第30話「その日、前世の記憶が蘇った」
第30話「その日、前世の記憶が蘇った」
辺境の朝は、静かだ。
窓の外では山の輪郭が霞んでいて、城下から炊事の煙がのぼっている。わたくしは温室に向かう前に、小さな手帳を広げた。
今日の苗の計測をするための手帳。ただそれだけの手帳だ。
(今日で計測十四日目。成長速度の平均は——)
ペンを走らせながら、ふと思った。
王都は今、どうなっているだろう。
クラウスのお兄様の手紙は、最後に届いてからまだ十日経っていない。けれど手紙が来るたびに、王宮の空気が変わってきているような気がする。お兄様の文章は、丁寧なのに少しだけ硬い。
(まあ、わたしには関係のないことですわ。今は温室の計測です)
そう思って、手帳を閉じた。
同じ朝、王都アルカディア王城の謁見の間では、全く別の朝が始まっていた。
謁見の間には十名ほどの貴族が出席していた。定例の朝議だ。高い天井から朝の光が差し込み、石の床に長い影を落としている。
壁際に並ぶ椅子には中堅の文官や侍従たちが控え、議事録用の羊皮紙を広げている者もいた。
シュテファン王太子が書類を手に立ち上がった。
「本日、外交案件について確認させていただきます」
静かな声。高い天井に響く。
「ブレンデル公国からの通商条約更新の件ですが——」
一拍の間を置いて、視線を弟に向けた。
「アルフレート殿下。ブレンデル大使へのご返答、この件はお忘れだったのですか」
謁見の間が、しんとした。
アルフレートは腕を組んだまま、顔をそらした。
「……少し後になった。それだけだ」
「三日の超過です」
シュテファンの声は平静だった。しかしその平静さが、かえって重かった。
「ブレンデル公国は今朝、公式の抗議文を提出しました。大使は明日をもって帰国すると通告しています」
壁際に立っていた老侯爵が、ヴォルフ侍従に小声で何かを言った。傍にいた文官が羽根ペンを止め、記録の手を一瞬だけ止めた。
その声は届かなかった。でも、周囲の貴族たちの視線が動いたのは確かだった。目配せが、音もなく広間を渡っていく。
「帰国——」
別の若い貴族が、意図せず声を漏らした。すぐに口を押さえた。
アルフレートの顔が強張った。
「シュテファン、場所を考えろ。こういう話は——」
「場所を考えるなら、返答の期限も同様でございましょう」
シュテファンの声は変わらない。高くもなく、低くもない。ただ静かで、刃のように正確だった。
「三日の遅延で——鉱石の優先供給枠の交渉がゼロから出直しになります。これは辺境の開発計画にも影響します。外務府の報告によれば——」
「俺がやる。後でやる」
「殿下が対応されるのであれば、まず大使に謝罪の書状を。そして外務府と条件の再交渉を。今日中に第一案を——」
「細かいことはお前が得意だろう」
ヴォルフ侍従が一歩前に出た。
「殿下、スケジュールの調整を——」
「いい」
アルフレートが立ち上がった。椅子が後ろに引きずられて、硬い床の上で嫌な音を立てた。
「メリアが待っている」
扉が閉まった。
謁見の間に、一秒の沈黙が落ちた。
それからヒソヒソという声が、壁を伝うように広がった。老侯爵が隣の文官に何か耳打ちするのが見えた。文官がかすかに頷いた。その目は、閉じた扉に向いていた。
あの第二王子が「メリアが待っている」と公の場で口にした——そのことの意味を、この場にいる全員が理解していた。
シュテファンは書類に視線を落とした。ため息をついた形跡はない。感情を表に出すことは、この王子の流儀ではなかった。
ただ、羽根ペンをゆっくりと机に置いた。
「ヴォルフ」
「はい、殿下」
「ブレンデル大使に連絡を。明日、余が直接お時間をいただきたいと」
「承知しました」
「それと、外務府に。補填案を今日中に三つ出すよう伝えてくれ」
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同じ日の昼過ぎ、宮廷魔法師の執務室で、老人がひとつの記録用紙を繰り返し見ていた。
バウム顧問。七十年近く宮廷に仕えてきた人間だ。
聖女の光の計測記録。
二週間前から、数値が変わっていた。
「やはり——弱くなっている」
独り言だった。
聖女の光は本来、信仰と祈りによって安定する。揺らぐとすれば、体調不良か、精神の乱れだ。
だがメリア・シュヴァルツの光は、乱れ方が違った。揺らいでいるのではなく——確かに、弱くなっている。
「不安定ではなく弱くなっている。道具が古くなるような弱り方です」
バウム顧問は記録用紙をゆっくり閉じた。窓の外で鳩が鳴いている。春の陽光が、古い机の上に四角い影を作っていた。
七十年間、この宮廷で様々な魔法を見てきた。本物も、偽物も。
これを誰に報告するか。
シュテファン殿下か。国王陛下か。
しばらく考えて、まだ待つことにした。
確信がないまま報告すれば、混乱を生むだけだ。七十年の経験が培った慎重さが、老人の手を止めていた。
もう少しだけ、確認が必要だった。
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その夜、別の場所でメリアは一人だった。
部屋の窓に薄布を垂らし、小さな灯りだけをつけている。胸元に手を当てると、そこに収めた石が微かな熱を持っていた。
以前より、温度が低い。
(また弱くなっている)
かつては朝から晩まで安定していた光が、最近は夕方になると揺らぐことが増えていた。
アルフレートの前では問題ない。あの人は細かいことに気づかない。
でも宮廷魔法師の老人の目だけは怖かった。
(替えが必要ね)
頭の中で計算する。宮廷に出入りしている商人の中で、闇の市場にも顔が利くのは誰か。以前一度だけ、品質の良い光石を仕入れたことがある。あの商人であれば——。
社交界では最近、妙な噂が増えていた。
辺境の令嬢。
ヴァルトシュタインのエリナが、冬に野菜を育てているだとか。食料の損失がなかっただとか。
お茶会のたびに、どこかで誰かがその名前を出す。
「ヴァルトシュタイン嬢が王都にいれば、こんな状況にはならなかったでしょうに」
昨日もそんな声を聞いた。
(あの女の話は、もう聞きたくない)
婚約破棄されて辺境に送られた女が、なぜ褒められているのか。理解できない。捨てられた人間は、捨てられたまま消えるべきだ。
胸元の石がまた、わずかに揺らいだ。感情が乱れると、石の安定が崩れる。それはわかっている。わかっていても——止められなかった。
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翌日、城下の小さな茶館の二階席。
メリアは目立たない席を選んで、声を落として話した。
「以前いただいたものと同じ品を。いえ——もっと上の質のものを」
「……それは、かなり高価でございますが」
「構いません」
商人がわずかに眉を上げた。男爵令嬢の財力で購入できる範囲では、確かにない。
メリアは窓の外に目を向けて、静かに言った。
「値段は——アルフレート様が払ってくださいますわ」
商人が息を飲んだ。
メリアは微笑んだままだった。表の顔のまま、ただ微笑んでいた。
辺境の夕刻、わたくしは温室の入口に立ち、今日最後の記録をつけた。
苗は十四日で、通常の三倍以上の高さになっていた。
数字だけを見れば、奇跡のようなものだ。でも毎日ここに来て、土に触れて、光が出て、苗が伸びるのを見ていると、不思議とそれが当たり前のように思えてくる。
(何かが、変わってきている)
わたしの魔力なのか、この土地なのか、それとも辺境そのものが何か特別なものを持っているのか——まだわからない。
でも、確かなことがひとつある。
ここで育てたものは、本物だ。
手帳を閉じて、温室を後にした。廊下は静かで、遠くに見張りの灯りが揺れていた。
(明日の朝、また計測しよう。カイン様との約束通り、午前に一度だけ)
胸の中で小さく笑いながら、自分の部屋へ向かった。
王都のことは、今日も考えなかった。
考える必要が、なかった。
——ただ、苗の成長速度だけが、少しだけ気にかかっていた。三倍という数字は、わたくしの魔力だけでは説明がつかない。




