第32話「お前はもっと休め」
第32話「お前はもっと休め」
朝のお茶の時間。
管理棟の窓から差し込む光は、このところ少しずつ長くなっている。テーブルの上にはカイン様の白湯と、わたくしの紅茶。いつもの配置。
けれど今朝は、カイン様の沈黙がいつもと違った。
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「最近、目の下が暗い」
白湯を口に運ぶ前に、カイン様が言った。
「……え?」
「鏡を見ていないのか」
わたくしは思わず目の下に手を当てた。確かに今朝、鏡を見たとき少しだけ影があった気がする。でも化粧水をつけたら気にならなくなったと思っていた。
(この人、そんなところまで見ているんですか)
「少し記録作業が立て込みまして——大丈夫ですわ」
カイン様の眉がわずかに寄った。
「お前はもっと休め」
「ご心配には及びません。体調は問題ございませんわ」
「倒れてから言っても間に合わない」
(……それ、前にも聞きました。温室のときと同じ台詞ですわ、カイン様)
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カイン様が白湯のカップをテーブルに置いた。
「温室の管理、帳簿の整理、フィア村への技術指導、ルドルフとの契約書の詰め。全部お前がやっている」
「ええ、はい。それがわたくしの——」
「全部一人で、だ」
遮られた。
カイン様がまっすぐにこちらを見ていた。深緑の目は、怒っているのではない。けれど穏やかでもない。
この人の心配はいつも命令形だ。
「お前はもっと休め」「倒れてから言っても間に合わない」——優しさを優しい言葉で言えない人。
でも——嫌じゃない。
むしろ、息がふっと楽になる。
(不思議ですわ。前世の上司に「もっと休め」と言われたときは、「じゃあ仕事を減らしてください」としか思わなかったのに。この人に言われると、素直に聞きたくなる。何が違うのだろう)
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「……わかりました。少し段取りを見直しますわ」
「少しじゃなくていい」
「では、だいぶ見直します」
カイン様が小さく息を吐いた。
そのとき、カイン様の手が動いた。
わたくしの方に向かって——一瞬だけ。
目の前に立って、額にそっと手が当てられた。
「熱はないか」
体が、固まった。
温かい手の平が、額の上で一秒だけ止まった。
心臓が、おかしな速さで打ちはじめる。
(カイン様。いきなり何を——)
「……問題ないようだ」
カイン様が手を引いた。
声が少し低かった。そしてわずかに——わずかに視線が逸れた。
「……顔色を見ただけだ」
咳払いをした。一回だけ、短く。
(「顔色を見ただけ」というのと「熱はないか」は——意味が違いますよね、カイン様?)
突っ込みたかった。でも声が出なかった。
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お茶の時間が終わり、管理棟の廊下を歩いていると、ヨハンナが角を曲がってきた。
「エリナお嬢様、おはようございます」
「おはようございます、ヨハンナ」
「今朝のお茶の時間は、いかがでしたか」
「……カイン様に叱られましたわ」
「叱られた、ですか」
「休みが足りないと」
ヨハンナが足を止めた。
「お嬢様。カイン様のお言葉は正しゅうございますよ」
「ヨハンナまで——」
「わたくし、昨夜お嬢様のお部屋に参りましたとき、灯りがまだついておりました。時刻は子の刻を過ぎておりましたよ」
(深夜まで記録をつけていたのは事実だけれど、バレていたとは)
「ルドルフとの契約書の確認をしておりまして」
「エリナお嬢様」
ヨハンナの声が、少しだけ母のように厳しくなった。
「お嬢様がお倒れになられたら、温室の野菜も、帳簿も、フィア村のことも、全て止まります。お嬢様がいてくださることが、この城にとって一番大切なのです」
(——カイン様と同じことを言う)
「……はい。気をつけますわ」
「よろしゅうございますね」
ヨハンナが微笑んだ。
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午前の業務を早めに切り上げて、午後は庭に出た。
こんなことは辺境に来て初めてだった。昼間に、仕事もせずに外で過ごす。
グラフ城の中庭は広くはないが、石壁に囲まれて風が穏やかだった。芝の上に毛布を敷いて座った。春の陽射しが肩に落ちる。
(何もしない午後、か)
休むことに罪悪感を覚える体質だった。「休め」と言われても、言葉の裏にある「でも成果は出せよ」を読み取ってしまう——そういう暮らしをしてきた。
でも——空が広い。
辺境の空は、王都より高い。雲が薄く伸びて、山の稜線に向かって流れていく。
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風が吹いて、図鑑のページがめくれた。押さえようとしたとき、足音が聞こえた。
見上げると、カイン様が中庭の入口に立っていた。巡回の帰りらしく、剣を腰に佩いたまま、外套に土埃がついている。
「……休んでいるのか」
「はい。カイン様に怒られますので」
カイン様の眉がわずかに動いた。
「怒ってはいない」
「では、叱られますので」
「叱ってもいない」
「ご心配をおかけしますので」
カイン様が、ほんの一瞬だけ視線を逸らした。
「心配して——」
言いかけて、やめた。
口を閉じて、それからもう一度こちらを見た。
「……城の周りは異常なかった」
話が変わった。いや、話を変えた。
「ありがとうございます、カイン様。巡回お疲れ様でございました」
カイン様がうなずいた。去ろうとして——もう一度振り返った。
「芝は、冷えるぞ」
「毛布を敷いておりますわ」
「……そうか」
今度こそ去っていった。外套の裾が風に揺れて、中庭の角を曲がる。
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しばらくして、ルーカスが走ってきた。
「エリナ様! お外にいらっしゃったんですね。探しました」
「何かありましたか、ルーカス」
「あの、ゾフィさんが。お茶菓子を作ったので、お庭で召し上がりませんかって」
振り返ると、ルーカスの後ろからゾフィが小さな盆を持って歩いてきた。盆の上には、焼き菓子が三つと、湯気の立つカップがひとつ。
「温室の蜂蜜を使った焼き菓子だよ。試作品だけど、味見してもらおうと思ってね」
「ゾフィ、ありがとうございます」
ゾフィが隣に座った。ルーカスは芝の上に直接座って、許可も取らずに焼き菓子をひとつ取った。
「おいしい!」
「あんたのために作ったんじゃないよ」
ゾフィがルーカスの頭を小突いたが、口元が笑っていた。
わたくしも一口かじった。蜂蜜のやさしい甘さと、小麦の香ばしさが口に広がる。
「とても美味しいですわ」
三人で芝の上に座って、風の中で菓子を食べた。
何でもない午後だった。
でも——こんなふうに誰かと過ごした記憶が、前世にはない。昼休みはデスクでおにぎりを食べながら午後の資料を見ていた。「休む」と「誰かと過ごす」が同時に起きることが、こんなに穏やかだとは知らなかった。
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夕刻、管理棟に戻ったとき、まだ残りの業務がある。でも今日は、子の刻になる前に切り上げようと決めた。
(「心配して——」)
あの言いかけた言葉の続きは、何だったのだろう。
「心配している」?
「心配したから言ったんだ」?
それとも——。
(考えすぎですわ。カイン様は領民全員のことを心配する方だもの)
でも。
今朝の額に当たった手の温もりが、まだわずかに残っている気がした。
「顔色を見ただけだ」と言うときに、声が低くなって、視線が逸れた。
あの咳払い一回が、何かを隠そうとしているようで——。
(……仕事に集中しなさい、わたし)
そう言い聞かせながらも、ヨハンナが夜の準備に来たとき、わたくしはもう寝巻きに着替えていた。
「あら、お嬢様。今夜はお早いですわね」
「はい。今日は早く休みますわ」
ヨハンナがわたくしの顔を見た。じっと、何かを確かめるように。
「お嬢様、最近お顔の色がよろしいですわね。頬の色が——以前より明るくなりました。お仕事が順調なせいでしょうか」
わたくしは、一瞬答えに詰まった。
仕事のせいだろうか。
(——それだけではない気がする)
「……そうですわね。仕事のおかげかもしれません」
「そうですか」
ヨハンナが微笑んだ。その微笑みには、全てを見透かしているような穏やかさがあった。五十二年を生きてきた女性の目は、ごまかしが利かない。
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灯りを消して、寝台に横になった。
窓辺の鉢植えの芽が、月明かりの中でうっすらと影を落としている。
このところ、帳簿を見ているときよりも、カイン様のことを考えている時間の方が長い。
朝のお茶の時間に、カイン様が何を言うか気になる。巡回から帰ってきたカイン様の足音が廊下で聞こえると、耳が反応する。
そして今朝の——あの額に当てられた手の温もり。
(これは——何?)
前世で、こういう感情を抱いたことがあっただろうか。
仕事に没頭していた四年間、誰かのことをこんなふうに考えた記憶がない。
こんなふうに、不器用に、黙ったまま、マントをかけてくれる人に。
(わたし、どうしよう)
答えは出なかった。
でも、心臓だけはずっと、静かに速く打っていた。
仕事のせいじゃない。絶対に。




