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婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜  作者: きなこ
第2章「辺境の花、咲き始める」

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第28話「春風とフィア村」

第28話「春風とフィア村」


 朝のお茶の時間は、いつのまにか一日の中心になっていた。


 管理棟の窓から差し込む光が、テーブルの上で四角く伸びている。カイン様の白湯から立つ湯気が、光の中でゆるやかに揺れていた。


 十日以上——もうすぐ二週間になる。


---


 今朝のカイン様は、計画書を手に持ったまま席についた。


「フィア村の件だ」


 広げられた羊皮紙には、わたくしが先週書いた農地改革の草稿がある。余白に、カイン様の走り書きがいくつかあった。


「村の農地の状況を直接確認したい。来週、視察に行く」


「おっしゃっていただけると思っておりましたわ。実はわたくしも同じことを」


「荷物を整えろ。馬で行く」


「馬、でございますか」


「問題があるか」


(半年ぶりですが、まあ何とかなるでしょう。前世で言うところの「長期ペーパードライバー」みたいなものだ)


「問題はございませんわ」


---


 お茶を飲みながら、計画書の細かい部分を話し合った。


「昨年の収穫量の記録を見ましたわ。三年前と比べて、一割ほど落ちています。土が疲れてきているかもしれません」


「土が疲れる、か」


「同じ畑で同じものを作り続けると、少しずつ地力が落ちていく。対策はあります」


 カイン様が少し身を乗り出した。興味があるときに身体が動く。言葉より先に。


「聞かせろ」


「輪作でございます。畑を四区画に分けて、毎年違う作物を植えていく。それと——麦の収穫後に豆などを植えて、花が咲く前に土に鋤き込む緑肥も合わせて使えます。腐って土の栄養になります」


「費用は」


「銀貨二十枚から三十枚ほどでしょうか」


(銀貨一枚は平民の三日分の食費。三十枚は平民の月収の三倍近い。でも農地の生産力が戻れば、数年以内に元が取れる計算だ)


「視察が終わってから判断する。——方向性は悪くない」


(「悪くない」はこの人の最上級に近い言葉だ。最初の頃には気づかなかった。今は分かる)


---


 お茶を終えて、片付けながら、ふと口にした。


「カイン様、ゲオルクのことは、どのようになりましたでしょうか」


「三日の猶予の後、領外に出した。家族の移住先は見つけてやった」


(罰を与えながら、移住先を探した——)


「公正な判断でした。罰と、最低限の情けと——両方があった」


 カイン様は何も言わなかった。でも少しだけ、眉間のしわがゆるんだ。気がした。


---


 昼前に、フリッツが管理棟に来た。


「エリナ様、フィア村の使いの者が参りました。視察の件で連絡を入れたところ——問題があるそうで」


 差し出された手紙を開くと、村長のザウアー翁の几帳面な文字が並んでいた。


「種子が足りない、と」


「はい。冬の間に保管していた種子の一部が、湿気でやられてしまったそうで。播種に必要な量が揃わないと」


(タイミングが悪い。播種の適期を逃したら今年の収穫に直接響く)


 すぐに羽根ペンを取った。帳簿の端に数字を書き始める。種子の量、播種に必要な面積、時期、費用——


(前の職場でも、こんな感じだった。緊急案件が来るたびに手を動かして——わたし、この瞬間が一番生き生きしてる気がする。種子不足は、農地改革を前倒しにする機会だ)


「フリッツ、ハンスを呼んでいただけますか。カイン様にも報告したい」


---


 しばらくして、廊下から足音が聞こえた。


 扉が開いて、カイン様が入ってきた。


「急報が来たと聞いた」


「ちょうど報告に行くところでございました」


 計算書を差し出すと、カイン様が受け取り、一瞥した。


「視察を前倒しにしたい。来週より明後日に」


「問題ない。馬の用意をしておく」


 カイン様が踵を返しかけたとき——ふと、言葉が出た。


「カイン様。問題が来たとき、楽しいと感じるのは——おかしいでしょうか」


 振り返ったカイン様の目が、少し細くなった。


「おかしくない」


 短い答え。でも否定ではなかった。


「俺もそうだ」


 それだけ言って、出ていった。


(俺もそうだ——この人も、問題が来たとき、前に進もうとする人なんだ。ずっと、そういう人だったんだ)


 春の光の中で、フィア村への計画書が、風に揺れた。




 馬に乗るのは、辺境に来て以来のことだった。


 グラフ城を出発したのは夜明けから一刻ほど後。カイン様が先頭を行く。背筋が伸びていて、手綱が揺れない。


(前世で言うところの「馬に乗っている絵になる人」だ。ちゃんと仕事していますね、辺境伯様)


 わたくしは少し遅れてついていく。半年ぶりの馬だが、体は覚えていた。


---


 フィア村に着くと、村長のザウアー翁が出迎えてくれた。


 七十近い、がっしりした体格の老人だ。


「辺境伯様、ヴァルトシュタイン嬢様、よくお越しくださいました。種のことは、本当に面目ない」


「蔵の屋根も支援できます。まずは畑を見せてください」


---


 案内された畑は、まだ春の冷たさが残っていた。足元がやわらかくぬかるむ。


「ここが主の麦畑です。種が足りなくて、この区画の半分しか播けておりません」


 しゃがんで、土に手を当てた。


 ひんやりとしていて、湿っている。ただ——


(色が薄い。去年の作物に養分を使い切られた感じがする)


「カイン様、この土を見てください」


 カイン様がすぐ後ろに立っていた。しゃがんで、土を一掴み取る。


「……色が薄い」


「有機物が少ない土の色です。種子の問題と、土の問題と、同時に対処する必要があります」


---


 村の前に集まった十数名の村人に、説明した。


(机の上の数字じゃなく、この人たちの生活がかかっているんだ)


「まず種子は、グラフ市の種苗商から今週中に手配します。費用は領から支援します」


 カイン様が無言でうなずいた。


「次に土の改善です。輪作の導入をお願いしたい。畑を四区画に分けて、毎年違う作物を植えていく。同じ畑に同じものを作り続けると土が養分を使い切ってしまう。それと——緑肥も合わせて。麦の収穫後にクローバーや豆を植えて、花が咲く前に土に鋤き込む。腐って土の栄養になります」


「草を土に埋めるんですか?」


 若い男が聞いた。


「土を豊かにする作物です。お金のかからない肥料と思っていただければ」


 ざわめきが起きた。否定ではなく、考え始めているようなざわめきだ。


 一人の女性が手を上げた。四十代くらいで、赤ん坊を背負っている。


「うちの夫が、去年から『土の色が変わってきた』と言っておりました。試してみたい、と」


(ありがとう。この言葉が、ほかの人の背中を押す)


---


 話し合いが終わって、カイン様と並んで畑の端に立った。


「反応が良かった」


 カイン様がぼそりと言った。


「皆さん、土への愛着がおありなんです。変えることへの不安はあっても、良くしたいという気持ちがある」


「……そうだな」


「温室の構想があります」


「温室?」


「冬の間も野菜を育てられる施設です。南向きの壁に石材や板材で屋根を作り、日光を取り込む。秋に建てれば、来年の冬から使えます」


 カイン様が少し考えた。


「面白い」


(この人の「面白い」は「検討する価値がある」という意味だ。もう分かってる)


---


 帰り道。


 村を出てしばらくして、馬から降り、道端の畑に触れた。


 指先を埋める。冷たい。湿っている。そして——


(温かい?)


 指先に熱が広がった。ぽっと、小さな灯りがともったような。


 一度目は鉱山の光る石の情報に触れたとき。二度目は鉱山の地図に手を置いたとき。三度目は窓辺の芽に触れたとき。そして今——


(四度目。土に触れた瞬間に、指先が温かくなる。わたしの土属性が、何かに反応している)


「どうした」


 カイン様の声がした。馬を止めて、こちらを見ている。


「……指先が——土に触れると、温かくなるんです。四度目です」


「鉱山の地図のときも、そうだったか」


「はい。あの日と同じ感覚です」


 カイン様が目を細めた。


「春になったら鉱山を視察すると言っていた。その前に——もう少し調べたほうがいいかもしれない」


 その声は、いつもより低かった。何かを心配しているような——でも、それを口には出さない。


(この人が心配してくれているとき、わたし、どうしてこんなに安心するんだろう)


 春の風が吹いた。道の両脇で、緑が揺れた。


 指先はもう、普通の温度に戻っていた。


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