第34話「ミルト村への道」
第34話「ミルト村への道」
帳簿の中に、一本の川が流れていた。
もちろん比喩だ。でも、四半期の数字を眺めるたびに、そこに映っていなかった線があることに気づく。保存食の出荷、温室野菜の自給、木材と毛皮の輸出——陸路の産品は着実に伸びていた。しかしグラフ辺境伯領を南北に貫くあの大河は、帳簿の上ではほとんど存在していなかった。
(前世で言うところの、未活用資産。それも大きな)
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朝のお茶の時間。
カイン様が白湯を手に取ったところで、わたくしは切り出した。
「カイン様。ミルト村のことを、お聞きしてもよろしいですか」
白湯を口に運びかけた手が、わずかに止まった。
「ミルト村か」
「はい。大河の下流にある漁村とお聞きしました。グラフの大河は豊かな水量がありますのに、水産物の出荷がほとんど記録されていません。もったいないと思いましたの」
カイン様が白湯を飲んだ。それから、テーブルの上のわたくしの手帳に目を落とした。
「ミルト村は半日の馬車旅だ。大河沿いの小さな漁村で、サーモンが豊富に獲れる」
「サーモン」
(サーモン。保存食として加工できれば、王都への新しい商品になる。ルドルフなら興味を示すはずだわ)
「しかし鮮度が持たない。王都まで十日かかる。魚は足が早い」
「ええ。だからこそ、加工の技術が必要ですわ。視察に行きたいのですが」
カイン様が一瞬黙った。
「俺も行く」
「え」
「危険な道だ。大河沿いは春先に増水で崩れることがある」
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(危険な道だから、ですか。それは確かに事実なのでしょうけれど)
カイン様の深緑の目は、まっすぐこちらを見ていた。いつもの表情——感情を読ませない顔だ。でも最近、この人の「いつもの表情」の裏に何があるのか、少しだけ分かるようになってきた。
(危険な道だから、は——たぶん、半分くらいしか本当じゃない。残りの半分は、言わないつもりなのでしょう、カイン様)
「ありがとうございます。心強いですわ」
カイン様がうなずいた。そして白湯を飲み干して、カップをテーブルに置いた。
こつん、と小さな音。この音が、最近やけに好きだ。
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翌朝。
城門の前に二台の馬車が用意されていた。先頭の馬車にカイン様とわたくし。後ろの馬車にヨハンナとディートリヒ。
出発前に、ディートリヒがにこやかに告げた。
「後方の馬車にはわたくしとヨハンナ殿が乗りますので、お気遣いなく。荷物もございますから」
(……なぜそこで「お気遣いなく」と言うのでしょう、ディートリヒ。もしかして気を遣っているのはあなたの方では)
ヨハンナは何も言わなかった。ただ口元に、あの含みのある微笑みを浮かべていた。
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馬車が動き出した。
車輪が石畳を離れて土道に入ると、揺れが少し大きくなった。窓の布を上げると、辺境の春が目の前に広がっていた。
グラフの大河は、春の雪解け水で幅を増していた。冬の間は凍りついていたはずの水面が、今は勢いよく流れている。両岸には柔らかな緑が広がり、名前の知らない白い花が群生していた。
(きれい。この世界の川は——自然のままだ。人間の都合なんて知らないという顔で、悠々と大地を削りながら流れている)
「大きな川ですわね」
「王国でも有数の大河だ。源流は北の山脈から来ている」
カイン様は向かいの席に座って、窓の外を見ていた。陽の光が深緑の目に映って、普段より少し明るく見える。
しばらく、お互い黙って景色を見ていた。
馬車の揺れと、川の水音と、遠くで鳥が鳴く声。
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しばらく、黙ったまま景色を見ていた。カイン様との沈黙は、いつも心地よい。何も言わなくていい。何も言わなくても、ここにいていい。そういう静けさだった。
そんなことを考えていたら、カイン様が口を開いた。
「この川は——」
わたくしは少し驚いた。この人が、自分から話し始めるのは珍しい。
「俺が子供の頃から変わらない」
窓の外に視線を向けたまま、カイン様は静かに言った。
「父に連れられて、釣りをした。この川の少し上流に、岩場がある。そこで」
(カイン様が——子供の頃の話を?)
胸の奥がぎゅっと締まった。
城の中では常に領主として振る舞うこの人が、自分の過去を語るとは思わなかった。
「釣りは——お好きだったのですか」
「好きだったかどうかは覚えていない。ただ、父が嬉しそうにしていたのは覚えている」
カイン様の声は、いつもと少しだけ違った。低いのは同じだけれど、硬さが薄い。
(この人も、子供の頃があったんだ)
当たり前のことだ。でも——わたくしはこの人を「最初からこう」だったかのように見ていた。寡黙で、不器用で、背筋の伸びた武人。それ以外の姿を知らなかった。
「お父様は、お釣りがお上手だったのですか」
「下手だった。俺の方が先に釣れた」
(え)
ほんのわずかに——本当にわずかに——カイン様の口元が動いた。笑みとは言えない。でも、記憶を辿っているときの、柔らかい表情だった。
わたくしの心臓が、とくん、と鳴った。
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馬車は大河沿いの道をゆっくりと南下していった。
道は想像していたよりも整っていたが、一箇所だけ、川岸が崩れかけた場所があった。馬車が大きく揺れて、わたくしは思わず座席のへりを掴んだ。
「大丈夫か」
カイン様の手が伸びた——わたくしの肩に触れかけて、止まった。
「はい、大丈夫ですわ」
カイン様は何も言わず、手を引いた。窓の外に視線を戻した。
(今——触れようとした。でもやめた。この人は、いつもそうだ。手を伸ばして、引く。言いかけて、やめる)
頬が少し熱くなった。春の日差しのせいだと、自分に言い聞かせた。
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昼前に、ミルト村が見えてきた。
大河の中流に面した小さな村だった。石造りの家が十数軒、岸辺に寄り添うように建っている。干し網が風に揺れ、川辺には小舟が何艘も繋がれていた。空気に魚の匂いが混じっている。
馬車が止まると、村の入口に数人の人影が見えた。
先頭に立っていたのは、日焼けした大柄な男性だった。白髪交じりの短い髪に、深い皺が刻まれた顔。腕が太い。漁師の手だ、と一目でわかった。
「ようこそいらっしゃいました、カイン様。遠くからお越しくださるとは」
「ガルス。久しぶりだな」
カイン様がうなずいた。この人はガルスというのか。村長だろうか。
ガルスの視線がわたくしに移った。
「こちらが——噂の」
「領地開発顧問の、エリナ・フォン・ヴァルトシュタインでございます。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
頭を下げた。貴族の礼ではなく、商談相手に向ける丁寧な一礼。取引先を訪問するときの癖が、ここでも出る。
ガルスが少し意外そうな顔をした。
「……はあ。ご丁寧に。あたしはガルス。この村の漁師頭をやっとります。まあ、村長みたいなもんですな」
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村を歩いた。
ガルスが案内してくれた。川辺の船着き場、干し網の作業場、魚を保管する冷暗所。小さな村だが、漁に関しては長い歴史があることがわかった。
「サーモンは春と秋が旬でしてな。この時期はまだ走りですが、もう少しすれば大河を遡上してくるのが見えますわ」
「年間の漁獲量はどのくらいですか」
「さあ……数えたことはありませんな。食う分だけ獲って、余れば干して、それでも余れば近くの村に分けるくらいで」
(数えたことがない。つまり、漁獲量の記録も、販売実績もない。そこがまず改善すべき点ね)
わたくしは手帳に書き留めた。
村の若い漁師たちが遠巻きにこちらを見ていた。好奇の目だが、友好的とは言い切れない。
ひとりが、隣の男にひそひそと耳打ちした。
「城のお嬢様が魚のことなんか分かるのかね」
声は小さかったが、聞こえた。
ガルスが振り返って「おい」と低い声を出したが、わたくしは首を振った。
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「当然の疑問ですわ」
わたくしは立ち止まって、漁師たちの方を向いた。
「わたくしは魚を獲ったことがありません。網の張り方も、船の漕ぎ方も知りません」
漁師たちの目がわずかに丸くなった。令嬢が自分の無知を認めるとは思わなかったのだろう。
「でも、ひとつだけ知っていることがあります」
わたくしは川を指差した。
「この川の魚は美味しいのに、この村の外にほとんど届いていない。それは——もったいない」
ガルスが腕を組んだ。
「まあ、そりゃそうだが。魚は足が早い。干し魚にすりゃ持つが、味は落ちる。遠くに売ったことなんかねえしな」
「ええ。だから、わたくしは別の方法を考えたいのです。皆様の魚を、遠くの食卓にも届けられるような——」
(低温を保ったまま運ぶ仕組みは、この世界では無理だけれど。別の保存技術なら)
「すぐにお話しするのではなく、まずは皆様のお仕事を見せていただけませんか。知らないことは、見て学びますわ」
ガルスが、少しだけ眉を上げた。
「……面白いお嬢さんだな。いいだろう。見て回るがいい」
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午後いっぱいをかけて、ミルト村の漁業の実態を見て回った。
漁の方法、使う道具、魚の種類、保管の仕方。手帳にびっしりと書き込んだ。漁師たちは最初こそ余所余所しかったが、わたくしが細かい質問を次々にぶつけるうちに、少しずつ口が軽くなった。
「このお嬢さん、聞き方がうまいな」
漁師のひとりが、隣の男と顔を見合わせていた。
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夕暮れ時。
大河のほとりに立った。
水面が夕陽で金色に染まっていた。対岸の森が黒いシルエットになって、空は橙から薄紫へ移り変わっている。
春の大河は、ゆったりと、けれど力強く流れていた。雪解け水の冷たさを含んだ風が、髪を揺らす。
カイン様が少し離れたところに立っていた。村の視察中はずっとわたくしの後ろにいて、ほとんど口を開かなかった。視線だけは常にこちらにあった気がするけれど——確かめはしなかった。
水面を見つめた。
金色に光る波紋の下を、大きな魚影がすうっと横切った。サーモンだ。銀色の鱗が夕陽を弾いて、一瞬だけきらりと光った。
(この川の魚を——王都の食卓に届けられたら)
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頭の中で、記憶が動き始めた。
(前世で勤めていた頃、先輩が言っていた。「物流の勝負は鮮度じゃない。保存と加工だ」。冷蔵技術がなかった時代、どうやって食品を遠くに運んだか)
干す。漬ける。塩蔵する。そして——燻す。
(燻製だ。木材の煙で魚を燻す技術。殺菌効果と保存性が格段に上がる。この辺境には良質の木材がある)
「エリナ」
カイン様の声で、我に返った。
いつの間にか、すぐそばに立っていた。
「……何を考えていた」
「魚のことを、考えておりました」
「魚か」
「この川の魚を、王都まで届ける方法を」
カイン様がわたくしの目を見た。それから、川を見た。
「お前がその顔をしているときは——大抵、面白いことが始まる」
(その顔、とは。どんな顔をしているのでしょうか、わたくし)
「明日、試してみたいことがあるのですが」
「聞こう」
「燻製——煙で魚を加工する技術です。保存性が格段に上がりますわ。まずは小規模な試作から始めたいのですが、いかがでしょう」
カイン様はしばらく黙っていた。夕陽が深緑の目に映って、琥珀色に見えた。
「やってみろ」
短くて、力強い。
この人の「やってみろ」は、どんな上司の「承認」よりも重い。信頼の二文字が、そのまま声になっている。
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宿に戻ると、ヨハンナが夕食の支度をしてくれていた。
村の集会所を借りた簡素な宿泊だったが、ゾフィが持たせてくれた食料と、ガルスが差し入れてくれた川魚の塩焼きで、温かい食事になった。
カイン様は隣の部屋だった。壁一枚隔てた向こうに、あの人がいる。
(なぜそんなことを意識しているの、わたくし)
窓の外から、川の水音が聞こえた。
大河はまだ流れている。夜になっても止まらない。
(でも今日は、少し心地よい疲れだわ。馬車の中で、カイン様の子供の頃の話を聞けたから)
あの人の声が、まだ耳の奥に残っていた。
「父に連れられて、釣りをした」
(この人の子供の頃を、もっと知りたい)
思った瞬間に、自分の胸が熱くなったのに気づいた。
知りたい。この人のことを、もっと。
それは単なる好奇心ではない気がした。
でも——この感覚がなんなのか、考えるのはまだ怖い。
枕に顔を押しつけた。川の音を聞きながら、目を閉じた。
明日は、燻製の試作だ。記憶を総動員しなければ。
(集中しなさい、わたくし。仕事のことを考えなさい。カイン様のことじゃなくて——)
無理だった。
心臓が、川の流れと同じ速さで、静かに、確かに脈打っていた。




