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婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜  作者: きなこ
第1章「堕ちた令嬢と辺境の扉」

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第22話「冬の終わり、春の兆し」

第22話「冬の終わり、春の兆し」


 空気の匂いが、変わった。


 朝、窓を開けたときに気づいた。昨日までは鼻の奥を刺すような、乾いた冷たさがあった。今日はそれが少しだけ柔らかい。石壁を撫でる風に、かすかな湿り気が混じっていた。


 (春が、近い)


 城の中庭を見下ろすと、屋根の雪が端からぽたぽたと滴を垂らしていた。氷柱の先端が丸くなっている。


 冬が、ほどけ始めている。




 管理棟に向かうと、窓から差し込む光の量が明らかに増えていた。


 昼の時間が伸びた、とわたくしは思った。感覚ではない。帳簿仕事に使える時間が、体感で指二本分ほど長くなっている。蝋燭を灯す時刻が遅くなった。


 (人間は光で時間を計るものなんだな)


 執務室に入ると、フリッツがすでに帳簿を開いて待っていた。


 「おはようございます、フリッツ」


 「おはようございます、ヴァルトシュタイン嬢。本日の帳簿確認の前に、一件ございまして」


 フリッツの声がいつもより少しだけ硬い。それだけで、ただの帳簿の話ではないとわかった。この人が声の調子を変えるのは、何か厄介な情報があるときだ。


 「カイン様がお待ちです。大広間にて」




 大広間には、カイン様とディートリヒがいた。フリッツも帳簿を抱えてわたくしの後ろからついてきた。声をかけるまでもなく、この人は必要な場にはいつも揃っている。


 テーブルの上に地図が広げてあった。辺境伯領の全域を描いた大きな地図だ。城を中心に、北の山脈、東の鉱山、南の交易路、西の森。この数ヶ月で何度も見てきたものだが、今日は何箇所かに赤い印がついていた。


 カイン様がこちらを見た。深緑の目が、いつもよりわずかに鋭い。


 「座れ」


 わたくしは椅子を引いて座った。カイン様とディートリヒの間、地図が正面に見える位置だった。


 「春の嵐の話をする」


 カイン様はそう言った。短い。余計な前置きがない。この人の話し方にはもう慣れていた。




 「春の嵐は、冬より怖い」


 カイン様の声は低く、静かだった。


 「辺境では毎年、雪解けの頃に嵐が来る。数日で気温が跳ね上がり、積もった雪が一気に溶ける。鉄砲水と暴風雨が同時に来る」


 ディートリヒが口を開いた。


 「補足させていただきますと、去年は三日間、城下が浸水しました。水位が膝を越えた地域もありまして。橋が二本流されました。復旧に一ヶ月かかっております」


 膝を越えた、と聞いてわたくしは息を呑んだ。この辺境の冬を乗り越えてきたばかりだというのに、それより怖い嵐がこれから来るという。


 「交易路も使えなくなる。最低でも五日。長ければ十日以上」


 カイン様が地図の南を指で叩いた。王都へ繋がる街道の部分だ。


 「雪崩と増水で道が塞がれる。その間、城も城下も、外からの物資は入らない」


 (つまり、嵐が来てから出る間は、完全に自力で凌ぐしかない)




 ディートリヒが続けた。


 「例年ですと、早ければあと二週間ほどで嵐の兆候が出ます。遅くとも一ヶ月以内には確実に来ると考えております」


 「時期は読めるのですか」


 「完全には読めません。ただ、いくつかの兆候があります。鳥の動き、川の水嵩、山の雪線の変化——それと、風の匂いですね」


 ディートリヒは穏やかにそう言ったが、目は笑っていなかった。


 「辺境に長くいる者ほど、嵐の気配に敏感になります。カイン様は特に、鼻が利かれますので」


 カイン様がちらりとディートリヒを見た。何か言いたそうだったが、何も言わなかった。


 (鼻が利く辺境伯。……なんだか可愛い、とか思ってはいけない場面だ)




 わたくしは地図を見つめた。冬の間に見てきた帳簿の数字が、頭の中で動き始めていた。


 「フリッツ。現在の食料備蓄は」


 フリッツが静かに帳簿を開いた。


 「城と城下を合わせまして——およそ二週間分でございます。冬の修復工事と厳冬期の消費で、想定より減っております」


 二週間。嵐が来れば交易路は五日から十日以上閉ざされる。嵐が来るまでの猶予も、早ければ二週間しかない。


 胸の奥が、ぎゅっと締まった。数字の話ではない。人の食べ物の話だ。


 前世だったら、ここで震えていた。でも今は——手が止まらなかった。


 指先は冷えている。けれど炭筆を持つ力は安定していた。不足分の数字が見えている。対処の手順が浮かんでいる。


 (まだ時間はある。そして、一人じゃない)


 カイン様がこちらを見ていた。


 何も言わなかった。ただ、見ていた。その視線が不思議と重くなかった。問い詰めるのでもなく、急かすのでもなく——ただ、そこにいるという視線だった。




 わたくしは帳簿に目を戻した。


 「一つ、提案があります」


 カイン様が、顎をわずかに引いた。聞いている、という合図だ。


 「城と城下の食料を、今の段階で全て把握して、ひとまとめに管理したいのです」


 「ひとまとめに」とディートリヒが繰り返した。


 「はい。今は城の備蓄と城下の備蓄が別々に管理されています。城はフリッツが帳簿で把握していますが、城下は各世帯が自分で管理している状態です。全体像が見えない」


 フリッツが小さく頷いた。


 「その通りでございます。城下の備蓄は、正確には把握しておりません」


 「まず城下の備蓄を調べて、全体の蓄えを把握します。そのうえで、嵐の間に必要な量を日数ごとに割り出します。足りない分は嵐が来る前に手配する。もし手配が間に合わなければ——誰がどれだけ食べられるかを事前に決めておく」


 ディートリヒが顎に手を当てた。「つまり、みんなの食べ物を集めて数えて、分け方を先に決めておく——ということですな」


 うまくまとめてくれた。わたくしが言葉を探す手間を、この人はいつもさりげなく省いてくれる。




 沈黙があった。


 ディートリヒが最初に口を開いた。


 「城下の備蓄を調べるとなると、各世帯に協力を求める必要がありますね。抵抗を示す者もいるかもしれません」


 「そこはウルズラに相談します。冬の保存食づくりのときに、城下の方々と関係を築いてきましたから」


 ディートリヒは少し考えてから、付け加えた。


 「まず城下の代表者に趣旨を説明する場を設けてはいかがでしょう。いきなり各戸を回るより、代表者の同意を得てからの方が、領民の理解も得やすいかと」


 なるほど、と思った。わたくしは全体の数字を急いでいたが、ディートリヒは人の感情の順序を見ている。この人に相談してよかった。


 「おっしゃる通りです。代表者の方々にまず説明して、そこから各戸に広げましょう」


 「フリッツ、城の備蓄の詳細な帳簿を今日中に出してもらえますか。品目ごとに、残量と一日あたりの消費量を」


 「承知いたしました」


 フリッツは短く答えた。ためらいがなかった。この人がためらわないのは、頼みごとの筋が通っていると判断したときだ。




 わたくしはカイン様を見た。


 最終的にこの提案を許可するのは、領主であるこの人だ。


 カイン様は地図に目を落としたまま、しばらく黙っていた。わたくしはその沈黙を待った。この人の沈黙は、考えている時間だ。


 やがて、カイン様が顔を上げた。その視線が一瞬、わたくしの手元に落ちた。帳簿を押さえている指先が、寒さで白くなっていた。


 「一緒に見る」


 「……え?」


 「城下の備蓄確認。俺も行く」


 想定していなかった答えだった。「やってみろ」と言われると思っていた。あるいは「ディートリヒをつける」か。


 「カイン様がご自身で、ですか」


 「領民の食料の問題だ。俺の仕事だ」


 「任せる」ではなく、「一緒にやる」。その違いが、胸に落ちた。




 ディートリヒが、微かに笑みを浮かべた。


 隠しきれていなかった。でも口には出さなかった。


 「では、明日の朝から始めましょう。まず城の帳簿を完成させて、その足で城下に回ります」


 カイン様が頷いた。


 ディートリヒが地図を畳み始めた。フリッツは帳簿を抱えて、静かに部屋を出ていった。


 大広間に、カイン様とわたくしだけが残った。




 「カイン様」


 「何だ」


 「春の嵐のこと、教えていただいてありがとうございます。早めに知ることができて、助かりました」


 カイン様は椅子の背にもたれた。表情は変わらない。でも声が、ほんの少しだけ柔らかかった。


 「礼を言うのは俺の方だ。食料の問題に気づいていなかった」


 「いえ、フリッツが帳簿を正確につけてくださっていたから気づけたんです」


 カイン様がこちらを一瞬見て、立ち上がった。


 「明日、朝一で来い」


 それだけ言って、大広間を出ていった。




 自室に戻ったのは、夕方過ぎだった。


 帳簿の確認に追われて、気がつけば蝋燭を二本使い切っていた。品目ごとの蓄えを書き出し、一日あたりの消費を割り出した。嵐の想定日数ごとに必要な量を計算した。


 机の上に、見覚えのない包みがあった。


 布に包まれた温石だった。暖炉で温めてから布で巻いたもので、手の平に収まる大きさだ。手に取ると、まだほんのりと温かい。


 紙片も何もない。ただ、温石が置いてあるだけ。


 (フリッツでもヨハンナでもない。この部屋に入れる人は限られていて——)


 温石を両手で包んだ。冷えていた指先に、じわりと熱が移ってくる。


 何も言わないのだ。あの人は。言葉ではなく、こういう形で。




 扉をノックする音がした。


 「エリナお嬢様、お夕食の時間でございますよ」


 ヨハンナの声だった。


 「もう少しだけ——」


 「いいえ。もう少し、はお嬢様の口癖でございます。お食事を抜かれるのは、わたくし、許しませんので」


 (有無を言わせない。さすがだ)


 わたくしは炭筆を置いて、立ち上がった。椅子から離れた瞬間、体がぐらりとした。腰と肩が、まとめて悲鳴を上げた。


 「……ずいぶん長く座っていたみたいです」


 「そのようですね。お顔に疲れが出ておりますよ」


 ヨハンナがわたくしの肩をそっと押した。食堂へ向かうよう促す、静かだけれど逆らえない手だった。




 食堂へ向かう廊下で、窓の外を見た。


 日没が遅くなっていた。冬の盛りには、この時間にはとっくに暗くなっていた。今はまだ空の西側に、淡い橙色が残っている。


 (確かに、冬は終わりに近づいている)


 でもその終わりの向こうに、春の嵐が待っている。


 冬を越えたと思ったら次の嵐。でも、一つだけ違うことがある。


 明日、カイン様が一緒に来る。「やってみろ」ではなく「一緒に見る」と。


 それだけのことが、こんなにも心強い。


 わたくしは食堂の扉を開けた。ゾフィのスープの匂いが、中から流れてきた。




 夜。寝台に入ってからも、明日の段取りが頭を巡っていた。


 枕元に持ってきていた地図を広げた。蝋燭の灯りの中で、備蓄の分布を書き込もうと炭筆を取った。


 けれど疲れが重たい。一日中走り回った体が限界を訴えている。書き込みを始めた炭筆がかすれて、思わず地図の上にぐったりと手を突いた。


 ——温かい。


 手のひらの下、ちょうど鉱山の位置あたりに、じわりとした温もりがあった。


 この感覚には覚えがあった。ルーン石の噂を耳にした夜、蝋燭を消した暗闇の中で指先が温かくなった。あのときと同じだ。


 手を引いた。温もりが消えた。もう一度、そっと手を置いてみた。


 今度は指先だけではなかった。手のひら全体がじんわりと温かくなっていく。脈に合わせるように、かすかに熱が波打っている。


 わたくしは息を止めた。手をじっと見つめた。何も起きていない。光っているわけでもない。ただ——さっきより、明らかに広い範囲が温かい。


 数秒、そのまま動けなかった。やがて手を引いて、地図を畳んだ。


 (……気になる。けれど今は、嵐の備えが先だ。食料の問題が片付いてから、改めて調べよう)


 蝋燭を吹き消した。暗闇の中で、指先の熱の残像だけが消えなかった。



お読みいただきありがとうございます。

ここまでお付き合いいただいた方、本当にありがとうございます。


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