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婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜  作者: きなこ
第1章「堕ちた令嬢と辺境の扉」

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第23話「嵐を越えて」

第23話「嵐を越えて」


 あの後、カイン様と一緒に城下の十二軒あまりを回って備蓄を確認した。足りない品目は城の備蓄から融通し、各戸の保存食の状態も把握できた。簡単ではなかったが、二週間でひとまず全体像が見えた。——その準備が、ようやく整った矢先だった。


 目を覚ましたとき、部屋の中が暗かった。


 朝のはずだ。窓の外の空が異様だった。黄色がかった重たい雲が低く垂れ込め、風が唸っている。




 階段を下りたところで、カイン様と鉢合わせた。軍服の上に革の外套を羽織り、手袋を片方だけ口にくわえている。


 「カイン様」


 「始まった」


 一言だった。春の嵐だ。予想より一日早い。ディートリヒが駆けてきた。「城下の南側で水位が上がり始めています」


 「城下に出る。南側の低地から住民を高台へ移す」




 カイン様が外套の留め金を締めながら、わたくしを見た。


 「城を頼む」


 短い。けれど、その三文字には重さがあった。東翼の夜も同じ視線をくれたが、あの時は言葉にはならなかった。今日は、言葉になった。


 「はい。お任せください」




 (まず状況の確認。次に人の配置。それから物資の把握)


 城の各所を回った。窓の板戸が外れかけている箇所を二つ見つけて、使用人に補強を指示した。地下倉庫への浸水点検。ゾフィには厨房の準備を頼み、避難してくる住民のために温かいスープを大鍋で用意してもらった。


 風が強くなっていく。石壁が揺れることはないが、窓の隙間から吹き込む風が蝋燭を何度も消した。


 カイン様が城に戻ったのは昼過ぎだった。ずぶ濡れで城門をくぐってきた。髪から雫が垂れ、外套の裾から泥水が滴っている。乾いた布を差し出した。受け取るとき、濡れた指先が一瞬触れた。氷のように冷たかった。


 「南側低地は浸水した。問題がある。共有倉庫が水に浸かった」




 あそこには冬の残りの保存食が保管されていた。管理棟に駆け戻り、帳簿を広げた。


 (足りない。交易路が再開するまでの食料が足りなくなる)


 概算で答えが出た。一日の配給量を二割減らせば、なんとか持つ。


 カイン様に計算結果を見せた。「……正確だな」


 「城下の住民に、どう伝える」


 「正直に伝えます。足りないものは足りない。でも分け合えば乗り越えられる、と」


 「……お前が話すか」


 (「話せ」でもなく「話すか」——わたくしに選ばせてくれている)




 夕方、食堂に人を集めた。壁際にカイン様が腕を組んで立っていた。


 帳簿の数字を見せながら、八割配給を提案した。


 ウルズラが最初に口を開いた。「あんた、正直に言ってくれてありがとうね」


 ゾフィが立ち上がった。「八割でも、やりようはいくらでもありますよ」


 壁際のカイン様を見た。何も言わない。でもその目がこちらを見ていた。小さく頭を下げた。カイン様がわずかに顎を引いた。それだけで、十分だった。




 翌朝、ゾフィとウルズラに声をかけて、城下の食料の偏りを調べた。


 (前のわたしなら全部自分で抱え込んでいた。得意な人に頼んだ方がずっといい)


 「余っているものと足りないものを突き合わせれば、お互いに助かるはずです」


 老婆の「……塩がないんだよ」という小さな声が、胸に刺さった。塩が足りない家に芋が余っている家から回し、穀物粉が足りない家に干し肉が余っている家から渡った。帳簿の数字が線で結ばれていく。三日で、不足と余りの線が繋がっていった。




 夜になった。蝋燭が半分以上溶けていた。


 今日は一人で全部を抱え込まなかった。けれど——こういう時が一番怖い。冷静に話せたのは仕事の技であって、わたくし自身の強さではない。計算が間違っていたら。嵐が十日以上続いたら。足りなくなった食料の前で、あの人たちはどんな顔をするだろう。


 膝を抱えて、椅子の上で小さくなった。窓の外で風が叫んでいる。雨が板戸を叩く音が、途切れない。




 そのとき——廊下から足音がした。重い、聞き慣れた響きだ。


 わたくしの部屋の前で、一瞬だけ止まった。ほんの二、三拍分の沈黙。


 扉の向こうから、低い声がした。


 「火は、足りているか」


 小さな声だった。扉越しに、やっと聞こえるほどの。


 声を出そうとした。でも喉が詰まって、すぐには出てこなかった。足音が遠ざかっていく。


 「……足りて、おります」


 ようやく絞り出した声は、たぶん届かなかった。




 扉には手をかけなかった。けれど、しばらく動けなかった。


 ふと、机の端に皿が置かれていた。ゾフィの煮込みと、パンが一切れ。あの足音が止まった一瞬に、置いていったのか。


 パンをちぎった。半分を残した。明日の朝、カイン様に渡そう。この人は自分の分を後回しにする人だから。


 煮込みを一口すくった。おいしかった。お腹が空いていたことに、やっと気がついた。


 (一人じゃない。前世とは違う。今は、一人じゃない)


 目の奥が、じんと熱い。薬草の匂いのせいだ。きっと、そうだ。




 三日目の朝、目を覚ますと——静かだった。


 窓の板戸の隙間から、細い光が差し込んでいる。雨の音がしない。風も止んでいた。板戸を開けると、目の奥が痛くなるほどの青空が広がっていた。


 久しぶりの青だった。三日間、灰色と黄色しかなかった空が、嘘みたいに澄んでいる。空気はまだ湿っているけれど、肌に触れる風は冷たくない。春の風だった。




 身支度を整えて管理棟に向かった。廊下を歩いていると、窓を開けている使用人とすれ違った。三日ぶりに窓が開いている。それだけのことで、城の空気が変わっていた。


 フリッツに状況を確認した。城下の道は泥で塞がっている箇所が複数あり、南側の浸水地区はまだ排水が終わっていない。交易路は山道に土砂が流れ込み、復旧には最低五日。八割配給の計算は十日分だった。嵐が三日で済んだから、余裕はある。


 (足りる。数字は合う。——よかった)


 城門が開く音がした。重くて、でも確かな歩調。カイン様だった。泥が膝まで跳ねた軍靴。外套の裾が湿っている。朝早くから城下を見に行っていたのだ。三日ぶりに明るい光の下で正面から顔を見た。疲れている。でも、目は落ち着いていた。


 「城下の状況を確認したい。一緒に来い」


 (「来い」だ。嵐の初日は「城を頼む」だった。今度は、一緒に来いと言ってくれた。——嬉しい、と思ってしまった。それだけのことなのに)




 城下に出ると、景色が変わっていた。


 南側の低地にはまだ水が残っていた。家屋の壁に泥の線がくっきりと残り、流木が道の端に打ち上げられ、柵が倒れ、石畳の一部が剥がれていた。


 けれど、人はもう動いていた。家の前で泥を掻き出している男たち。壁を拭いている女性たち。子供がバケツを運んでいる。


 「あ、エリナ様!」


 ウルズラだった。頭に手ぬぐいを巻いて、箒を持っている。


 「皆さん、お変わりありませんか」


 「なんとかね。うちは床下で止まったよ。でもまあ、みんな無事だ。あんたが作ってくれた交換のおかげでね。朝はベッカー一家の穀物粉でパンが焼けたし、フランツの干し肉も残ってる。ゾフィが温かいスープを届けてくれたよ」


 わたくしが考えた仕組みが、動いている。帳簿の上だけじゃなくて、実際の食卓の上で。あの日、帳簿に引いた線の上を、食べ物が流れている。


 鼻の奥がつんとした。


 (帳簿の数字が、パンの匂いに変わっている)




 カイン様と城下を巡った。橋が一つ流され、石畳が剥がれた道があり、城壁の南西角が一部崩れていた。カイン様が独り言のように「……これはまずい」と呟いた。土台から補修する必要がある。被害は小さくなかった。


 城下の南端まで来たとき、足元で何かが目に入った。


 泥の中だった。流木と瓦礫に囲まれた、茶色い地面の隙間に——小さな緑色があった。


 しゃがんだ。指先で泥をそっとよけた。


 芽だった。


 まだ親指の爪ほどの大きさしかない。茎は細くて頼りなくて、泥の重みに押されながらも、まっすぐ上を向いている。


 「……春ですわ」


 声が出ていた。自分でも驚いた。


 立ち上がって振り返ると、カイン様がすぐ後ろにいた。わたくしが何を見ていたのか、気になったのだろう。同じ場所を見下ろした。


 「草か」


 「芽です。嵐の後に、ここから出てきたんです」


 カイン様はしばらく黙って、泥の中の小さな緑を見ていた。


 「……しぶといな」


 低い声だった。芽のことを言っているのだと思った。でも、カイン様の視線はわたくしの方に動いていた。


 気のせいかもしれない。気のせいだと思うことにした。




 昼過ぎに城に戻り、被害の全容を整理した。人的被害なし。家屋の全壊なし。浸水十二軒。橋の流失一箇所。城壁の南西角が一部崩落。


 カイン様が復旧の優先順位を示した。城壁が先。橋が次。排水。道は最後。


 ハンスが付け加えた。「ベルゲン村からも使いが来ておりまして。あちらも嵐で食料が減ったと」


 帳簿の数字を頭の中で動かした。「問題ありません。備蓄には余裕があります。保存食の一部を融通しましょう」


 カイン様が頷いた。「手配は俺がする」




 夕方、管理棟の執務室で帳簿を整理していると、窓から三日ぶりの夕焼けが見えた。雲の端がオレンジ色に燃えていて、空の高いところだけがまだ青い。


 城下の方から、笑い声が聞こえた。子供だろうか。


 (あの頃は、大きな問題の後に笑い声が戻るまでが一番長かった。ここでは——三日で、もう笑い声が聞こえている)




 ノックの音がした。


 「どうぞ」


 カイン様だった。手に、何かを持っていた。小さな——鉢のようなものだ。


 「これは」


 「さっきの」


 泥の中にあった芽だった。小さな木の鉢に、土ごと移されている。


 「……掘り起こされたのですか」


 「踏まれる場所にあった」


 それだけ言って、窓際の棚に置いた。


 「ここなら日が当たる」


 わたくしはしばらく、鉢の中の小さな緑を見つめた。泥から掘り起こされて、日の当たる場所に置かれた芽。


 なぜだか、胸の奥がきゅっと締まった。


 「ありがとうございます、カイン様」


 「……冬も嵐も越えた。ここからだ」


 カイン様は窓の外を見ながら言った。夕焼けの光が横顔に当たっていた。


 その言葉は——芽に向けたのか、わたくしに向けたのか、この辺境全体に向けたのか。たぶん、全部だ。


 「はい。ここからですわ」


 窓の外に、春の風が吹いていた。


 鉢の芽を窓辺の光に近づけた。まだ小さい。でも、茎がまっすぐだ。嵐の泥の中にいたのに、折れていない。


 わたくしはそっと指先で葉に触れた。柔らかかった。こんなに小さいのに、ちゃんと生きている。




 しばらくして、廊下でフリッツとすれ違った。


 「フリッツ、一つ聞いてもよいですか。カイン様は、城下の巡回はもうお済みだったのでは」


 「ええ。一度お戻りになられました。ですが城壁の南西角をもう一度確認すると仰って、また出て行かれまして。戻られたのは、つい先ほどです」


 南西角——あの芽があった場所の近くだ。城壁の確認ついでに、あの場所を通ったのだろうか。いや——。


 (あの芽の場所は、城壁からは少し離れている。城壁の確認だけなら、わざわざあそこまで行く必要はない)


 心の奥のきゅっとしたものが、またじわりと広がった。


 鉢の中の芽は、何の花を咲かせるのだろう。明日、ゾフィに聞いてみよう——復旧の報告をまとめながら、そんなことを考えている自分が、少し可笑しかった。


お読みいただきありがとうございます。

ここまでお付き合いいただいた方、本当にありがとうございます。


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