第17話「雪に閉ざされて」
第17話「雪に閉ざされて」
雪が、止まない。
窓の外は白一色だった。一晩で積もった雪は膝の高さを超え、昨日まで見えていた城の南門が半分以上埋まっている。城下への道は、完全に消えていた。
(道というものが存在していたのかも、もはや確認できない)
わたくしは両手に温かいカップを包んで、窓の外を眺めた。朝のお茶だ。ヨハンナが昨夜のうちに追加した暖炉石が、部屋の隅で静かに熱を保っている。
雪に閉ざされた。そういうことだった。
「城下への道が開くまで、最低でも五日はかかるかと思われます」
朝の報告で、フリッツがそう告げた。食堂に集まった城の主要な面々——フリッツ、ディートリヒ、ハンスと、わたくしとヨハンナ。カイン様はまだ来ていなかった。
「昨年も似たような大雪がありましたが、その年は一週間かかりました」
ディートリヒが付け加えた。落ち着いた声音だ。この程度のことは織り込み済みという落ち着きがある。辺境で長く過ごした者たちの顔だ。
「食料は問題ありません」
わたくしは言った。「先月末時点の備蓄で、全員が三週間を過ごせる量があります。燃料も同様です。暖炉石の配置替えにより熱効率も上がっていますので、寒さの問題は——」
「ヴァルトシュタイン嬢」
入口から声がした。
振り返ると、カイン様が食堂に入ってきたところだった。
外套の肩に雪がついている。もう外に出ていたのか、と思った。夜明け前から城の状態を確認していたのだろう。それがこの人の流儀なのだと、わたくしは最近わかってきた。
「食事の前に確認しておきたい」
カイン様はそのまま食卓の上座に立った。外套も脱がないまま。「城の東壁に雪の重みが集中している。今日中に屋根の雪を落とす作業が必要だ」
「了解しました」とフリッツが答えた。
「使える者を見繕ってくれ」
「既に選定しております」
カイン様が少し目を細めた。微かな表情の変化だったが、それが「よし」という意味だとわたくしにはわかった。
(この人は本当に、表情が少ない。でも言いたいことはちゃんと体に出ている)
大雪の最初の日は、皆が忙しかった。
屋根の除雪作業。東側の廊下の点検。食料の二次確認。城下への連絡をどうするかの打ち合わせ——今は馬が出せないので、人が歩いて行くしかない。雪が膝まである道を。
わたくしは帳簿の整理と、人員の割り当て表を作ることに集中した。どこに何人必要で、どこが手薄になるか。紙の上に書き出すと、問題の所在が見えやすくなる。
昼過ぎ、ハンスが表を覗きに来た。
「……なるほど」と彼は言った。「東側の作業に人が取られた分、午後の食堂当番が一人減りますね。調理場に言っておきます」
「助かります」
ハンスは少し間を置いてから、「こういう整理の仕方は、前任の方々はされていませんでした」と言った。批判ではなく、純粋な観察のように聞こえた。
「必要なことを書いておくだけですよ」
「そういうことを『必要なこと』と思える方が、今まであまりいなかったということかと」
ハンスは静かにそう言い残して去っていった。
雪が降り続く夜は、静かだった。
辺境の雪の夜は、音がない。風が止むと本当に何も聞こえない。雪が全ての音を吸い込んでしまうかのようだ。
わたくしは蝋燭の灯りで本を読もうとして、うまく集中できなかった。何でもない夜のはずなのに、落ち着かない。やることがない、というのが不思議な感覚だった。
かつては「何もしない時間」が怖かった。でも今は——ただ手持ち無沙汰なだけで、怖くはなかった。
少しだけ、それが不思議だった。
翌朝から、事情は少し変わった。
急ぎの仕事が落ち着いても、外には出られない。水場が凍ったのが最初の問題だった。城の中庭にある井戸の汲み上げ管が凍結して、朝の時点で水が出なくなっていた。
「雪を溶かして使います」とヨハンナが提案した。清潔な雪を桶に集め、調理場の火で溶かす。時間はかかるが、雪は腐るほどある。皮肉なくらいに。
薪の消費も想定より速かった。暖炉石が保温の助けにはなっても、この気温では火を絶やせない。フリッツが薪の残量を確認して、朝食の席で報告した。
「現在の消費量で九日分。雪が五日で止めば問題ありませんが——」
「暖房を使う部屋を絞れ」カイン様が即断した。「東翼と北翼は閉鎖する。全員、食堂周辺に集まれ」
暖炉石の配置替えで城内一暖かい食堂が、自然と皆の溜まり場になっていた——というよりも、薪の節約のために集められた、というのが正確だった。
わたくしも、気づけば食堂で本を開いていた。二日目の昼だった。
ディートリヒやフリッツも同じテーブルに来ていた。書類を広げたり、軽い打ち合わせをしたり。カイン様もパンとスープを持ってきて、大きなテーブルの向かいに座った。
誰かが「今年の雪、量が多いですね」と言った。ディートリヒだった。
「例年より一割は多い」カイン様が答えた。
「記録にあるんですか?」
「ああ。毎年つけている」
少しの間があって、フリッツが「降雪量、気温の変化、道が使えなくなった日付——そういう記録が、今年の備えに役立ちました」と言った。
(毎年、記録を……)
わたくしは本から目を上げた。カイン様は特に何も言わなかった。スープを飲んでいた。
三日目の昼は、食堂にカイン様とわたくしの二人だけだった。
わたくしが先にいて、カイン様があとから来た。カイン様は迷いなく向かいに座った。
(この人、本当に無駄な迷いをしない)
わたくしは帳簿の写しに目を落としていた。カイン様は外套の内側から書類を出して読み始めた。
しばらく、静かな時間が続いた。
「……その帳簿、新しく作ったのか」
カイン様が言った。視線は書類のまま。
「はい。冬の期間用に月別の形式に変えました。季節ごとに確認すべき項目が変わりますので」
「ハンスが感心していた」
「あの方は、最初はかなり懐疑的でいらっしゃいましたが」
「最初から信用するのは難しい」
カイン様はそう言った。特に感情の色のない声だったが、わたくしには「それは正しい」という意味に聞こえた。
(批判でも皮肉でもなく、事実として言っている)
「おっしゃる通りです」とわたくしは答えた。「時間をかけて確認していただくのが本筋ですから」
カイン様がわずかに視線を持ち上げた。一瞬だけ、目が合った。
それからまた書類に戻った。
「雪の中でも、城下の人たちは大丈夫でしょうか」
しばらくして、わたくしは聞いた。特に聞くつもりではなかったのに、言葉が出ていた。
「問題ない」
カイン様は即答した。
「今年は備蓄が十分だ。それはお前が手を入れた成果でもある」
「皆さんが動いてくださったからです」
「そういう話をしているのではない」
カイン様が静かに遮った。「俺が言いたいのは、今年は違うということだ。去年の冬は、二月に粥しかない日があった。今年はそれがない」
わたくしは少し黙った。
(……粥しかない日)
それが何を意味するか、わかった。食料が足りていても、食べるものが単調な日が続くことの、精神的な重さ。城下の人々にとって、それは「大丈夫ではない」ことだったはずだ。
「来年は、さらに改善できると思います」
気づけば、そう言っていた。
「……そうだな」
カイン様が答えた。短い言葉だったが、何か含まれているような気がした。
四日目の夜、食堂に残っていたのはわたくしとカイン様だけだった。
いつの間にか夕食の後の時間も食堂で過ごすようになっていた。蝋燭の光の中で本を読んだり、書き物をしたり。部屋より少し暖かいから、という理由だけではない気がしていたが、わたくしはその理由を深く考えなかった。
「カイン様」
わたくしは本を閉じた。聞こうと思っていたことがあった。ここ数日、考えていた問いだった。
カイン様が顔を上げた。
「カイン様は、なぜ辺境に残られたのですか?」
短い沈黙が落ちた。
カイン様は書類から手を離した。テーブルの上に置いた。
窓の外では、また雪が降り始めていた。風のない夜だった。蝋燭の炎が揺れもしない。
「……聞きたいか」
「はい。もし、お話しいただけるなら」
また少し間があった。
「親父がこの地で死んだのは、俺が子供の頃だ」とカイン様は言った。
少し間が空いた。蝋燭の炎が揺れた。
「母も——この地を守って、倒れた」
声が低くなった。それ以上は言わなかった。
わたくしは息を止めた。短い言葉の中に、どれだけのものが詰まっているのか——聞いてはいけない、と直感した。
カイン様は窓の外に目を移して、黙ってしまった。
問い詰めるべきではない、と思った。この人は、言葉を出す速さが慎重だ。今の一言ですら、口からこぼれ落ちたものだったのかもしれない。今日はここまでだ。
(親を失って——それでもここにいる。それだけが理由ではないように思う)
わたくしは何も言えなかった。
でもカイン様が少しだけ目を伏せた瞬間、何か柔らかいものが、その表情の端に滲んだ。
それが珍しすぎて、わたくしはしばらく次の言葉が出なかった。
(この人は、中央の華やかさより、ここを選んだ。無骨で、冬が長くて、雪に閉ざされるこの土地を)
(その本当の理由を、いつか聞かせてもらえるだろうか)
「……そうですか」
わたくしはようやく言った。
喉の奥が、少し詰まる感覚があった。うまく言語化できないが——何か、大切なものを見せてもらったような感じがした。
(この人は、誠実だ。前世でも今世でも、こういう人には滅多に会えなかった)
それ以上の言葉が浮かばなかった。
カイン様は特に何も言わなかった。また書類に目を戻していた。
わたくしも本を開いた。
さっきと同じ沈黙だったけれど、少し前とは違う種類の静けさだった。
蝋燭が短くなった頃、カイン様が立ち上がった。
「今日は早く休め。明日は除雪の第二段階に入る。人手がいる」
「わかりました」
「寒くないか」
(……また、その聞き方だ)
わたくしは少し考えた。この人には、素直に答えた方がいい気がした。
「おかげさまで、昨晩より随分と暖かいです」
「ならいい」
カイン様は蝋燭を一本持ったまま食堂を出ていった。
わたくしは残った蝋燭の火を少し眺めた。
胸の中に何かある。うまく掴めない。でも確かに、何かがある。
(あの人のことを、もう少し知りたいと思っている。それだけだ。それだけのはずだ)
わたくしは本を閉じ、自分の部屋に戻った。
廊下は静かだった。雪が降っていた。
ふと、窓硝子が鳴った。一度。それから、もう一度。
さっきまで止んでいたはずの風が、廊下の向こう側からかすかな唸りを運んでくる。蝋燭の炎が大きく揺れて、わたくしの影が壁に跳ねた。
窓硝子が二度鳴るのは、風が向きを変えた合図だとフリッツが言っていた。向きが変われば——雪の降り方も変わる。




