第33話「数字と帰還」
第33話「数字と帰還」
城門の前で、馬の嘶きが聞こえた。
わたくしが温室から戻る途中、管理棟の角を曲がったところだった。ディートリヒが城門の方へ早足で向かっていく背中が見える。
「ディートリヒ、何かありましたか」
「ベルンハルト隊の帰還です。交易路の護衛任務から戻りました」
ベルンハルト。
その名前を聞いた瞬間、足が止まった。
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城門をくぐったのは、見覚えのある二人だった。
砂埃にまみれた外套。日に焼けた顔。馬から降りたベルンハルトは、以前よりいくらか逞しくなったように見えた。
「お久しぶりです、エリナ様」
ベルンハルトが一礼した。落ち着いた声は変わっていない。
「辺境が——変わりましたね」
城門の内側を見回しながら、ベルンハルトの目がわずかに見開かれた。
半年前にこの城を出たとき、城下はまだ冬支度の途中だった。今は春の日差しの中で市場に人が行き交い、温室から運ばれた野菜の箱が積まれている。
「すごいです。半年前とは別の土地みたいです」
レムケが素直に声を上げた。
(ああ、この素直さ。なんだか嬉しくなるわ)
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報告は管理棟の会議室で行われた。
カイン様とディートリヒ、そしてわたくし。ベルンハルトが地図を広げ、通ってきた道筋を指でなぞった。
「東回りの交易路は、グラフ城から三日の距離にあるエルスト峠までは状態が良好です。しかし峠を越えた先、ミュラー谷からカーライル伯領の境界までの区間は、かなり荒れておりました」
「どの程度だ」
「馬車が通れない箇所が四箇所。橋が落ちた場所が一箇所。春の雪解けで道が崩れた部分が多く、荷馬車は迂回路を使っていますが、迂回すると二日余分にかかります」
わたくしは手帳を取り出して、数字を書き留めた。
(四箇所の不通。橋一箇所。迂回で二日の遅延。道を直せば、交易量が一気に回復する可能性がある)
「盗賊の動向はいかがでしたか」
ベルンハルトが少し驚いたように顔を上げた。
「エリナ様がそこを聞かれますか」
「道の状態と盗賊の出没地点は、たいてい関係がありますわ。道が悪くて交通量が減る区間は、旅人が孤立しやすい」
「……仰る通りです。エルスト峠の先の二箇所で、商人が襲われたという話を聞きました。元農民が食い詰めた者たちかと」
(辺境に来る途中で出会った野盗も同じだった。飢えた人々が盗賊になる。これは治安の問題であると同時に、経済の問題でもある)
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「交易路の整備を、次の計画に入れたいのですが」
「考えていたところだ」
「道が良ければ、物も人も来ます。ベルンハルトの報告を元に、明日には見積もりをお出しできます。土砂除去は辺境の人手で対応できますが、橋は専門の技術が要ります。ルドルフに相談すれば、カーライル伯領の石工を紹介してもらえるかもしれません」
「任せる」
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夕刻、食堂でベルンハルトと改めて話す機会があった。
レムケはゾフィの出した食事に夢中で、三杯目のスープをすくっている。
「エリナ様は——以前より、逞しくなられました」
「そうでしょうか」
「半年前、辺境へ向かう馬車の中でお会いしたときと、目が違います。あのときも芯の強い方だとは思っておりましたが、今は——覚悟が違う」
覚悟、という言葉に少し胸が締まった。
「覚悟と言いますか——ここでやることが見つかっただけですわ。それだけのことです」
「それだけのこと、ではないと思います。城下の空気が変わっている。人の顔が違う」
ベルンハルトが真っ直ぐにこちらを見た。
「あなたがここにいるから、辺境は変わった。俺は——そう思っています」
(……ベルンハルト。あなたは相変わらず、ここぞという時に重い一言を放ちますわね)
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食堂を出た後、中庭を横切ったところで、ベルンハルトの声が聞こえた。
わたくしではなく、カイン様に話しかけている。
壁の影に入ったところだったので、二人からは見えていなかった。聞くつもりはなかった。でも足音を立てるのも不自然で、つい立ち止まってしまった。
「カイン様。エリナ様は——本物でございます。半年前にお会いしたときから、この方は違うと感じておりました。交易路の状況を聞き出す手際、道と治安の関係を見抜く目——護衛隊長の仕事を二年やってきた私でさえ、あそこまで的確に質問できるかどうか」
沈黙が落ちた。
カイン様の返事を待つ間、わたくしの心臓が速く打っていた。
「——知っている」
カイン様の声は短かった。
でも。
その声がほんの少し柔らかかったのは、わたくしの聞き間違いだったのだろうか。
(……最初から、ですか。カイン様は——)
壁の影でそっと息をついた。頬が熱い。
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翌日、朝のお茶の時間。
わたくしは管理棟のテーブルに、帳簿と手帳を広げていた。
帳簿に向かいながら、ふと気づくことがあった。
お茶を飲みながら、カイン様が白湯の器を両手で包んで、何か書類に目を通している。その横顔を、わたくしはどこかで見た気がする——と思ったら、毎朝見ているのだった。
でも今日は少し違って、その声を意識して聞いていた。
低くて、少し柔らかくて——でも時々、間が詰まる。
「交易路の見積もりは」
「はい。土砂除去の人件費が銀貨六十枚、橋の架け替えと道の再構築が百四十枚ほどと見込みます。前の四半期と比べて三割増しになった交易量で、一年以内に回収できます」
「そうか」
カイン様の声が、そこで少しだけ止まった。
(「詰まる」のが——なぜか気になる。報告を聞くときに、一瞬だけ言葉が遅れる。あれは——何を考えているときの間だろう)
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「カイン様、四半期の帳簿がまとまりました。ご報告してもよろしいですか」
「ああ」
わたくしは手帳を開いた。
「まず全体の収入ですが、前年同期比で約三割の増加です。保存食の出荷と温室農業の効果が主な要因ですわ。食料の域外調達費は前期の六割まで下がりました」
カイン様が白湯に口をつけながら、目だけでこちらを見た。
「さらに、ルドルフから追加注文の連絡がありまして。王都の食品商三社が辺境産品に関心を示しています。燻製肉と干し果物、それからグラフ香草です」
「三社」
「はい。本格出荷が始まれば、収入はさらに伸びます」
沈黙が落ちた。
わたくしは少し身構えた。数字が悪いわけではない。むしろ良い。でもカイン様の反応は、いつも予測がつかない。
「……よくやっている」
短い声が、静かに落ちた。
「皆様のご協力の——」
「またそれか」
カイン様が白湯の器を置いた。こつん、と小さな音がした。
「皆の協力だと言おうとしただろう」
「……はい」
「お前の、だ」
(——っ)
心臓が、跳ねた。
不意打ちだった。帳簿の数字を読み上げているだけなのに、胸の奥が震えるように熱い。
「あ——ありがとうございます」
声が少し上ずった。
カイン様は何も言わなかった。白湯に視線を落とした。
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お茶の後、カイン様が出て行ってから、ディートリヒが入れ替わるように管理棟に来た。
「エリナ様、交易路の件でお伝えしたいことがあるのですが——」
「ええ、どうぞ」
ディートリヒが書類を差し出した。
受け取りながら目を通すと、ディートリヒが不意に口を開いた。
「辺境伯は——数字の報告を聞くとき、いつも少し笑っていますよ」
「え」
わたくしは顔を上げた。
「笑って——いらっしゃいますか?」
「口元がわずかに緩む程度ですが。数字を読み上げるあなたの声を聞いているとき——いつも、少しだけ」
(わたくしが——気づいていないだけで?)
「あの——あのカイン様が笑うのですか」
「お茶の時間だけですよ。あの表情が出るのは」
ディートリヒが小さく頭を下げて、管理棟を出て行った。
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夕方。
城門を通りかかったとき、ベルンハルトとレムケが門番の交代をしているのが見えた。
二人は外壁沿いを歩きながら、声を潜めて話していた。
わたくしの耳に、風に乗った小さな声が届いた。
「辺境伯、あの令嬢のことになると声が変わるな」
ベルンハルトの声だった。
「え、そうですか?」
レムケの声。
「お前は鈍い」
「鈍いって——えっ、どういうことっすか、ベルンハルトさん」
「自分で考えろ」
わたくしは、足を止めたまま動けなかった。
(声が、変わる——?)
お茶の時間に意識して聞いていたカイン様の声。あの「詰まり」。数字を読み上げるわたくしの声を聞くとき、笑っているというディートリヒの言葉。
そしてベルンハルトの「声が変わる」。
(……気のせいですわ。きっと)
そう思いながらも、振り返ることができなかった。
確かめるのが——少し、怖かった。
夕暮れの春風が、髪を揺らした。
帳簿の数字は、わたくしの頭の中で綺麗に並んでいる。
なのに——それより先に浮かぶのは、白湯の器を置く音と、「お前の、だ」という声だった。




