第21話「王都からの手紙」
第21話「王都からの手紙」
その朝、わたくしが最初に気づいたのは、空の色だった。
窓を開けると、灰色でも白でもない、うっすらと青みがかった冬の空が広がっていた。吹雪の気配がない。風も、昨日より弱い。
(少しだけ、春の匂いがする)
もちろん気のせいだろう。辺境の冬は、そう簡単には明けない。でも窓枠に手を当てたとき、指先の感触がいつもより少しだけぬるかった。
朝食を終えて管理棟に向かうと、フリッツが廊下で待っていた。
珍しいことだった。この人が執務室の外でわたくしを待つことなど、今まで一度もなかった。
「ヴァルトシュタイン嬢。帳簿確認の前に、一つお伝えしたいことがございまして」
フリッツはそう言って、手に持っていたものを差し出した。
封書だった。厚手の紙に、深い青の蝋封——ヴァルトシュタイン公爵家の紋章だ。
「今朝方、雪解けの街道を通って使者が参りました。王都からの便でございます」
封書を受け取った。重い。中に何枚か手紙が入っている感触がした。
宛名を見た。
『エリナ・フォン・ヴァルトシュタイン殿 ——兄より』
冬の間ずっと途絶えていた王都からの便。雪が道を塞いでいたからだ。それが今朝、春の使者のように届いた。
わたくしは封書を持ったまま、自室に戻った。
帳簿の確認は後回しにした。そんなことは初めてだったが、手が先に動いていた。
椅子に座り、窓際の光の中で蝋封を丁寧に剥がした。
中から出てきたのは、三枚の便箋だった。見覚えのある筆跡。クラウスお兄様の、少し角ばった、でも几帳面に整った文字。あの方の字は昔から変わらない。
便箋を広げた。
『エリナへ。
まず最初に言っておく。お前、なんで事前に俺に相談しないんだ。
あの朝、書斎に呼ばれて行ったら、もう全部決まっていた。資料まで揃えて、父上の前でいきなり切り出しただろう。俺は兄だ。お前が遠くへ行くと決める前に、せめて一言くらい相談しろ。相談できないなら一言くらい匂わせろ。匂わせすらしないなら、それはもう無礼だ。妹の無礼だ。許すけど。
で、辺境はどうだ。寒いか。飯はまともか。変な虫は出ないか。お前は昔から寒がりだったから、分厚い毛布を使っているか心配している。使っていなかったら使え。これは兄からの命令だ』
思わず口元がゆるんだ。
怒っているような口調で書いてあるのに、内容の半分以上が心配ごとでできている。お兄様の手紙は、いつもこうだ。
手紙は続いていた。
『王都の状況を知らせておく。
第二王子アルフレートと、その側にいる女のことだ。
表向きは順調に見えている。宮廷行事にも二人で出席しているし、アルフレートは相変わらず上機嫌だ。だが——俺の勘が騒いでいる。
詳しくは書けない。手紙は途中で読まれる可能性がある。ただ一つだけ言っておく。メリアという名前が宮廷で出たら、気をつけろ。直接お前に関わることではないかもしれないが、火種は小さいうちに知っておけ。
それ以上は、会ったときに話す』
わたくしは便箋をゆっくりと膝に下ろした。
お兄様がここまで慎重に書くのは珍しい。手紙で書けないということは、宮廷の中で何かが動き始めているのだろう。
(メリア——あの夜、舞踏会の最中に胸元から光がこぼれていた人)
婚約破棄の夜を思い出した。あれは両手からではなく、胸元から出ていた。あの違和感を、お兄様も感じ取っているのだろうか。
でも今のわたくしにできることは何もない。遠い辺境から宮廷に手を出す方法も理由もない。お兄様が気にしているなら、注意だけはしておこう。それだけだ。
三枚目の便箋に目を移した。ここからは少し、筆跡が乱れていた。書いては消し、書き直した跡がある。
『父上のことも書いておく。
父上は、お前が辺境に行くことを止めなかった。お前も知っているだろう。でも俺は、あのとき父上の目を見ていた。何かを言いたそうな、でも言わなかった目だった。
あれが何だったのか、俺にはまだわからない。父上が「言わなかった」のは、お前を信じたからなのか、それとも別の考えがあったのか。
正直、少し複雑な気持ちだ。俺だったら止めていた。妹を危ない場所に送り出すなんて。でも父上は、止めなかった。
それがお前への信頼だとしたら——俺は、自分がまだその域に達していないと感じる』
便箋を持つ手が、小さく震えた。
(家族が、こんなに心配してくれている)
前世では、こういう経験がなかった。
家族がいなかったわけではない。両親も兄弟もいた。でもあの頃のわたしは、家族との関係が薄かった。仕事が忙しくて、実家に帰る暇がなかった。「大丈夫だから」とだけ返して、それきり。年末の帰省を三年連続で断った。母からの電話を折り返さなかった夜も、一度や二度ではなかった。
最後に家族と会ったのはいつだっただろう。思い出せない。思い出せないまま、死んでしまった。
便箋の最後の数行が、にじんで見えた。
(泣いている。わたくし、泣いている——)
鼻の奥がつんと痛い。便箋の上に落ちないように、慌てて顔を上向きにした。
最後の行が目に入った。
『春になったら、顔を出しに行くからな。待ってろ。
お前の兄、クラウスより。
追伸——辺境で困ったことがあったら遠慮するな。手紙一つで飛んでいく。
追追伸——寒いなら毛布を三枚使え。四枚でもいい。俺が送ってやる。
追追追伸——俺のことは心配するな。どうせお前は自分より人の心配をするやつだから、先に言っておく』
(追伸が多いです、お兄様……)
笑おうとした。笑えなかった。代わりに、ぽたりと一粒だけ涙が落ちた。指の甲に落ちた。
しばらく、椅子に座ったまま動けなかった。
あの頃は得られなかったものが、今はある。それがわかっただけで、胸の奥が熱くなる。
(受け取れなかったんじゃない。受け取ろうとしなかったんだ。忙しいからと、自分から遠ざけていた)
目頭を押さえた。深く息を吸って、ゆっくり吐いた。
「……返事を書こう」
声に出して言った。自分の声が、少しだけ鼻声になっていた。
炭筆を手に取って、便箋を広げた。
何を書けばいいのだろう。「元気です」「辺境は寒いです」「毛布は二枚使っています」——書けることはいくらでもある。でも本当に書きたいことは、もっと別のところにある気がした。
辺境の冬は厳しかったこと。城の東翼が壊れて、みんなで乗り越えたこと。料理の工夫をして、読み書きを教えて、少しずつこの場所に馴染んできたこと。
「わたくしは、ここで元気にやっています」
その一文を書いて、少し考えて、その下に付け足した。
「前より少しだけ、ちゃんと生きている気がします」
お兄様には伝わらない言葉かもしれない。でもわたくしにとっては、本当のことだった。
昼過ぎ、食堂でカイン様に会った。
カイン様はいつもの席で書類を読んでいた。わたくしが入ると、一瞬だけ顔を上げて、また書類に戻った。もう慣れた。これがこの人の挨拶だ。
「カイン様、少しよろしいですか」
「何だ」
「今朝、王都から手紙が届きまして。兄のクラウスからです。冬の間、雪で便が途絶えていたようで」
「……そうか」
少し間があった。
「何か問題があったか」
「いいえ。家族の近況です。あと——春になったら辺境に来ると」
「兄が来るのか」
カイン様の声が、ほんの少し硬くなった。気のせいかもしれない。
「はい。雪が解けた頃に、顔を見に来ると」
「……それなりの準備がいるな」
「たぶん非公式の訪問です。兄は気にしない人ですから」
カイン様は書類に目を戻した。
でも——わたくしは見逃さなかった。
カイン様の耳の先が、ほんのわずかに赤くなっていた。
(何で耳が赤いんですか、カイン様)
心の中でだけ聞いた。声には出さない。妹の兄が来るというだけで、なぜ。考えすぎだと思い直して、話題を変えた。
「王都の近況も少し書いてありました。第二王子の周辺で、聖女の力について不穏な噂があるようです」
「あの男の話か」
カイン様がアルフレートをそう呼ぶのは初めてだった。名前を口にすることすらしない。
カイン様がアルフレートに感情を持つ理由が、わたくしにはわからなかった。直接の面識があるのだろうか。それとも——わたくしの婚約破棄の経緯を、どこかで聞いているのだろうか。
「兄の手紙によれば、表向きは順調のようです。ただ、一部で疑問の声が上がり始めていると」
「噂の段階だな」
「はい」
カイン様はしばらく黙っていた。書類を見ているようで、見ていなかった。
「……あの男のことは、お前がもう気にする必要のないことだ」
静かな声だった。感情が見えない。でも、言葉の重さがあった。
「わかっています」
わたくしはそう答えた。
「王都のことは、お兄様に任せます。わたくしは、今自分がいる場所でやるべきことをします」
カイン様がこちらを見た。真っ直ぐに。深緑の目が、窓からの冬の陽射しを受けて、少し明るく見えた。
「それでいい」
短い言葉だった。でもその声に、肯きとも信頼ともつかない、確かに温かい何かが込められている気がした。
わたくしは微笑んだ。自然に、微笑めていた。
食堂を出て、自室に戻った。
書き終えた返事の手紙を読み直して、最後に追伸を付けた。
『追伸——毛布は二枚で十分です。暖炉石の配置を工夫しましたので。
追追伸——お兄様も、相談があるなら言ってください。わたくし、妹ですから』
蝋封をして、宛名を書いた。
『クラウス・フォン・ヴァルトシュタイン殿 ——妹より』
窓の外を見た。午後の光が、雪原を淡く照らしている。
冬はまだ終わっていない。でも確かに、何かが動き始めている。空の色、光の角度、風の匂い。
お兄様が来る。春になったら。
それまでに——もう少し、この場所に根を張っておきたいと思った。
手紙をそっと机の端に置いて、わたくしは管理棟に向かった。帳簿の確認が、待っている。
◇
同じ頃、王都にも冬が降りていた。ただし、こちらの冬は雪だけではなかった。
アルフレートの政務は、日に日にほつれていた。
ブレンデル公国との茶会での失態以来、外交の席に呼ばれる回数が減っていた。シュテファン第一王子が、弟の名前を出さずに案件を処理するようになったのだ。
アルフレートはそれを「兄上が多忙なだけだ」と解釈していた。
メリアの体調が崩れ始めたのは、冬至を過ぎた頃だった。
朝の祈祷に姿を見せない日が増えた。
「大丈夫です。少し疲れが出ただけですから」
メリアは微笑んだ。だが、その微笑みを維持する時間が短くなっていた。
夜、誰もいない部屋で鏡の前に座った。衣服の合わせ目に手を差し入れ、胸元に縫い込んだ小さな石に触れた。
石の光が、明滅した。
一度。二度。三度——そして、消えた。
数秒後にまた灯った。けれど以前のような安定した輝きではなかった。蝋燭の炎が風に揺れるように、明るくなっては翳り、翳っては明るくなる。
鏡の中の自分の顔が、その光に照らされて歪んで見えた。
「大丈夫。まだ大丈夫」
メリアは自分に言い聞かせた。声に出さなければ、信じられなかった。
「まだ——大丈夫よ」
繰り返した。鏡の中の目が、自分を信じていなかった。
——吹雪の夜、暖炉の前で微笑む令嬢は、そんなことなど知る由もない。




