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婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜  作者: きなこ
第1章「堕ちた令嬢と辺境の扉」

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第24話「冬越しの成果」

第24話「冬越しの成果」


 嵐が過ぎて四日目の朝だった。


 橋の修復が完了した知らせをフリッツから受けたのは、朝食の直後だった。二日で終わるとカイン様は言っていたが、城下の男たちが自主的に手伝いに来て、一日半で架け直したそうだ。




 「それから、エリナ様。ディートリヒからもう一つ報告がございます」


 フリッツが帳簿を一枚差し出した。見たことのない書式だった。


 「これは」


 「冬季の被害報告書でございます。毎年、雪解け後にまとめるものです。今年は嵐の影響で遅れておりましたが、本日ディートリヒがまとめました」


 受け取って、目を通した。




 数字が並んでいた。


 凍死者数。餓死者数。凍傷による重傷者数。家屋の倒壊数。家畜の損失数。


 去年の欄と、今年の欄が並んでいる。


 凍死者——去年は三名。今年はゼロ。


 餓死者——去年は一名。今年はゼロ。


 凍傷重傷——去年は十一名。今年は二名。


 二名。ゼロにはできなかった。備考欄を読んだ。北の街区の老夫婦——暖炉石の配置替えが間に合わなかった区画の住人だった。


 (全部は、守れなかった)


 家屋倒壊——去年は四棟。今年は一棟(東翼のみ)。


 帳簿から目を上げた。数字が滲んで見えた。


 (ゼロ——死者は、ゼロ。でも完璧じゃない。ほぼ全員が無事だった。ほぼ——その「ほぼ」が、指先を失った二人のことだ)


 北の街区の地図を思い浮かべた。暖炉石の配置を組んだのはわたくしだった。あの区画の優先度を一つ上げていれば——一日早く訪問して確認していれば、あの二人の指先は残っていたかもしれない。


 (三百人を守った、と言えば聞こえはいい。でも二人の指先は戻らない。その事実を忘れたら、わたくしは数字しか見ない人間に戻ってしまう)




 前世で帳簿を見て泣きそうになったことは一度もなかった。


 数字は数字だった。利益が出れば嬉しい、赤字なら胃が痛い、それだけ。でも今、この数字は違う。去年の「三」は、三人の人間が凍えて死んだということだ。今年の「ゼロ」は、その三人分の命が——保存食と暖炉石の配置替えと、冬の備えで守られたということだ。


 そして凍傷の「二」は、わたくしの手が届かなかった場所があるということだ。


 指先が震えた。帳簿を置いた。


 「フリッツ」


 「はい」


 「……これ、本当ですか」


 「ディートリヒは数字を間違えない男でございます」


 フリッツの声はいつも通り静かだった。けれど、目元にいつもと違うものがあった。




 カイン様に呼ばれたのは、昼前だった。


 執務室に入ると、カイン様が窓際に立っていた。手に同じ帳簿を持っている。


 「読んだか」


 「はい。フリッツからいただきました」


 カイン様が帳簿を机に置いた。わたくしの方を向いた。


 「今年の冬は——お前のおかげだ」


 短い。カイン様の言葉はいつも短い。でも、今の一言は——重かった。


 「皆様の——」


 「違う」


 遮られた。カイン様の声には、問答を許さない力があった。


 それ以上は何も言わなかった。列挙も補足もない。ただ「違う」の一言で、わたくしの謙遜を退けた。


 心の底が、きゅっと痛いくらい締まった。目の奥が熱くなった。


 「……ありがとうございます」


 それ以外の言葉が出てこなかった。声が震えた。下を向いた。目を合わせたら、泣いてしまう。




 カイン様は少し黙ってから、付け足すように言った。


 「ディートリヒと話した。今年の冬の成果を、領民に報告したい」


 「報告、ですか」


 「数字を見せる。去年と今年の違いを。お前がやったことを、みんなに知らせる」


 (去年「三」だった数字がゼロになった。それを伝えることには、どんな報告会よりも重い意味がある)


 「わたくしの名前を出す必要はありません。みんなで成し遂げたことですから」


 カイン様の目が、少しだけ細くなった。


 「……お前は、自分の手柄を取らないな」


 「取るようなものではありませんわ」


 「そういうところだ」


 何がそういうところなのか分からなかった。カイン様はそれ以上説明せずに、窓の外を見た。




 夕方、城の食堂に人が集まった。


 城の使用人たち。城下の代表者たち。嵐の時に集まったのと同じ面々だが、今回は空気が違った。不安はない。窓の外に青空が見えている。


 カイン様が壇上に立った。


 「冬の報告をする」


 それだけで、場が静かになった。


 「今年の冬季被害は——凍死者ゼロ。餓死者ゼロ。凍傷重傷者は二名。去年と比べて、大幅に減った」


 一瞬の間があった。


 それから、誰かが息を吐いた。ウルズラが隣の女性の手を握った。ゾフィが口元を手で押さえた。ハンスが目を伏せた。


 カイン様は続けた。


 「保存食の備蓄。暖炉石の効率化。嵐の時の食料分配。これらが功を奏した。——関わった全員の力だ」


 わたくしの名前は出さなかった。わたくしがそう頼んだから。


 でも——何人かの視線がこちらに向いていた。


 ウルズラが微笑んだ。ゾフィがうなずいた。ルーカスが目を輝かせていた。フリッツは——相変わらず表情は読めなかったが、いつもより背筋が少しだけ緩んでいるように見えた。




 報告が終わると、自然と宴になった。ゾフィがスープと焼きたてのパンを運び、フランツが隠し持っていた麦酒の樽を転がしてきた。儀式でも祭りでもない。同じ冬を越えた人たちが、同じスープを飲んで笑っている——それだけの、小さな宴だった。




 壁際に立って、みんなの様子を見ていた。


 (あの頃の忘年会では、早く帰りたいとしか思わなかった。誰かと同じ空間で笑うことに、こんなに安心するなんて、知らなかった)




 宴が終わりかけた頃、カイン様が食堂の入口に立っているのが見えた。


 中には入ってこない。壁に背をもたれて、腕を組んで、みんなが笑っているのを見ていた。


 わたくしは近づいた。宴の灯りが背中にある分、カイン様の横顔だけが暗がりの中にあった。


 「入られないのですか」


 「……騒がしいのは得意じゃない」


 「でも、今日の報告は——良いものでしたわ」


 壁にもたれたカイン様の隣に、わたくしも背中を預けた。肩までは届かない。カイン様の方が背が高いから、わたくしの頭の位置はカイン様の肩のあたりだった。近い。


 カイン様は何も言わなかった。ただ、食堂の中を見ていた。ウルズラが手を叩いて笑っている。ゾフィがパンを焼き足している。


 「……悪くない」


 カイン様の口元が、ほんのわずかにほどけた。


 ふいに、カイン様が口を開きかけた。わたくしの方を向いて——何かを言いかけて。


 そのとき、廊下の奥からフリッツの声が響いた。


 「辺境伯。北区画の夜警から、報告が入っております」


 カイン様の口が閉じた。一瞬だった。けれど確かに、何かを飲み込んだ顔だった。


 「……行く」


 短く言って、カイン様は暗がりの中へ歩いていった。


 壁にもたれたまま、その背中を見送った。今——何を言おうとしたのだろう。聞けなかった。聞いてはいけなかったのかもしれない。




 翌朝。管理棟でディートリヒと顔を合わせた。


 帳簿の引き継ぎをしている途中で、ディートリヒが淡々と言った。


 「エリナ様。昨日の報告の件ですが——原稿に、エリナ様のお名前が入っていたのをご存じですか」


 手が止まった。


 「原稿に、ですか」


 「辺境伯が自ら書かれたものです。保存食の備蓄計画はエリナ・フォン・ヴァルトシュタインが立案し実行した、と。けれどエリナ様が名前を出すのを辞退されたので、昨日の朝に修正されました」


 ディートリヒは数字を間違えない男だ。事実を曲げることもしない。


 「……そうでしたか」


 声が小さくなった。


 カイン様が——わたくしの名前を、自分の手で書いてくれていた。報告の場では言わなかった。わたくしが断ったから。でも、原稿には残していた。


 帳簿の数字が、少し滲んで見えた。


 朝の管理棟は静かだった。ディートリヒの筆が帳簿を走る音だけが響いている。宴の喧騒の中で知るよりも、この静けさの中で聞いた方が——ずっと、深く響いた。



お読みいただきありがとうございます。

ここまでお付き合いいただいた方、本当にありがとうございます。


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