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婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜  作者: きなこ
第1章「堕ちた令嬢と辺境の扉」

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第18話「吹雪の夜の出来事」

第18話「吹雪の夜の出来事」


 異音がしたのは、夜半過ぎのことだった。


 「ヴァルトシュタイン嬢、起きてください!」


 ヨハンナの声で目が覚めた。ドアを叩く音が激しかった。わたくしはとっさに毛布を払って立ち上がる。


 「何事ですか」


 「城の東翼の屋根が——石壁に亀裂が入りました。雪の重みで!」




 部屋を出ると、廊下はすでに騒然としていた。


 使用人たちが走り回っている。誰かが「大丈夫か」と誰かに叫んでいる。蝋燭が風でゆらめいた。廊下の先、東翼への扉が開け放たれたままになっている。


 冷気が流れ込んでいた。雪の匂いがした。


 (状況確認が先。感情は後。これは緊急事態だ)


 前世の記憶が、静かに頭の中で動き始めた。職場で大きな問題が起きたとき、どこかで想定外の事態が起きたとき、どうしていたか。頭を冷やして、今何が起きていて、何が必要かを整理する。怒鳴っても走り回っても何も解決しない。


 わたくしは廊下の角に立って、周囲に声をかけた。


 「止まってください」




 不思議なことに、声は通った。


 走り回っていた使用人たちが、わたくしを見た。


 「今、東翼に何人いますか」


 誰も即答しなかった。


 「部屋の数は?」とわたくしは続けた。「居住者がいる部屋はいくつありますか」


 「三部屋です」ヨハンナが答えた。「給仕頭のエファと、二人の若い使用人が」


 「三人とも出てきていますか」


 「……一人が、まだ部屋の中に」


 「案内してください。今すぐ」




 東翼の廊下に入ると、すぐに状況がわかった。


 壁の上部に亀裂が走っている。横に、斜めに。まだ崩れてはいないが、天井の石が一部ずれていた。昼間に除雪を進めていたが、夕方からの吹雪が想定以上に積もったのだろう。雪の重みが屋根から壁に伝わり、構造に負荷をかけている。


 窓の外では、まだ吹雪が続いていた。


 (最悪のタイミングだ)


 「その部屋に誰がいますか」とわたくしはヨハンナに聞いた。


 「ルーカスという少年です。十四歳の。怖がって出られないでいるようで……」


 わたくしはドアをノックした。


 「ルーカス。聞こえますか」


 返事はなかった。ドアの内側で、何かが動く気配がした。


 「わたくし、エリナです。あなたのことが心配で来ました。ドアを開けてくれませんか。一緒に出ましょう」


 しばらく沈黙があった。それから、錠の外れる音がした。




 少年の顔は青白かった。毛布を頭から被って、扉の内側で縮こまっていた。


 天井の角が少し欠けている。石の破片が床に落ちていた。それを見てわたくしは、この子が正しく怖がっていたと理解した。


 「よく我慢しましたね」


 わたくしは膝をついて、少年と同じ目線になった。


 「もう大丈夫です。でも、安全なところに移りましょう。一緒に来てくれますか」


 ルーカスはこくりとうなずいた。毛布の端を握りしめたまま、小さな声で言った。


 「……怖かったです」


 「うん。怖いよね。でも、もう大丈夫」




 廊下に戻ると、カイン様がいた。


 松明を持って、東翼の壁を確認しているところだった。フリッツが後ろに控えている。カイン様はわたくしを見た。次いでルーカスを見た。


 「避難は」


 「今から食堂と厨房に集めます」とわたくしは答えた。「暖炉石のある部屋に人を固めてしまうのが安全かと思います。東翼は亀裂が安定するまで立ち入りを禁止して」


 カイン様がフリッツに視線を送った。


 フリッツは一瞬だけ間を置いてから、使用人たちの方を振り返った。


 「皆、聞いた通りだ。東翼は立ち入り禁止。食堂と厨房に集まれ」


 フリッツの一声で、廊下に動きが生まれた。ここで三十年城を仕切ってきた男の声は、それだけの重さがあった。




 それからの一時間は、慌ただしかった。


 城の全員を安全な部屋に誘導する。子供がいる使用人の家族は一階の厨房へ。成人の使用人は食堂へ。怪我人がいないか確認する。亀裂の状態を見張る担当を決める。


 わたくしはヨハンナと二人で、廊下を行き来した。


 「エファさんの部屋の荷物は取り出せましたか」


 「寝具と着替えだけ。貴重品は持ちました」


 「それで十分です。明日の明るい時間に改めて確認できます」


 「……あなた様は怖くないのですか」


 ヨハンナが小さな声で聞いた。


 わたくしは少し考えた。


 「怖いです」と答えた。「でも今は動かないといけないので、怖いのは後回しにしています」


 ヨハンナはしばらく黙っていた。それから、「わかりました」と言って、また動き始めた。




 全員の安全が確認できたのは、午前一時を回った頃だった。


 怪我人はいなかった。東翼の亀裂は進行していない。当面の危機は脱した。


 「修復は明日の朝からにしましょう」とわたくしはフリッツに言った。「夜の吹雪の中では危険です。今夜は見張りを立てて、亀裂が広がるようなら全員を厨房に移す手順だけ決めておいてください」


 「かしこまりました」


 フリッツは手早くメモを取っていた。


 (こういうとき、この人は本当に頼りになる)




 人が少なくなった廊下で、わたくしは石壁にもたれた。


 知らないうちに、足が疲れていた。東翼と食堂と厨房を何往復したかわからない。靴の底が冷えている。


 (終わった。とりあえず、終わった)


 そういう安堵が、ゆっくりと体の中に広がってきた。


 大きな問題が過ぎた後は、いつもこうだ。緊張が解けると、一気に体が重くなる。


 (でも今は……少し違う。虚脱感ではない。何かが違う気がする)


 「ヴァルトシュタイン」


 声がした。




 振り返ると、カイン様が廊下の角に立っていた。


 松明は置いてきたのか、手ぶらだった。


 「避難の誘導、ご苦労だった」


 「いいえ。当然のことをしただけです」


 「全員を五分で動かせるか否かは、日頃から関係を作れているかどうかによる」


 カイン様は静かにそう言った。「今夜、全員がお前の声に従った。それは五分で起きたことではない」


 わたくしは何と答えていいかわからなかった。


 (この人の言葉は、いつも正確だ。余分なものが何もない)




 「焚き火を起こした」とカイン様が言った。「一階のホールに。もう少し暖まれ。今夜は冷える」


 「……修復の計画はどうしますか」


 「夜明けを待ってから動く。今夜は見張りで十分だ。お前は休め」


 「でも、もし亀裂が——」


 「俺がいる」


 短い一言だった。


 (……そうか。この人がいる)


 それだけで、何かが収まった。わたくしの中の、まだ手放せずにいた何かが。




 一階のホールには、大きな暖炉が焚かれていた。


 フリッツとディートリヒがそれぞれ書類を抱えて壁際に座っている。ヨハンナが厨房から温かい飲み物を持ってきてくれた。ルーカスは大人の側で毛布に包まって、既にうとうとし始めていた。


 わたくしはその少し外れた場所に、椅子を引いて座った。


 火の暖かさが、冷えた手足に染み込んでくる。


 (ようやく、少し落ち着いてきた)


 カイン様は壁際で書類を確認していた。フリッツと何か小声で話している。修復の段取りだろう。


 わたくしはそれを、ぼんやりと眺めた。


 声が遠くなっていった。




 気づいたとき、首が少し落ちていた。


 (あ、眠ってた——)


 慌てて顔を上げた。ホールを見回した。フリッツとディートリヒはまだいた。ルーカスも寝ている。


 カイン様の姿は、なかった。


 いつ出ていったのかわからない。静かに、気づかないうちに。




 翌朝、わたくしは固い椅子の上で目が覚めた。


 窓の外が白く明るくなっていた。吹雪は止んでいた。


 目をこすりながら体を起こして——気がついた。


 わたくしの椅子が、他の誰の椅子よりも暖炉に近い位置にあった。


 昨夜座ったときは、もう少し離れた場所にいたはずだ。眠っている間に、椅子ごと火のそばに動かされていた。


 それだけではなかった。肩に、マントがかかっていた。


 (これは——誰が)


 隣を見た。椅子はあったが、誰もいない。とっくに外に出て、修復の指揮を取り始めているのだろう。


 暖炉の火がまだ赤々と燃えていた。薪が足されている。最近足された——つい先ほどまで、誰かがここにいた証拠だった。




 わたくしは椅子の肘掛けに手を置いた。


 胸の中に、じわりと何かが広がった。名前がわからない感覚だった。温かいとも違う、落ち着くとも違う。


 (眠っている間に、椅子を動かして——マントまで)


 声もかけずに。起こしもせずに。ただ黙って、火のそばに寄せた。


 (この人は、こういう人なのだ)


 誰かが近くにいると知ったら安心する。それは普通のことのはずだった。当たり前の感覚のはずだった。


 なのに胸の中がうるさかった。




 椅子から立ち上がって、ふと足が止まった。


 廊下の窓から、朝の光に照らされた中庭が見えた。


 カイン様がいた。修復の指示を出しているのだろう、フリッツと並んで壁の状態を確認している。


 ふと——ほんの一瞬だけ、カイン様がこちらを振り返った。


 窓越しに目が合った。いや、気のせいかもしれない。距離がありすぎて表情は見えなかった。


 でも、すぐに前を向き直したカイン様の首筋が、一瞬だけ強張ったように見えた。


 (……何だろう、今の)


 わたくしは窓から離れた。


 あの名前のわからない感覚は、まだ収まっていなかった。





 同じ頃——


 カインは自室に戻り、外套を椅子の背にかけた。


 手が冷えていた。修復の現場で石壁に触れていたからだ。——それだけのことだ。


 窓辺に立った。朝の光の中に、東翼の屋根が見えた。その向こうに、あの——ヴァルトシュタインの部屋がある棟の窓がある。


 灯りが一つ、ついていた。


 無意識に、それを確認している自分に気づいた。いつからか——窓を見るたびに、あの棟の灯りを探している。消えていれば眠ったのだと安堵し、遅くまでついていれば帳簿に没頭しているのだろうと眉をひそめた。


 なぜ気にかかるのか、分からなかった。


 廊下で使用人を誘導していたあの声が、耳に残っていた。「止まってください」。震えてなどいなかった。あの場で一番冷静だったのは、辺境に来て日の浅いあのヴァルトシュタインの娘だった。


 椅子の肘掛けを握った。革の感触が手のひらに食い込んだ。


 灯りが消えた。


 カインは窓から離れ、机に向かった。修復の見積もり書に目を落としたが、数字が頭に入ってこなかった。


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