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婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜  作者: きなこ
第1章「堕ちた令嬢と辺境の扉」

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第26話「新たな出会い」

第26話「新たな出会い」


 春祭りから三日。手のひらにまだあの温もりが残っている気がするのは、きっと気のせいだ。


 あの夜のダンスのことを思い出すたび、胸の奥がざわりとする。でも今日は仕事がある。わたくしは頭を切り替えて、管理棟の窓辺に立った。


 その午後、城門の前に馬車が止まった。


 城の馬車ではない。商人の荷馬車だ。幌の下に木箱が積まれていて、御者台に一人の男が座っている。帽子を目深に被り、外套の胸元から帳簿らしきものが覗いていた。




 わたくしが管理棟の窓から見ていると、ディートリヒが足早に報告に来た。


 「商人が一名、面会を求めております。名前はルドルフ・ハルト。辺境を中心に活動する中堅商会の主だそうです」


 「約束はありますか」


 「ございません。飛び込みです。ただ——交易路が復旧して、最初に来た商人がこの方のようです」


 嵐で山道が塞がれてから十日余り。道が通じたその日に来たということは、商機を嗅ぎつけたか、よほど辺境の変化に興味があるかのどちらかだ。


 (重要なのは、何を売りに来たかじゃなくて、なぜ来たかだ)


 「お通しします。カイン様にもお伝えください」




 応接間——とは言っても、城の質素な会議室だが——に通した。


 入ってきた男は、想像とは少し違っていた。


 中肉中背。濃い茶色のざんばらな髪に帽子を乗せている。目は——琥珀色で、人を素早く値踏みするような鋭さがあった。けれど口元には人懐こい笑みが浮かんでいる。年齢は三十代後半か。手の甲にインクの染みがあった。


 「ルドルフ・ハルトでございます。突然のご訪問、失礼いたします」


 そう言いながら、ルドルフは部屋に入る前に窓際の調度品——古い木彫りの鷲だった——をひょいと持ち上げて光にかざした。一瞬の動作で、すぐに元の場所に戻す。品物の質を確かめずにはいられない癖のようだった。


 「ヴァルトシュタイン家のエリナと申します。どうぞおかけください」


 ルドルフが椅子に座った。外套のポケットから小さな帳簿を取り出して膝に置いた。商談の構えだった。




 「率直にお聞きしますが、どのようなご用件でしょうか」


 「率直なお方ですね。ありがたい。では率直に。——辺境が変わったと聞いてね」


 笑みが深くなった。


 「毎年この時期に辺境を回ってるんですが、今年は山道が通じた日にまず此処に来ました。理由は簡単で、近隣のベルゲン村で商人仲間と情報交換をした際に、辺境の保存食を分けてもらったと言うんです」


 「保存食を」


 「ええ。冬の嵐の後、グラフ領から近隣の村に食料の融通があったとか。その保存食の品質が良くてね、仲間が『一度領地を見てみろ』と。それで来ました」


 あのとき余剰分を分けた判断が、ここに繋がったのか。


 「お褒めにあずかりますが、大したことは」


 「いえいえ。——ところで、領地の備蓄はどのくらいの期間分を?」


 さりげない口調だったが、質問の中身は踏み込んでいた。備蓄量は領地の守りの要だ。外部の商人に軽々しく教える数字ではない。


 「十分な量を確保しております」


 「ああ、これは失礼。商売人の悪い癖で、数字を聞かないと落ち着かないんです」


 笑って手を振った。悪気はないように見えた。——見えた、というだけだが。


 「数字が良い土地は、商売にも良い土地でしてね。あたし、ここに商機があると踏んで参りました」




 ルドルフが帳簿を開いた。


 「率直に。グラフ領の保存食を、あたしの流通網で外に出しませんか。辺境の品は質が良いのに、流通がないから王都に届いていない」


 曖昧な世辞で時間を使わない。この人は——仕事ができる。帳簿には王都の相場と輸送経費、利益の見込みが簡潔にまとまっていた。


 ただ——帳簿をめくるルドルフの目つきが気になった。数字を見ているようで、その目はわたくしの手元の帳簿——グラフ領の帳簿の表紙を、ちらりと見た。一瞬のことで、すぐに自分の帳簿に視線を戻したが。


 (仕事ができる人だ。でも——油断はしない)




 カイン様が入ってきたのは、そのタイミングだった。


 応接間に一歩入っただけで、空気が変わった。ルドルフが立ち上がって一礼した。


 「カイン・フォン・ドラクロワ辺境伯。お目にかかれて光栄です。ルドルフ・ハルトと申します」


 カイン様はルドルフを一瞥した。値踏みするように——いや、カイン様の場合は「信用に値するかどうか」を見ている。


 「……商人か」


 「はい。グラフ領の産品を外に出す話を、エリナ様としておりました」


 カイン様がこちらを見た。判断を求めている。


 「カイン様。内容をお聞きいただけますか。面白い提案だと思います」


 「座れ」


 ルドルフが座った。カイン様も座った。わたくしは——ルドルフの帳簿を広げて、カイン様に数字を見せた。




 それからの一刻は、帳簿を挟んだ密度の高いやり取りだった。わたくしが対案を出すたびに、ルドルフは即座に数字で返してくる。


 「保存食だけでなく、薬草の加工品も検討していただけますか」


 「薬草、ですか。あたし、その分野にも取引先がありますよ。エリナ様は話が早くて助かります」


 カイン様が腕を組み直した。視線がほんの一瞬だけわたくしに向いて、すぐにルドルフの帳簿に戻った。


 カイン様は、ほとんど黙っていた。けれど要所で「輸送の安全は」「品質の保証は」と短い質問を挟んだ。ルドルフはできることとできないことを分けて誠実に答えた。


 カイン様がこちらを見た。


 「お前はどう思う」


 「信頼できると思います。数字が正直です」


 「……ああ」




 ルドルフが帳簿を閉じた。


 「今日のところは、お互いに持ち帰りということで。次回、正式な提案書をお持ちしますよ。品目ごとの単価と数量、輸送の条件——こちらで叩き台を作ってきます」


 「ありがとうございます。こちらも出荷可能な品目と数量を整理しておきます」


 「エリナ様、あなたとは長い付き合いになりそうだ」


 ルドルフが帽子を被り直した。


 「良い領地をお持ちですね。人の顔が明るい土地は、商売も伸びますよ」


 帽子を整えながら、ルドルフがふと窓の外を見た。城下の屋根が夕日に染まっている。


 「——あたしの故郷も辺境でしてね。十五の時に水害で流されたんです。あの頃、こんな風にまとまっていたら、もう少し違ったかもしれない」


 一瞬だけ、商人の笑みが消えた。すぐに笑顔が戻ったが——その一言には、計算ではない何かがあった。


 「では、また近いうちに」


 軽く手を上げて、出ていった。




 応接間に残されたカイン様と二人になった。


 窓の外で、ルドルフの荷馬車が城門を出ていくのが見えた。しばらく沈黙が続いた。


 「あの商人をどう思いましたか」


 カイン様は窓に背を向けて、腕を組んだ。


 「……数字に明るい」


 「はい。こういう方を探していました」


 カイン様の視線がわたくしに向いた。何かを測るような目だった。


 「お前と——話が合っていたな」


 「商売の話ですから。数字で会話できる相手は、ありがたいです」


 カイン様が視線を逸らした。窓枠に指を置いて、無言で外を見ている。その横顔が、商談中よりもかえって硬い。


 「身元は確認しておく」


 「お願いいたします」


 「……問題なければ、お前に任せる」


 そう言ってから、カイン様がこちらを一瞬だけ見た。言葉にならない何かが、深緑の目の奥に沈んでいた。


 「ただ——次も俺が同席する」


 (……商談の内容を確認するためだろうか。それとも——)


 「もちろんです。カイン様にいていただいた方が心強いです」


 カイン様は短く頷いて、応接間を出ていった。その足音がいつもより少しだけ速かったのは、気のせいだったかもしれない。




 夜、自室でルドルフとの商談の記録を整理した。


 品目、数量、想定単価。提案書を受け取るまでに、こちらの条件を固めておかなくてはならない。


 筆を走らせる手を止めて、窓辺の鉢に目をやった。先日カイン様が持ってきてくれた芽が、少し伸びていた。嵐の泥の中から拾い上げた、あの小さな緑だ。


 筆を走らせながら、ふとルドルフの顔を思い出した。人懐こい笑みの奥にあった、帳簿を見る目の鋭さ。故郷が水害で流されたと言ったときの、一瞬の素顔。あの言葉が本心なら、この人には辺境に肩入れする理由がある。


 (信用できる相手だと思う。でも、信用と油断は違う)


 それから——カイン様の横顔を思い出した。「お前と——話が合っていたな」。あの声が、なぜか引っかかっている。商売の話が合うのは当たり前だ。なのに、カイン様はそこに何か別のものを感じたような顔をしていた。


 「次も俺が同席する」——あれは、領主としての判断だったのだろうか。


 (……考えすぎだ)


 帳簿を閉じて、筆を置いた。やることが増えた。それが——嬉しい。



お読みいただきありがとうございます。

本日は2話投稿となっており、21時頃更新予定です。

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