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婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜  作者: きなこ
第2章「辺境の花、咲き始める」

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第29話「母の肖像画と魔法温室」

第29話「母の肖像画と魔法温室」


 管理棟の奥に、使われていない部屋があることを知ったのは、フィア村の視察から戻った翌日のことだった。


 廊下の突き当たり、いつも閉まっている扉。ヨハンナが清掃に入っていて、今日は少し開いていた。


「ヨハンナ、ここは」


「ああ、お嬢様。どうぞ、お入りになってください」


---


 部屋は広くなかった。南向きの窓が一つ。光は入るが、薄く埃が積もっていた。


 壁に、一枚の肖像画がかかっていた。


 描かれているのは、若い女性だった。金茶色の髪、緑がかった灰色の目。おだやかな顔で微笑んでいる。


 その笑顔の——左頬に、えくぼがあった。


「ヨハンナ、この方は」


「リーゼロッテ様でございます。カイン様のお母様です」


(カイン様の、お母様)


 目元だけが、かすかに似ている気がした。


---


「リーゼロッテ様は——いつお亡くなりに?」


「カイン様が十八のころでございます。先代の旦那様が国境紛争で亡くなられた後、お一人で領地をお守りになって——最後は、倒れるようにして」


(十八で母を亡くした。父を失ったあとに、一人で領地を守り続けた母を——)


「カイン様は、この部屋に来られますか」


「年に一度か二度、扉を開けておられるようです。ただ——中には入られません。廊下から眺めるだけで」


(廊下から眺めるだけ、で)


「ヨハンナ、リーゼロッテ様はどんな方でしたか」


 ヨハンナが手を止めた。遠くを見るような目。


「笑うと左頬にえくぼが出る方でございました。声がきれいで、歌がお好きでした。辺境の冬の朝、あのお方が歌っておられると——何となく、顔が上がるのでございます」


「温かい方だったんですね」


「そこにいてくださるだけで、部屋の温度が変わるような方でした」


 少し間を置いて、ヨハンナが続けた。


「リーゼロッテ様が亡くなられてから、カイン様はあまり笑わなくなりました。十八でございましたから、全てを覚えておいでです。だからこそ——この部屋には、お入りになれないのだと思います」


---


 部屋を出て、廊下を歩きながら、わたくしは自分の記憶を探った。


 エリナとしての母は、今も王都にいる。わたくしが辺境に来てから、一度も連絡はない。


 そしてもう一人の「母」——前世の記憶の中の。


(前世でも、母との関係は希薄だった。仲が悪かったわけではない。ただ——いつも遠かった。好きではなかったわけじゃない。ただ、よく知らなかった。それだけで、二十六年が終わった)


---


 夕食は一人で取った。


 ゾフィが用意してくれた根菜のスープは温かかったが、あまり手がつかなかった。


 ヨハンナが静かに隣の椅子を引いた——いつもは立ったままなのに。それだけで、何かが伝わった。


「わたくしは——あまり母のことを知らないのです。会えないのではなく、会っていなかった」


 言葉にしたのは、初めてだった。


「お嬢様。機会は——なくなるときより、作れるときの方が多うございます。文を書くことも、帰ることも、まだできるうちに」


 わたくしは少し俯いた。


(そうかもしれない。でも、今は——まだ怖い)


---


 夜、自室に戻った。


 窓辺の芽を見た。手のひらほどの緑が、灯りの中で静かに揺れている。


 ふと——廊下の向こうで、重くて確かな足音が聞こえた。カイン様の足音だ。


 足音は——途中で、少しだけ止まった。わたくしの部屋の前、だった気がした。




 翌朝。いつもの管理棟、いつものお茶の時間。


 カイン様がテーブルの向かいに座って、白湯を手に持っている。


 ひと目見た瞬間に——カイン様の目が、かすかに細くなった。


「……顔色が悪い」


「夜、少し考えごとをしておりまして」


「何があった」


(この人はいつも「何があった」と聞く。「大丈夫か」じゃなくて。何かが起きたことを前提にして聞く)


 カイン様は待っていた。急がずに。


「管理棟の奥の部屋で——リーゼロッテ様の肖像画を見ました」


 そう言った瞬間に、カイン様の目が、わずかに揺れた。




 グラフ城の東棟の隅に、小さな実験場ができあがったのは、それから間もなくのことだった。


 暖炉石を四隅に配置した石造りの一室。南向きの窓に薄布をかぶせ、光を均等に拡散させる。床には城下から運んだ黒土を木枠に詰め、冬野菜の苗を等間隔に植えた。


 ハンスが入口に立ち、腕を組んだまましばらく室内を見渡した。


「ヴァルトシュタイン嬢、これは……冬の間に野菜を育てると、そういうことですか」


「試験的な段階ですわ。うまくいけば、来年の冬季の食料確保に役立てられるかもしれないと思いまして」


「暖炉石の消費量がかさみますが」


「計算では、通常の厨房の暖炉を一基維持するより少ない消費量で済むはずです。もちろん数値が出てからご報告しますわ」


 ハンスは小さくうなずいた。


「魔法温室、ですか」


「正確には実験的な温室です。魔法に頼らなくても暖炉石の配置で温度を管理できます。ただ、わたくしの土属性魔法が何か作用しているかどうかを確かめたくて」


---


 苗を植え終えて三日目の朝、わたくしは土に手のひらを当てた。


 ただ、湿り具合を確かめようとしただけだった。


 なのに——。


(あ)


 指の先が、じわりと温かくなった。


 五回目だ。


 鉱山の光る石の情報に触れたとき。鉱山の地図に手を置いたとき。窓辺の芽に触れたとき。フィア村の畑の土に触れたとき。そして今——気づけば五回目になっていた。


 わたくしは手のひらを持ち上げ、指先を見つめた。土がほんのりと光を帯びているような気がして、でも次の瞬間には消えていた。


---


 午後になって、昨日植えたばかりの苗が、目に見えて伸びていた。


 ヨハンナが最初に気づいた。


「エリナお嬢様、この苗……昨日より随分と大きくなっておりませんか」


「五日分、くらいの成長ですわ」


 Cランクの土属性魔法は、土を柔らかくしたり、作物の根付きをわずかに助けたりする程度のものだ。これほど急速な成長を促す力は、本来持っていない。


 翌朝の異変は城全体に広まるのが早かった。


「これは……」


 ハンスが呆然と立っていた。苗は一晩でさらに伸び、外の畑で通常一週間かかる成長を三日で超えていた。


「ヴァルトシュタイン嬢」


「はい」


「あなたが土に触れると、光が出ていました」


 わたくしは、手の動きを止めた。


「ほんの一瞬です。淡い、青みがかった光が、指先から土に流れ込むような——」


 ハンスが言葉を止めたのは、ちょうどディートリヒが戸口に現れたからだった。


「苗のことは、カイン様にもご報告を——」


「すでに申し上げました」


 わたくしが先に言うと、ディートリヒの眉がわずかに上がった。


「カイン様はなんとおっしゃいましたか」


「『知っている』と」


 沈黙が落ちた。ハンスとディートリヒが顔を見合わせた。


(何を知っているんですか、カイン様。わたしがわかっていないのに)


---


 夕方、廊下を歩いていると、足音が追いついてきた。


「少し、いいか」


 振り返らなくても、声でわかった。


「カイン様。今日はお早いお戻りですわ」


 隣に並んだカイン様は、そのまましばらく黙って歩いた。わたくしも急がなかった。この人の沈黙には、だいたい後が続く。


「倒れてから言っても間に合わない」


 唐突だった。


「……はい?」


「あの温室。毎朝、夕、昼間も一人で入っている。ハンスが三度確認しに行って、三度ともお前がいたと言っていた」


「食っているか。休んでいるか」


 ……ああ。


(また、そこから来るんですか、この人は)


 温室の実験に没頭するあまり、昼食を忘れていた日が二度あった。ヨハンナに叱られた。でもカイン様まで知っているとは思わなかった。


「ご心配をおかけいたしました」


「心配ではない。事実確認だ」


(事実確認って言いながら、顔が少し険しいですよ、カイン様)


「温室の成果が出ているのはわかる。あの苗は本物だ」


 カイン様が成果を直接言葉にするのは珍しかった。


「だが、お前が倒れたら全部止まる」


 視線が正面に向いたまま、声だけが落ちてきた。


「お前がいなくなっても、あの苗だけ残ってもしかたない」


 わたくしは、なんと返せばよいかわからなかった。


(……それは、わたしが必要ということですか)


「明日から、昼は城の食堂で食べること。温室に行くのは午前と午後に一度ずつ」


「……はい、カイン様」


 カイン様がひとつうなずいて、踵を返した。その背中を見送りながら、わたくしは胸のあたりが妙に温かいことに気づいた。


 温室の土に触れたときと、少し似ていた。


(……気のせいですわ。絶対に、気のせい)


 そう心の中で言いながらも、口元が少し緩んでいた。


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