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婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜  作者: きなこ
第1章「堕ちた令嬢と辺境の扉」

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第27話「灯りと、新しい朝」

第27話「灯りと、新しい朝」


 最初に気づいたのは、廊下だった。


 管理棟からわたくしの居室に向かう壁掛け灯が、数日前からじわじわと増えていた。冬の間は三つだったのが、今朝ついに五つになっている。


 「フリッツ、この廊下の灯りが増えていませんか」


 「……さようでございますか」


 表情は動かなかった。けれど、目がわずかに泳いだ。




 紅茶が変わったのは、春祭りの翌日のことだった。


 毎朝の紅茶が、いつもと違う香りだった。渋みが少なくて、花のような甘い余韻がある。


 「ヨハンナ、この茶葉は」


 「……カイン様がお取り寄せになったと伺っております」


 紅茶を飲まない人が、紅茶を取り寄せた。祭りの賑わいが収まったばかりのこの時期に、わざわざ。


 窓辺に目をやると、鉢の芽が少し伸びていた。嵐の後に泥の中から拾い上げた、あの小さな緑だ。葉が二枚、柔らかく開き始めている。




 夕方、思い切ってカイン様をお茶に誘った。管理棟の小さな一室で、帳簿を広げた。ルドルフとの取引の詳細。保存食の出荷計画。


 仕事の話が一段落した後、少しだけ沈黙が落ちた。


 「カイン様。廊下の灯り、ありがとうございます」


 カイン様の手が、白湯の器の上で止まった。


 「……何のことだ」


 「紅茶も」


 耳の先が、はっきりと赤くなっていた。


 「必要なことをしただけだ」


 「はい。それが——嬉しかったのです」




 白湯を一口飲んで、器を置いた。


 「……明日も、茶を」


 「え?」


 「明日もここで茶を飲む。その方が、進捗を確認しやすい」


 (進捗の確認、ですか)


 笑いそうになった。でも笑わなかった。


 「はい。毎日でも構いませんよ」


 カイン様の口元が、わずかに和らいだ。




 お茶の時間が日課になって三日目。


 「せっかくの茶葉なのに、ご自分では召し上がらないのですか」


 少し間があった。


 「……あれは、お前が美味いと言っていたからだ」


 わたくしは思わず器を持つ手を止めた。


 カイン様の耳がまた赤い。視線を窓の外に逸らしているが、逸らすのが一拍遅い。




 穏やかな時間が終わったのは、自室に戻ってからだった。


 階下から馬蹄の音が聞こえた。早馬だ。王都からの書簡が二通。一通はカイン様宛の公文書。もう一通はクラウス兄からの私信だった。


 エリナへ


 メリアの聖女のことで、妙な噂が出始めた。詳しくは書けないが——お前が舞踏会の夜に感じていた違和感、他にも気づいた者がいるらしい。


 父上がお前のことを気にかけている。先日、書斎でお前が幼い頃に描いた絵を眺めていた。


 出発の準備は整えてある。山道の雪が引いたら三日で発てる。四月の中頃には着けるはずだ。道中の宿も手配済みだ。


 クラウス


 父上の話で、手が止まった。幼い頃に描いた花畑の絵。色使いがめちゃくちゃで、花なのか何なのかよくわからない絵。それを今でも書斎に。


 前世でも、家族とはうまくいかなかった。距離の取り方がわからなくて、気づいたときには手遅れだった。


 (この世界では——もう少し、上手くやりたかったのに)




 翌日のお茶の時間。


 「兄から手紙が来ました。メリアの力に疑問を持つ人が出始めたようです」


 カイン様が白湯を置いた。「……あの男は」


 アルフレートのことだろう。名前すら出さない。


 「庇っているようです。ですが、周囲が動き始めていると」


 カイン様は窓の外を見ていた。横顔は硬い。


 「あの男の動きは——俺が押さえている」


 「はい」


 「お前は——ここにいる」


 短い言葉だった。けれど、その声の底に何かが溜まっているのが分かった。




 「……兄が、春に訪ねてくると」


 「……来るのか」


 「ご迷惑でしょうか」


 「迷惑ではない。ただ——」


 何かを言いかけて、やめた。「——客間を整えておく」


 「兄は少し口うるさいですが、悪い人ではありません」


 「……お前の兄だからな」




 灯りを落とす前に、窓の桟に手を置いて外の空気を感じた。春の夜風が指先を撫でていく——その瞬間、指先がじわりと温かくなった。


 また、だ。


 暖炉の前でもなく、熱い飲み物を持っているわけでもない。それでも、指の先から手のひらにかけて、小さな熱が広がっている。気のせいだと思っていたのに。


 手を引くと、温もりが消えた。考えすぎだろうか。でも——覚えておこう。




 辺境に来て、半年が経った。


 窓を開けると、春の風が部屋に飛び込んできた。冷たくない。湿っぽくもない。乾いた、温かい風だった。空は高く澄んでいて、遠くに見える山の稜線に、もう雪は残っていなかった。


 半年。短いようで長い。婚約を破棄されてこの地に来たのが秋の終わりで、冬を越えて嵐を越えて、今は春だ。季節が一巡りした。


 身支度を整えて管理棟に向かう途中、灯りが五つ、均等に並んでいる廊下を通った。もう「誰がやったか分からない」とは思わない。


 管理棟に入ると、フリッツがいた。


 「おはようございます、フリッツ」


 「おはようございます。本日は良い天気でございますね」


 フリッツが天気の話をするのは珍しかった。この人は——変わった。半年前、計るような目でわたくしを見ていた人が、今は窓を開けて天気の話をしている。


 ルドルフとの取引は順調に進んでいた。保存食の試験出荷が好評で、追加注文の提案が届いた。薬草加工品にも引き合いがあるとのこと。半年前は、この領地に外から来る商人はいなかった。今は——向こうから来てくれる。


 もう一通、書簡が届いた。封蝋に刻まれた紋章を見て、手が止まった。


 マルテンシュタイン侯爵家——王都の有力貴族だ。末尾に鉱山資源への言及があった。


 (何かを欲しがっている人の書き方だ)


 「この書簡、カイン様にはもうお見せしましたか」


 フリッツが答えた。「まだでございます。エリナ様に先にお渡しするようにと、辺境伯から」


 フリッツの目は、もう計るようなものではなかった。




 午後、管理棟でカイン様とお茶を飲んだ。


 日課になって、もう十日以上になる。白湯とパン菓子。帳簿と計画書。短い会話と、長い沈黙。


 ルドルフの書状のことを報告した。追加注文の話にカイン様は黙って頷いた。「悪くない」と一言。あの人にとっては、それが最大の賛辞だ。


 今日は少し、仕事以外の話をした。


 「カイン様は、春はお好きですか」


 「……嫌いじゃない」


 「冬と比べて、いかがですか」


 「冬は——静かだ。春は騒がしい。だが」


 「だが?」


 少し間があった。


 「今年の春は、悪くない」


 窓から差し込む午後の光が、カイン様の横顔を照らしていた。白湯の湯気が、二人の間をゆるく漂っている。その声が——柔らかかった。こういう何でもない午後に、白湯を片手で包みながら出す声の柔らかさを、わたくしはもう知っていた。


 マルテンシュタイン侯爵の書簡のことを報告した。カイン様の目が一瞬だけ鋭くなった。


 「……あの男が、うちの鉱山に目をつけたか」


 「ご存じなのですか」


 「領地持ちの貴族で、あの侯爵を知らない者はいない。——厄介な相手だ」


 それ以上は言わなかった。けれど、白湯を置く手に力がこもっていた。




 お茶を終えかけたとき、ディートリヒが報告に来た。鉱山の第四坑区でルーン石の光が強まっているという坑夫からの証言だった。三日前から複数人が同じことを。


 「危険はあるか」


 「今のところ被害はございません。ただ、記録にない現象とのことです」


 カイン様が頷いた。「明日、俺が見に行く」




 夕方、城門から城下に出るところで、カイン様とすれ違った。


 巡回から戻るところだった。夕陽を背にして、城門の前に立っていた。


 「おかえりなさいませ、カイン様」


 「……ああ。おはよう」


 「おはようではありませんわ。もう夕方です」


 「……そうか」


 カイン様の口元が、ほんのわずかにほどけた。外套に夕陽の埃がついている。髪にも砂が混じっている。巡回で領地の端まで回ってきたのだろう。この人は、いつも自分の目で確かめに行く。


 「異常はありませんでしたか」


 「南の橋の柱が少し傾いている。明日フランツに見せる」


 「承知しました。帳簿に補修費を見積もっておきますね」


 「……頼む」


 半年前の「頼む」とは、違う声だった。


 踵を返しかけて——カイン様が足を止めた。


 「……エリナ」


 名前を呼ばれた。いつもは「お前」としか呼ばないこの人が。夕陽の逆光で、表情は見えなかった。


 「はい」


 「——よくやっている」


 一瞬の沈黙があった。カイン様の視線が、わずかに逸れた。手が——ほんの少しだけ、動きかけた。それだけだった。


 それだけ言って、カイン様は城の中へ歩いていった。


 胸の奥が、どくんと鳴った。


 あの一瞬——カイン様の手が動きかけた、その重さが、褒め言葉そのものよりも深く残った。




 夕陽の中に、カイン様の背中が消えていった。大きくて、真っ直ぐな背中だった。


 しばらく、そこに立っていた。




 自室に戻って、窓を開けた。


 夕焼けが空を染めていた。オレンジ色の光が部屋に差し込んでいる。城下からは子供の笑い声が聞こえる。遠くの大地に、緑が広がり始めていた。


 窓辺の鉢に目がいった。芽は手のひらほどの高さになっていた。葉が六枚。嵐の泥の中から拾い上げたあの小さな緑が、ここまで育った。


 半年前、やるべきことの一覧を作っていた。今それは、フリッツの天気の話や、ルーカスの「今日も読み書きを教えてください」という声や、ゾフィの試作品の報告に変わっている。顔のある人たちとの約束だ。


 窓際に肘をついた。春の風が髪を揺らした。




 兄の手紙の言葉が浮かんだ。「四月の中頃には着けるはずだ」。


 お兄様が来る。この辺境に。


 カイン様のことを、なんと紹介すればいいのだろう。「わたくしの主です」? 「領主です」? どれもしっくりこなかった。


 穏やかな日々の裏側で、何かが静かに動き始めている予感がした。




 目を閉じると、夕陽の中のカイン様の声が蘇った。


 ——エリナ。よくやっている。


 胸の奥が、また熱くなった。


 辺境の春は穏やかだ。でも——穏やかなまま続く保証は、どこにもない。


 窓の外で、春風が木々を揺らしている。その向こうに、鉱山の稜線が夕陽に黒く浮かんでいた。


〈第1章「堕ちた令嬢と辺境の扉」了〉


この話にて、第1章が終了となります。

第2章は一日挟んで月曜日からの投稿となりますのでよろしくお願いいたします。



ここまでお付き合いいただいた方、誠ににありがとうございます。

第2章も見てくださる方はブックマーク・評価をしていただけますと幸いです。

引き続きよろしくお願いいたします。

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