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婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜  作者: きなこ
第2章「辺境の花、咲き始める」

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第31話「ルドルフの提案と最初の収穫」

第35話「ルドルフの提案と最初の収穫」


 城門の前に見覚えのある荷馬車が止まったのは、午前の温室巡回から戻った直後のことだった。


 帽子を目深に被った男が御者台から軽く飛び降り、外套の胸元から帳簿を引き抜いて小脇に挟む。


 その動作だけで、誰だかわかった。


 ルドルフ・ハルト。


 春祭りの三日後に飛び込みで来た商人が、再び辺境を訪れた。


---


 管理棟の応接間に通すと、ルドルフは椅子に座る前に深々と一礼した。


「エリナ様、お元気そうで何よりです。いやあ、道中でもう辺境の噂を三回聞きましたよ」


「三回ですか」


「ええ。『冬に野菜が育っている』という話が、もう街道沿いの宿場町まで届いてましてね。あたし、急いで来ました」


 琥珀色の目が光っている。前回と同じだ。この人は商機を見つけたときに目が変わる。


(数字に正直で、匂いを追える人だ。信用できる商人の目をしている)


---


「まず報告がございます」


 ルドルフが帳簿を広げた。


「先月お預かりした保存食の試験出荷ですが——結果は上々でしてね。干し肉の燻製は即日完売、根菜の塩漬けは三日で捌けました」


「上々、ですか」


「売上の七割弱はそちらへ。輸送費・流通費を引いた手残りで、銀貨九十枚ほどになります」


 わたくしは数字を手帳に書いた。九十枚。銀貨一枚は平民の三日分の食費。つまり辺境の冬の仕事が、九十人分の一週間の食費に変わった計算になる。


(小さくない数字だわ)


「ゾフィに伝えましたら、きっと喜びますわ」


「ゾフィさんの腕は本物ですからね。あたしは流通をやっただけです」


---


 ルドルフが帳簿の別のページを開いた。


「それで本題なんですが——エリナ様、次の段階に進みませんか。辺境産品を王都に本格的に出荷しましょう」


「本格出荷、ですか」


「試験出荷で品質は証明できました。需要もある。問題は量と安定供給です」


 わたくしは帳簿を受け取り、数字を追った。


 輸送経路は三つ。それぞれの所要日数、経費、損失リスクの見積もり。懸念も隠さずに書いてある。


(前回より数字が細かい。宿場町ごとの中継費用まで出している。この商人、本気だ)


---


 カイン様が入ってきたのは、わたくしがルドルフの提案書を読み込んでいる途中だった。


「話は聞いている。続けろ」


 短い。でも「座れ」ではなく「続けろ」だった。


 カイン様が窓際の椅子に座り、腕を組んでこちらに視線を向けた。見守る姿勢だ。


(この人は、わたくしに交渉を任せてくれている——気が引き締まる)


---


「ルドルフ。輸送の経費について確認させてください。三経路のうち、中央幹線道はいかがですか」


「経費は中間ですが、通行税がかかります。関所が二つありまして」


「通行税を含めて、十回の輸送を前提に計算しますと——北回りより総費用が低くなりますわね。日数が短い分、荷の鮮度も保てます」


 ルドルフが目を丸くした。


「……あたしが三日かけて出した結論と同じことを、今ここで」


「数字が揃っていれば、計算は速いものですわ」


---


 利益配分の話に移った。


「提案としては、売上の七割を辺境側、三割をあたしの商会に。輸送と流通は全てこちらが負担します」


 わたくしは首を傾げた。


「七割は辺境にとって有利な条件ですわね。ルドルフの側の利益が薄くないですか」


「正直に言いますとね——今は薄利でいいんです。あたしが欲しいのは、辺境との継続的な取引関係そのものでしてね」


(先行投資で関係を築く。長期的な利益を見据えている。優秀な商人の証だ)


「なるほど。ただ、七対三ですと逆にわたくしが心配ですわ。パートナーの利益が薄すぎると、関係が長続きしませんから」


「あたしの利益を心配してくれるんですか、お嬢さん」


「対等なお取引ですもの。六対四でいかがですか。その代わり、品質管理の基準をこちらで設けさせていただきますわ。出荷前に検品し、基準を満たしたものだけを出す」


---


 ルドルフが帳簿を閉じた。


「エリナ様。あたしはね、今まで色んなお貴族様と商売をしてきましたが、相手の利益まで考えて提案してくれた方は初めてです」


「商売は一方が損をすれば長続きしません。前世——いえ、昔読んだ書物にそう書いてありましたわ」


(危ない。また「前世」って言いかけた)


 ルドルフが笑った。


「いい書物をお読みですね」


---


 温室の話を切り出したのは、わたくしの方だった。


「もう一つ、ご相談があります。温室で育てている冬野菜についてです」


「温室で、冬でも採れるということですか」


「はい。葉物と根菜が冬の間にも収穫できます」


 ルドルフが身を乗り出した。


「エリナ様、それ、王都で売れますよ。冬に新鮮な葉物なんて、王都の市場にはほぼ出回りません。銀貨一枚でも安いくらいです」


 銀貨一枚。葉物一束にそれだけの価値がつくなら、辺境の経済に与える影響は小さくない。


---


 カイン様が口を開いた。


 商談の間、ほとんど黙っていたカイン様が。


「供給は安定するのか」


 わたくしに、聞いていた。


「現在は実験段階ですが、仕組みが確立できれば拡大は可能です。暖炉石の消費量と収穫量の数字は出ておりますわ」


「ならいい」


 短い。でもそれがカイン様の承認だった。


 ルドルフがこちらを見て、わずかに笑った。カイン様のやり方を、もう理解しているようだった。


---


 契約の最終確認に入った。


 保存食の本格出荷と、温室野菜の試験的な王都出荷。二本立ての取引契約。輸送はルドルフの商会が担い、品質管理は辺境側が行う。利益配分は六対四。


 ルドルフが立ち上がった。


「あたし、この辺境に賭けますよ」


 帽子のつばを直しながら、その声は静かだった。


「数字がいい土地に、数字のわかるお方がいる。こんな商機、逃す手はありませんからね」


 わたくしは立ち上がって、手を差し出した。


「よろしくお願いいたしますわ、ルドルフ」


「こちらこそ。——対等な仕事仲間ですね」


---


 商談の後、ルドルフが帰り支度をしている間に、カイン様がわたくしの隣に来た。


「悪くない商談だった」


「ありがとうございます」


「……あの商人、信頼できるのか」


 わたくしは振り向いた。


 カイン様の表情はいつも通り——読みにくい。けれど、声の調子がほんのわずかに硬かった。


「商人としての嗅覚は本物ですわ。数字に嘘がありませんし、懸念点を隠さない方です」


「そうか」


 カイン様が窓の外を見た。ルドルフの荷馬車が城門に向かって動き出している。


(——もしかしてカイン様、心配してくださっているのかしら)


 その耳が——赤かった。


「必要な確認をしただけだ」


 短く言って、踵を返した。いつもより少し早足で。


---


 その日の夕刻。


 温室の扉を開けた瞬間、緑の匂いが鼻をくすぐった。


 石造りの部屋の中に、鮮やかな色がある。外はまだ肌寒い風が吹いているのに、ここだけは別の季節が流れているようだった。


 苗が、育っている。


 いや——もう「苗」とは呼べなかった。


 根菜は葉を広げ、葉物は手のひらより高くまで伸びていた。二十日で、通常の二か月分を超える成長。


(収穫できる。冬が来ても、ここで採れる)


「今日か明日には最初の収穫ができますわね」


 ゾフィが葉を一枚もぎ取って匂いを嗅いだ。料理人の目に変わった。


「若いうちに採った方がいい。明日になると少し苦くなる」


「では今日、収穫しましょう」


---


 夕刻の食堂に、淡い緑色のスープが並んだ。


 ゾフィが名づけた「辺境グリーンスープ」。温室で採れた葉物を、干し肉の出汁でじっくり煮込んだものだ。


 食堂に足を踏み入れたカイン様が、一瞬だけ足を止めた。


「何だ、これは」


「温室の野菜で作ったスープですわ。ゾフィの新作です」


 カイン様が席についた。スプーンを手に取り、一口含んだ。


 沈黙。


(——どうですか、カイン様。反応がないと不安になるんですが)


 そのとき、ゾフィが盆に残った葉物の一切れを取り出して、テーブルに置いた。


「野菜そのものも味見してみてください。スープにする前の、生のやつです」


 わたくしが手を伸ばした、ちょうどその瞬間。


 カイン様も、同じ切れ端に手を伸ばした。


 一瞬、指先が触れた。


 ほんの小さな、何でもない接触。


 でも、手の甲がじわりと熱い。


「——先に取れ」


 カイン様の声が、わずかに低かった。


 わたくしは顔を上げた。カイン様は視線をそらしている。


「い、いえ。カイン様がどうぞ」


「……お前が取れ」


「では」


 葉を口に入れた。みずみずしい、少し青い香りが広がった。


 カイン様がもう一枚を口に入れた。


 沈黙が落ちた。


「……悪くない」


 短い二語。


 ゾフィが厨房の入口で両手を握りしめて喜んでいるのが見えた。


「辺境伯のお墨付きだ」


 ゾフィが小声で呟いた。


---


 夜。


 管理棟の机に向かっていたはずのわたくしが、気づいたら突っ伏していた。


 いつから眠っていたのかわからない。窓の外はもう真っ暗だ。


(あの……これは、困りましたわ)


 頭がぼんやりしたまま顔を上げようとして——肩に重みがあることに気づいた。


 毛皮の、温かい匂い。


(……あ)


 カインのマントだ。


 三度目だった。


 一度目は作業場で。二度目は吹雪の夜に。そして今。管理棟の机で居眠りしていたわたくしに、またこの毛皮のマントがかかっている。


 部屋に人の気配はなかった。窓の外は完全に暗い。


(また、この人)


 マントを肩から外さずに、手で触れた。


 黒い毛皮の厚み。いつも同じ匂い——革と、冷たい外気と、少しだけ焚き火の残り香。


 以前は「ありがたい」と思っただけだった。


 二度目は「この人は優しい」と思った。


 三度目の今は——。


 さっき指が触れたときの感触が、まだ手の甲に残っている。


(先に取れ、という声が低かった。あれは、その——)


(考えすぎですわ。帳簿に集中しなさい、わたし)


 でも口元が、わずかに緩んでいた。


 窓の向こうに、辺境の夜が広がっていた。星が近い。王都では見えなかった星が、ここでは手が届きそうなほど近くに輝いている。


 芽が根を張るように。少しずつ、確実に。


 わたくしの知らない何かが、ここに根付こうとしていた。


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