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婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜  作者: きなこ
第1章「堕ちた令嬢と辺境の扉」

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第25話「辺境の春祭り」

第25話「辺境の春祭り」


 春祭りをやろう、と言い出したのはゾフィだった。


 「冬を越えた。嵐も越えた。死人も出なかった。祝わないでどうするんですか」


 城の食堂でそう言ったゾフィの顔は、料理を作るときと同じ——迷いのない目をしていた。




 カイン様に相談すると、短い沈黙の後に「好きにしろ」と返ってきた。


 (この「好きにしろ」は、許可の「好きにしろ」だ。もう分かる。初めて聞いたときは突き放されたかと思ったけれど、今は分かる。「お前に任せた」という意味だ)


 ディートリヒに確認したところ、毎年雪解けの時期に小さな春祭りをやっていたらしい。ただし去年は食料不足で中止だった。二年ぶりの開催になる。


 「盛大にはできませんが、城下の広場で食事と音楽があれば十分かと」


 「食事の分はゾフィに任せます。音楽はどうしましょう」


 「フランツの弟が笛を吹きます。あと、北の街区に弦を弾く老人がいたはず」




 準備に三日かけた。


 ゾフィと城下の女性たちが料理を仕込んだ。冬の残りの保存食と、嵐を乗り越えた備蓄の中から、祭り分を捻出した。わたくしが帳簿と睨み合いながら「ここまでなら出せます」と言うと、ゾフィが「十分ですよ。足りない分は腕で補いますから」と笑った。


 ウルズラが城下を回って参加者を募った。「二年ぶりだよ。来ないなんて言わせないよ」と。


 ルーカスが広場の掃除を買って出た。ハンスが城の備品から灯りを手配した。フリッツは——何もしなかったが、祭りの日の当番表を事前に調整して、なるべく多くの使用人が参加できるようにしていた。


 (フリッツなりの参加の仕方だ。この人の優しさはいつも帳簿と当番表に出る)




 祭りの日は、よく晴れた。


 城下の広場に長机が並べられた。ゾフィの煮込みスープ、焼きたてのパン、干し肉の炙り、根菜の漬物、セルカ芋の薄焼き。豪華ではないけれど、寒い冬の後に温かい食事が並んでいるだけで、空気が華やかになった。


 フランツの弟——名前はマルクスと聞いた——が笛を取り出した。「兄貴に頼まれたんで」と照れたように笑って、最初のひと吹きをした。広場にいた子供たちが走り寄った。


 北の街区から来た老人——コンラートと名乗った——が弦楽器を膝に乗せた。「二年ぶりだねえ。指が覚えてるといいんだが」と呟いて、笛に合わせてゆっくりと弾き始めた。辺境の旋律だった。王都の華やかな舞踏会とは違う、素朴で、土の匂いがするような音楽。


 (生の笛と弦。飾らない音楽だけど、体の奥に響く。どちらが豊かかは、聴けば分かる)


 「踊るかい」


 ウルズラが手を差し出した。


 「わたくし、こういう踊りは初めてで」


 「簡単だよ。手を繋いで、足を動かすだけさ」




 踊った。


 輪になって、手を繋いで、足を踏む。ステップはたった三つだった。それを笛と弦に合わせて繰り返す。王都の社交界で習った複雑なダンスとは全然違う。でも——楽しかった。


 ウルズラの隣にゾフィがいて、ゾフィの隣に若い侍女のエファがいた。エファの隣にルーカスがいて、ルーカスは足がもつれて二回転んだ。周りが笑った。ルーカスも笑った。


 (誰かと手を繋いで踊るなんて、初めてだ。こんなに——体が軽いのは、初めてだ)


 二曲目が始まった。マルクスの笛が少し速くなった。コンラートの弦が追いかける。足が自然に動いた。スカートの裾が翻った。


 笑い声が上がった。自分が笑っていることに、途中で気づいた。




 スープを配っていたとき、フランツが寄ってきた。


 「エリナ様、一つ聞いていいか」


 「はい、何でしょう」


 「あんた——なんでこの辺境に来たんだ」


 直球だった。フランツらしい。嵐の日に干し肉を提供してくれた鍛冶師の、飾らない問い。


 「お役に立てると思ったからです」


 「最初からそう思ってたのか」


 少し考えた。嘘はつきたくなかった。


 「……正直に申しますと、最初は——居場所を探していたのかもしれません」


 フランツは腕を組んで、しばらく黙っていた。


 「見つかったか」


 「……はい。たぶん」


 「そうか」


 フランツはそれだけ言って、スープを一杯もらって戻っていった。不器用なのはカイン様だけではないらしい。




 日が傾き始めた頃、ふと広場の端に目がいった。


 大きな樫の木の下に、カイン様が立っていた。腕を組んで、壁にもたれて——いつものように、少し離れた場所から祭りを見ている。


 みんなが笑っている。音楽が鳴っている。でもカイン様は、その輪の外にいる。


 (入ってこないのではなく、入り方を知らないのだ。この人はいつもそうだ)


 足が——動かなかった。


 なぜだろう。ただ「踊りませんか」と聞くだけだ。仕事の相談なら何度もしている。でも、これは仕事じゃない。


 (断られたらどうしよう。なぜ今は——こんなに緊張しているのだろう)


 息を吸った。足を踏み出した。


 カイン様のそばに行った。


 「カイン様」


 「……ああ」


 「踊りませんか」


 言ってしまってから、自分の言葉に驚いた。何を言っているのだ、わたくしは。


 カイン様の目が少し見開かれた。


 「俺は——踊れない」


 「大丈夫です。ステップは三つだけですわ」


 「三つでも多い」


 (行きたくないのではなく、どうしていいか分からないだけ。そういう人だ)


 「手を繋いで、足を動かすだけです。わたくしも今日初めて覚えました」


 カイン様は黙っていた。長い沈黙だった。広場からマルクスの笛が聞こえている。


 「……一曲だけだ」


 差し出した手を、大きな手が掴んだ。




 広場の端で、二人だけで踊った。


 輪には入らなかった。樫の木の影で、笛の音だけを頼りに。


 カイン様のステップは——正直に言って、ひどかった。リズムに合っていない。一歩目が大きすぎて、二歩目で止まる。三歩目でわたくしの足を踏みそうになって、慌てて引いた。


 「すまない」


 「大丈夫ですわ。もう一度」


 繰り返した。一歩、二歩、三歩。二回目は少しだけましになった。三回目で、なんとか形になった。


 カイン様の手は大きくて、温かくて、剣を握る人の手だった。力の加減が分からないのか、最初は強く握りすぎて、途中で慌てて緩めた。その不器用さが——なぜだか、胸に来た。


 「上手ですわ」


 「嘘だろう」


 「……少し、嘘です」


 思わず笑った。カイン様の口元が、ほんのわずかに緩んだ。




 一曲が終わった。


 手を離した。カイン様が——一瞬、自分の手を見下ろした。それから、何事もなかったように腕を組み直した。


 指先に、まだ温もりが残っていた。広場の向こうでウルズラがこちらを見ていた。目が合うと、ウルズラは「やっぱりね」と言うように小さく笑った。


 「ありがとうございました、カイン様」


 カイン様は何も言わなかった。ただ、わたくしの顔を見ていた。夕焼けの光の中で、深緑の目が——いつもより少し、柔らかく見えた。


 「……楽しかったか」


 「ええ、とても」


 カイン様の口元がもう一度ほころんだ。


 今度は——はっきりと。口の端がわずかに上がって、目が穏やかに緩んでいた。


 (——カインの、笑顔)


 呼び捨てが頭の中で漏れた。慌てて打ち消した。


 心臓が、大きく一つ跳ねた。




 帰り道、ヨハンナと並んで城への坂を上った。


 「楽しそうでしたね、お嬢様」


 「ええ。……とても」


 ヨハンナは何も聞かなかった。ただ、にこにこしていた。


 城門をくぐるとき、ふと振り返った。城下の広場にはまだ灯りが揺れていた。笛の音が、遠くに聞こえた。


 風に乗って、春の匂いがした。


 (わたくし、この場所が好きだ。この空気が、この人たちが——)


 ふと、さっきの笑顔が脳裏に浮かんだ。カイン様の、あの口元。


 頬が熱い。夕焼けのせいだと思った。



お読みいただきありがとうございます。

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