第20話「ルーン石の噂」
第20話「ルーン石の噂」
最初に気づいたのは、帳簿の数字だった。
冬の終わりが近い頃のことだ。空の色がほんの少しだけ明るくなって、昼間の時間が指一本分ほど伸びてきたように感じる季節。それでも朝はまだ息が白く、廊下の石床は冷えきっていた。
管理棟でいつもの帳簿を開いたとき、鉱山の支出欄に不自然な数字を見つけた。坑道の補修費が、他の区画に比べて突出して低い。
(……ここだけ手が入っていない? それとも、そもそも使われていないのか)
気になって過去三年分の記録を遡ると、特定の坑道——奥の第四坑区と記されている区画——への支出が、ある年を境にぱたりと止まっていた。
前世の仕事の癖が出た。数字が止まっている場所には、必ず理由がある。
その日の午後、わたくしは城に報告に来ていた鉱夫たちのところへ自分から出向いた。
フリッツが「鉱山の鉱夫が嵐の被害報告に来ております」と朝に教えてくれていた。帰り支度をしている彼らに声をかけた。
「少しお時間をいただけますか。帳簿で気になったことがありまして」
鉱夫たちは一瞬、貴族の令嬢が鉱山の話を聞きに来たことに面食らった顔をしたが、わたくしが具体的な坑区の名前を出すと、表情が変わった。
「第四坑区のことをご存知なんですか」
年嵩の鉱夫が言った。掠れた、石炭と汗が染み込んだような声だった。
「帳簿で支出が止まっているのが気になって。何か事情があるのかと」
鉱夫たちは顔を見合わせた。
「……奥の坑道にな、光る石があるんですよ」
「光る石?」
「ええ。石の中から光ってる感じで。外からじゃなく、中が青白く発光してる。蛍みたいな」
もう一人の若い鉱夫が頷いた。「ゲルツ親方が言ってたんですが、あの石が混じった坑道は魔物が近寄らないらしいんです」
「石の光が何かを遠ざけてると。俺も二度見ました。入口付近に落ちてた小石を拾ったら、その晩、魔石灯がやけに明るくなった気がして」
若い方の鉱夫が苦笑した。「気のせいかもしれませんけど」
「いえ——とても興味深いお話です」
わたくしは記憶を辿っていた。王都を発つ前夜、ヴァルトシュタイン家の書庫で読んだグラフ辺境伯領の古い報告書。そこに「光る石」という記述があった。あの文章が引っかかっていたのに、当時はそれ以上調べられなかった。
帳簿の空白と、鉱夫の証言が、一本の線で繋がった。
(放っておいていい話じゃない。絶対に)
自室に戻って、聞き取った内容を整理し始めた。
鉱山の奥に光る石。魔力に反応するかもしれない性質。魔物を遠ざける可能性。帳簿に残った空白の年月。
炭筆を走らせながら、疑問を一つずつ書き出していく。前世の仕事で報告書を整理していたときと同じ手つきだった。数字の裏側にある事実を掘り起こす。それが、わたくしにできることだ。
ふと、炭筆を止めた。
(カイン様は、ご存知なのだろうか。この石のこと)
あの方なら、鉱山のことも把握しているかもしれない。聞いてみたい——そう思ったとき、自分がまず最初に「カイン様に聞こう」と考えたことに気づいた。
(……いつから、何かあるとまずあの方の顔が浮かぶようになったのだろう)
考えないことにして、紙の上に戻った。
その晩、夕食後にカイン様の執務室を訪ねた。
扉を叩くと、「入れ」のひと言。いつも通りの低い声だった。
「お忙しいところ失礼いたします。鉱山のことでお伺いしたいことがありまして」
カイン様が書類から目を上げた。「座れ」
わたくしは椅子に腰を下ろして、今日の鉱夫への聞き取りの内容を手短に伝えた。帳簿の空白。第四坑区への支出停止。そして、光る石の話。
「ご存知でしたか」
カイン様の目が、わずかに鋭くなった。
「……帳簿から辿ったのか」
「はい。支出が止まっている区画には理由があるはずだと思いまして」
短い沈黙があった。カイン様がわたくしを見る目に、何か——感心とも警戒ともつかない色が混じった。
「ゲルツ・ラングという老鉱夫がいる。三十年以上この辺境にいる男だ。あの坑道を誰より知っている」
「鉱夫の方もゲルツ親方の名前を出していました」
「あの男が『近づくな』と言っている。崩落の恐れがある。古い坑道が奥まで続いていて、今の道具では人が入れる状態じゃない」
言い切る声に、迷いがなかった。
わたくしはひと呼吸置いてから、聞いた。
「光る石というのは——魔力を帯びた鉱石ということでしょうか。以前読んだ本に、聖女の加護と鉱石の光では性質が違うとありましたが」
「……大体合っている。加護は揺らぎがある。脈や呼吸に合わせて強弱がある。石の光にはそれがない」
一拍の間があった。
「母が昔、そういう話をしていた」
カイン様の声が、普段よりほんの少し低くなった。お母様の話が出たのは、二度目だ。
(あの報告書に「光の波長が一定」という記述があった気がする。もう少しちゃんと読んでおけばよかった……)
「ありがとうございます」
答えを急がなくていいと感じた。カイン様の「危険な場所だ」は、禁じているのではなく、状況を説明している言い方だった。事実を言って、判断を相手に渡してくれる人だ。
「では、春になって雪が解けたら、安全状況が変わることはありますか」
「変わらん。むしろ雪解けの時期は崩落の危険が増す」
「夏は」
「……地盤が安定するのは、夏から秋にかけてだ」
カイン様が椅子の背にもたれた。「以上か」
「はい。お時間をいただきありがとうございました」
わたくしは立ち上がって、頭を下げた。
自室に戻って、蝋燭の前に座った。
あの坑道のことを頭の中で並べていくうちに、一つの考えに行き着いた。現地を実際に見なければ、話が進まない。夏から秋にかけて地盤が安定するなら——その時期に視察の機会が作れるかもしれない。
まだ何もわかっていない。確かめもせずに期待するのは早い。
でも——
(それでも、気になる。あの坑道の奥に、何かある気がする)
根拠はない。直感だ。直感は当てにならないこともある。踏み込んで空振りだったことも、一度ではない。
炭筆を手に取って、紙の端に小さく書いた。
*夏以降——鉱山の視察について、安全確認の方法を整理する*
ふと、指先に意識が向いた。鉱夫が話していた「小石を拾ったら魔石灯が明るくなった」という言葉を思い出す。以前、暖炉石に触れたとき——指先が不思議に温かくなったことがあった。あのときは気のせいだと片付けた。
(あの温かさは、なんだったんだろう)
魔力との関係があるのかどうか、今はまだわからない。でも、覚えておくべきことのような気がした。紙の端にもう一行、小さく書き足した。
*指先の温かさについて——要確認*
数日かけて情報を整理した後で、わたくしはカイン様に申し出た。
「カイン様、夏以降に鉱山を視察させていただけませんか」
執務室での短い沈黙。カイン様の顔が燭台の影で半分暗くなっている。
でも心の底では、「ダメ」ではないだろうという感覚があった。この人は、根拠なく止めたりしない。
「……考えておく」
カイン様が言った。それだけだった。
「考えておく」という言葉を抱えたまま、夕方の城壁に上がった。
冬の終わりの空は、薄い紫色をしていた。城壁の石段に腰を下ろして、領地の南側に広がる森の輪郭を眺める。雪が少しだけ溶けて、木の幹の黒い線が見え始めていた。
カイン様の「考えておく」は、社交辞令ではない。本当に考えるつもりがあるから言っている。わたくしの提案を、頭から否定しなかった。
(この人、ちゃんと聞いてくれた)
足音が聞こえた。
振り返ると、カイン様が城壁の端に立っていた。こちらを見ていたわけではない。見回りの途中で、たまたま同じ場所に上がってきただけだろう。
でも——去らなかった。
カイン様は城壁の反対側の石積みにもたれて、同じ方角を見ていた。二人の間に、五歩ほどの距離がある。
何も言わなかった。わたくしも、何も言わなかった。
夕暮れの風が石壁の間を通り抜けていく。冷たいけれど、真冬のような鋭さはもうなかった。
横顔だけが見えた。あの方の視線は、遠くの森のさらに先——おそらく鉱山のある方角——に向いているように見えた。
(カイン様と一緒に、あの坑道を歩く日が来るだろうか)
不思議と、そう思った。
紫色の空が少しずつ暗くなっていく中で、二人とも黙ったまま、同じ景色を見ていた。
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