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婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜  作者: きなこ
第1章「堕ちた令嬢と辺境の扉」

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第19話「春を待つ人々」

第19話「春を待つ人々」


 吹雪が去った翌朝の空は、信じられないほど青かった。


 窓から差し込む光が床に四角く落ちている。昨日まで石壁を揺らしていた風は、どこかへ消えてしまった。ただ雪だけが残っていた。世界が白く、静かになっていた。


 (終わったんだ、ほんとうに)


 わたくしは窓枠に手をついて、中庭を見下ろした。昨夜は東翼の損壊の後始末でほとんど眠れなかった。それでも体の中に、妙な軽さがある。疲れとは違う何かが、胸の奥に残っていた。




 修復作業が始まってから二日後、城の中に少しずつ余裕が戻ってきた。


 緊急事態が去ると、人というのは日常に戻ろうとするものだ。使用人たちが廊下を歩く足音が、吹雪の夜のような緊張を失っていた。顔から強張りが取れた分、素の表情が出てくる。


 わたくしも帳簿整理の合間に、城を歩き回るようになった。


 中庭を横切ったとき、年老いた男が一人、黙々と薪を割っていた。皺だらけの顔に、妙に若々しい目をした人だった。こちらに気づいて軽く頭を下げたが、すぐに斧を振り上げて作業に戻った。


 廊下で誰かとすれ違うたび、視線の種類が変わっていることに気づいた。最初の頃は「どこかの貴族のお嬢様」を見る目だった。しばらくしてから「帳簿を直した方」になった。そして東翼の一件の後、何かが変わった。


 「おはようございます」


 給仕頭のエファが、廊下ですれ違いざまに頭を下げた。エプロンに粉がついていて、袖口まで白くなっている。最初の頃は目を伏せていたのに、今は顔を上げて挨拶をしてくれる。


 「おはようございます」


 「あのとき、助けていただいて……本当にありがとうございました」


 「わたくしは何もしていませんよ。皆さんが動いてくださったからです」


 エファは小さく首を振って、「声をかけてくださったのはあなた様でした」と言い残し、足早に去っていった。




 厨房ではゾフィが相変わらず大鍋をかき回していた。昼に顔を出すと「あんたの言った通り、芋の炒め方を変えたら味が変わった」と嬉しそうに報告してくれた。東翼の廊下を歩けば、ヨハンナが修復中の石壁を撫でながら「昔、カイン様のお母様がいらした頃にも似たことがございました」と、遠い目をしていた。


 城の中に、少しずつ日常が戻ってきている。




 ルーカスのことを思い出したのは、別の日の朝だった。


 廊下で鉢合わせた。あの夜、東翼の部屋から出てきた少年だ。十四歳。吹雪の夜に比べると、頰に少し血の気が戻っている。


 「ヴァルトシュタイン様。あの……文字が読めると聞きました。自分は読み書きができなくて。春に鉱山の仕事をもらえるかもしれないんですが、指示書が読めないと——」


 わたくしは少し考えて、「よければ、少し教えましょうか」と言った。


 食堂の隅の小さなテーブルで、紙と炭筆を使って基本的な文字を書く練習をした。ルーカスの手は荒れていたが、炭筆を持つと丁寧な動きをした。ただ知らないだけなのだ。


 「最初はむずかしいです。でも二週間もすれば自分の名前は書けるようになりますよ」


 ルーカスが炭筆を握り直して、一画ずつ丁寧に自分の名前を書いた。途中で何度か手が止まる。三画目の角度が気に入らなかったらしく、紙の端に何度か書き直していた。


 最後の一文字が紙の上に残ったとき、少年の目が光った。


 「書けた……」


 その声を聞いて、わたくしの胸の中で何か柔らかいものが動いた。


 「もう一つ。自分が——春に鉱山の仕事をもらえるかもしれないと聞いたんです」


 ルーカスの表情が真剣になった。


 「坑道の入口に注意書きが貼ってあるって、ゲルツ親方から聞きました。『立入禁止』とか、『崩落注意』とか。読めないと、危ないから。春までに読めるようになりたいんです」


 (坑道の注意書き——)


 ルーカスの言葉が、頭の隅に引っかかった。鉱山で働くなら、文字が読めなければ命に関わる。当然のことだ。でもそれは同時に、この辺境の鉱山がどんな場所なのかという問いにも繋がる気がした。


 「では、まず必要な言葉から覚えましょうか。危険を示す表記は、どれも短い単語です。すぐに読めるようになりますよ」


 紙の上に「危険」「禁止」「注意」と書いて見せた。ルーカスが一つずつ指でなぞりながら、声に出して読む。


 「き、けん。きん、し。ちゅう、い」


 「そうです。これが読めれば、命を守れます」


 ルーカスが真剣な顔でうなずいた。十四歳の少年が、生きるために文字を覚えようとしている。王都では当たり前だった読み書きが、ここでは生死を分ける技能になる。


 (前世では、教育の機会が保障されていた。この世界では、そうではない)


 わたくしにできることは限られている。でも、目の前のこの少年に文字を教えることくらいは、できる。


 ふと気配を感じて顔を上げると、廊下の向こうをカイン様が歩いていくのが見えた。修復作業の確認に向かう途中だろう。一瞬だけ、こちらに視線が向いた——ように見えた。


 「辺境伯様、今こっち見てたよ」


 ルーカスがあっけらかんと言った。


 「……気のせいですよ」


 わたくしは炭筆を持つ手に、不必要な力が入っていることに気づいた。




 ある昼下がり、カイン様が厨房のそばの廊下を通っていくのを見かけた。


 修復作業の確認に向かう途中らしかった。フリッツと何か話しながら。


 わたくしは少し離れた場所から、その後ろ姿を見た。今度は胸が跳ねるとか、そういうことではなかった。


 (……右肩を、かばっている?)


 歩き方がほんのわずかに傾いていた。昨日も一昨日も、あの方は朝から夜まで動き続けていた。修復の手はずを整え、職人と話し、そのかたわら城下の復旧も見て回っている。東翼の梁を支えたときに痛めたのだろうか。


 フリッツが何か言いかけたのを、カイン様は首を振って遮っていた。大丈夫だ、とでも言ったのだろう。そのまま廊下の角を曲がって、消えた。


 わたくしは持っていた書類を胸に抱えたまま、しばらくそこに立っていた。


 (あの方は——誰にも弱いところを見せない人なのだ)


 ルーカスが文字を覚えたいと言ったとき、わたくしは迷わず教えると答えた。ゾフィがスープの相談をしてくれたとき、喜んで引き受けた。


 でも、カイン様に対しては——何もできない。あの方が大丈夫だと言えば、誰もそれ以上踏み込めない。わたくしも、踏み込む立場ではない。


 なのに、あの傾いた肩が頭から離れなかった。




 夕方になった。窓の外はもう暗くなりかけている。


 エファが朝に顔を上げてくれたこと。ルーカスが名前を書けた瞬間の目。ヨハンナが遠い目で語ってくれた昔話。


 ふと、目の縁が焼けるように熱くなった。この場所に、わたくしの居場所ができつつある。そのことが、思いのほか胸に重かった——重いのに、嬉しかった。


 目が熱いまま、でも笑えていた。




 部屋に戻る途中、執務室の前を通った。扉の隙間から灯りが漏れている。まだ仕事をしている——右肩をかばいながら。


 何かしたいと思った。理由はわからなかった。ただ、あの傾いた歩き方が頭から離れなかった。


 (……お茶でも、持っていこうか)


 そう思って、すぐに打ち消した。余計なお世話かもしれない。あの方は「大丈夫だ」とフリッツの心配さえ遮った人だ。部外者のわたくしが気遣いを見せたところで、迷惑になるだけではないか。


 それに——お茶を一杯持っていくだけのことに、なぜこんなに迷っているのだ。


 (前世の職場なら、同僚の机にコーヒーを置くくらい普通のことだった。なのに——)


 なのに、今、これをすることの意味が、普通のことではない気がする。わたくしの中で何かが変わりつつある。それを認めるのが怖い。


 足が止まった。廊下の灯りが揺れていた。


 しばらくそこに立って——結局、動いた。


 ゾフィに茶葉を分けてもらい、カップに注いで執務室の扉脇に置いた。紙片に「お体をお大事に」とだけ書き添えて。


 置いた瞬間、手が震えた。馬鹿馬鹿しい。お茶を一杯置いただけだ。それだけのことだ。


 早足で廊下を歩きながら、耳まで熱くなっているのがわかった。




 それから何日かが過ぎた。少しずつ日が長くなり、吹雪の夜のことが遠い記憶のように感じ始めた頃——冬の終わりへ向かって、城の空気がまた少しずつ動き始めていた。



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