな」


 カイン様は無言で受け取り、口に入れた。咀嚼した。


 わたくしは——正直に言えば、緊張していた。


(この人の「いい」は、社交辞令では絶対にない)


「……悪くない」


 短い二語。


 わたくしはもう知っている。この人の「悪くない」は、最上級の褒め言葉だ。


 カイン様が盆の上の切り身に目を落とした。


「もう一切れ」


 ちょうど同じ瞬間、わたくしも残った一切れに手を伸ばしていた。


 指先が触れた。


 ほんの一瞬。小さな、何でもない接触。


 でも二人とも、手を引いた。


 一秒の沈黙が落ちた。


「先に取れ」


 カイン様の声が、わずかに低かった。いつもより半音低い——この人が照れているときの声だ。


「い、いえ。カイン様がどうぞ」


「……お前が取れ」


「では——失礼いたします」


 わたくしが切れ端を取ったとき、横でガルスがにやりと笑っているのが視界に入った。


(ガルス。その顔は何ですか)


 漁師たちも何か察したように、そっぽを向いている。


---


 翌週、ルドルフから報せが届いた。


 封を開けると、あの赤毛の商人の癖のある文字が踊っている。


「三日ですよ、三日。初回の納品分、全部捌けました。王都の食材商が二軒とも追加を寄越してきた。他にも卸したいって声が三件。エリナ様、あたしの目に狂いはなかった」


(三日で完売——保存食で三日は早い。辺境の名前がまだ浸透していない中でのこの速さは、味で勝った証拠だわ)


---


 その日の午後、ルドルフ本人がグラフ城にやってきた。


 管理棟の応接間で向かい合う。ルドルフは帳簿を広げる前に、にやりと笑った。


「エリナ様。燻製サーモンの箱を開けたときの食材商の顔が忘れられませんよ。口に入れた瞬間に黙りましてね。飲み込んだ後に『これ、どこの産だ』と」


 追加注文の一覧を見た。燻製サーモン百枚、塩漬け肉の追加八十枚、干し果物の新規注文が二件。温室栽培のグラフ香草は「いくらでも送ってくれ」と書いてある。


「グラフ香草は温室の生産量がまだ限られていますわ。無理な増産は品質を落としますから、出荷量は月ごとに調整させてください」


「さすが。あたしが言う前に釘を刺しましたな」


(供給が需要に追いつかないときに無理をすると、信用を失う。信用を一度失ったら、取り戻すのに十倍の時間がかかる。前世で何度も見た失敗だ)


---


 注文の整理がひと段落したところで、わたくしは温めていた提案を切り出した。


「ルドルフ、辺境から出荷している産品は今、十種ほどありますわね。それぞれ品質は高い。でも——ばらばらに売るのではなく、すべてに統一の印をつけたいのです」


 ルドルフが帳簿から顔を上げた。


 わたくしは手帳を開いた。昨夜描いた図を見せる。


「グラフ辺境伯領の紋章——山と河の簡略版です。すべての産品に、この印を付けて出荷します。印が付いている品は、辺境が品質を保証する。検品を通った品だけが印を使える。つまり——」


「印そのものが、信用になる」


 ルドルフの琥珀色の目が光った。


「辺境の名を、品質に結びつけるわけですな。なるほど」


(産地の名を品質の証にする。前世ではどこでもやっていた仕組みだけれど、この世界にまだないなら——先に作ったほうが勝つ)


「ただし、条件を設けたいのです。検品に通った品だけが印を使えます。基準に満たないものは、印なしの通常品として出荷する。印の価値を守るために——妥協しない。これが一番大切です」


 ルドルフがしばらく黙った。それから、深く頷いた。


「エリナ様。あたしは十八年商売をやっていますが、こういう考え方をする人に会ったのは初めてですよ。品を売る前に、信用を作ろうとしている」


「ありがとうございます」


「あたしの商会から王都に送る荷には、全部その印をつけましょう。間違いない、あたしが保証します」


---


 商談を終えて、ルドルフが帰る前に城門のところで立ち話をした。


 春の日差しの下で城下を眺めながら、ルドルフが不意に声を落とした。


「エリナ様。ひとつ、あたしが口を出すことじゃないんですがね」


 商人の顔ではなかった。どこか世話焼きの年長者のような、柔らかい目だ。


「カイン様——あなたの話になると、目が変わりますよ」


「……え?」


「あの方、普段は鉄でできたみたいな顔をしてるでしょう。でもあなたの話が出ると——目の奥が光るんです。燻製の試食のときもそうでした。あたしには見えましたよ」


 わたくしは、何を言えばいいかわからなかった。


「カイン様は、誰の仕事でも正当に評価される方ですから——」


 ルドルフが呆れたように笑った。


「ま、あたしが口を出すことじゃないですな。商売以外のことは専門外でしてね」


 帽子を被り直して、御者台に登った。


「辺境ブランドの件、動きますよ。最初の印入りの荷は、来月の頭には王都に届けます。——それじゃ、お元気で」


---


 ルドルフが去った後、わたくしはしばらく城門に立っていた。


 春の風が、ルドルフの言葉をさらうように吹き抜ける。


(目が変わる——?)


 川辺の燻製試食のとき。「悪くない」と言った声。もう一切れに手を伸ばした瞬間に、わたくしの指先に触れた手の温度。


「先に取れ」という低い声。


 あの場面が、何度も頭を流れる。


(……ベルンハルトは「声が変わる」と言っていた。ディートリヒは「笑っている」と言った。そしてルドルフは「目が変わる」と言う)


 三人が、別の場所で、別の機会に。同じ人について。同じことを。


 頬が、じわりと熱くなった。


(考えすぎよ。仕事の話に戻りなさい、わたくし。辺境ブランドの運用方針を詰めないと。検品基準の策定、印章の発注——やることは山ほどあるのだから)


 自分に言い聞かせて、管理棟に戻った。


 お茶の時間の残り香がまだ漂っていた。カイン様の席に白湯の器が置きっぱなしになっている。


 片付けようとして——器に触れた。


 まだ、ほんのりと温かかった。


(……やめて。仕事。仕事に集中するの)


 窓辺の芽が、春風に揺れていた。蕾が少し膨らみ始めている。いつ花が開いてもおかしくない。


 辺境ブランドの印が王都に届く日を——待ちきれないように、胸が騒いでいた。


 仕事のせいだ。きっと。


 たぶん。


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