表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜  作者: きなこ
第1章「堕ちた令嬢と辺境の扉」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

16/55

第16話「辺境の冬、始まる」

第16話「辺境の冬、始まる」


 マントを抱えて廊下を歩きながら、わたくしは返す言葉を考えていた。「ありがとうございました」だけでは素っ気ない。かと言って丁寧すぎても妙だ。


 (……返却するだけなのに、なぜこんなに考えているんだ)


 廊下の突き当たり、カイン様の執務室の扉の前に立った。




 「失礼いたします」


 返事は短かった。「入れ」のひと言。


 扉を開けると、カイン様は書類机に向かっていた。視線が一瞬こちらに来て、それから手元に戻る。朝の執務の最中だ。書類の山は決して少なくない。


 「昨晩のマントをお返しに参りました」


 わたくしはマントを両手で持ったまま、机の前に立った。


 「置いておけ」


 カイン様は書類から目を上げずに言った。


 「ではこちらに——」


 「いや」


 短く遮られた。


 カイン様がようやく顔を上げた。視線が、わたくしの手元のマントに落ちた。それから、わたくしの顔に。


 「受け取れ」


 「……は?」


 「まだ冬は始まったばかりだ」




 沈黙が数秒続いた。


 わたくしは理解しようとした。「受け取れ」というのは、つまり返さなくていい、ということだ。使い続けていい、ということだ。


 (待ってください、これ、カイン様の個人のお持ち物では)


 「しかし、これはカイン様の——」


 「城の備品を追加で出す。それまでの繋ぎだ」


 カイン様はそれだけ言って、もう書類に目を戻していた。


 繋ぎ。実務的な言葉だった。現物があるから使えという話だ。それだけだ。


 わたくしはマントを胸に抱え直した。


 「ありがとうございます。では、備品が届きましたら必ずお返しいたします」


 「ああ」


 返事は一音だけだった。


 わたくしはお辞儀をして、執務室を出た。廊下に出てから、なんとなく、マントを少し強く抱きしめた。


 (繋ぎ。……そうですね。繋ぎです)




 辺境の冬は、予告なく本格的な顔を見せた。


 空が低くなった。分厚い雲が、太陽の光ごと世界を包んでしまう。木々の葉はすでになく、枝だけが灰色の空に伸びている。夜明けと日暮れの区別がつきにくい、暗い日が続く。


 グラフ城の石壁は、外の冷気をそのまま閉じ込めているようだった。


 廊下を歩くだけで、息が白い。室内でさえ白い。


 (想像以上だ。暖房の偉大さを思い知らされる……)


 初日、廊下ですれ違ったフリッツに「今年の冬は少し遅かったですが、来てしまえば早いのです」と教えてもらった。つまりこれからどんどん寒くなる、ということだ。


 わたくしは気を引き締めた。準備はしてある。食料の備蓄、燃料の確保、暖炉石の配置。やれることは全部やった。




 城の暖炉石の配置替えは、二週間前から準備していたことだった。


 元々の配置は、広間を中心に廊下の要所に分散していた。確かに広く暖かくする仕組みだが、熱が逃げやすい構造だ。防寒というより見栄えを優先した設計だった。


 わたくしはフリッツと相談して、人が多く集まる食堂・使用人の詰め所・調理場の三箇所に熱を集中させた。加えて、廊下の暖炉石は高い位置から低い位置に付け替えた。熱は上に逃げる。下に置けば人の動く高さに温度が留まる。


 変化はすぐに出た。


 「昨年より随分暖かいですね」


 廊下でディートリヒが言った。薄手の上着のままで平然と歩いている。「去年の今頃は二枚重ねが当然でしたが」


 「配置を変えただけですよ」


 「その配置を変えようと思った方が今まで誰もいなかったわけで」


 ディートリヒは、少し感心したような顔で言った。




 食料については、ゾフィが毎日帳簿をつけてくれていた。


 「保存食の残量、今月分で換算するとこのくらいです」


 夕方、調理場でゾフィが書いた一覧を見せてくれた。干し肉、燻製、ピクルス、乾燥豆。塩漬けの根菜類。数字を見る限り、城の全員が冬を乗り越えるには十分——のはずだった。


 「ただ、一つ問題がございまして」


 ゾフィの声に、わずかな硬さが混じった。


 「地下の保管庫に鼠が入ったようで、乾燥豆の袋が三つやられました。麦粉も一袋、穴が開いております」


 「……三つ」


 わたくしは帳簿を見直した。三割増しで備蓄していたとはいえ、この序盤で鼠にやられるのは痛い。冬はまだ始まったばかりだ。


 (保管方法を甘く見ていた。王都の書庫で読んだ知識は、辺境の鼠には通用しないらしい)


 「保管庫の隙間を塞いで、残りの袋を陶器の壺に移し替えましょう。布袋のままでは防げません」


 ゾフィがうなずいた。「壺が足りますかね」


 「足りなければ、漬物の空き甕を使います。明日中に全部移し替えましょう」


 翌日、ゾフィと二人で保管庫の入口を石灰と粘土で補修し、食料をすべて陶器に移し替えた。半日がかりの作業だった。腕が重かった。


 「これで当面は大丈夫でしょう」


 「……お嬢様、汚れてますよ。顔に粘土がついてる」


 ゾフィが笑った。わたくしは手の甲で頬を拭った——が、たぶん余計に広がった。


 完璧な準備などない。前世の仕事でも、想定外のトラブルが計画を揺さぶるのは日常だった。大事なのは、崩れたときにどれだけ早く立て直せるかだ。




 ふと気がついたことがあった。


 廊下を歩いていると、使用人が目を逸らさなくなっていた。


 以前は、すれ違うたびに視線が床に落ちた。今は、小さく会釈が返ってくる。食堂では、わたくしが席に着いてもぴたりと止まっていた会話が、途切れなくなった。


 ディートリヒが「暖炉石のことで質問があるのですが」と訊きに来た。ハンスが帳簿の分類について「この項目はどちらに入れるべきでしょうか」と確認に来た。ゾフィが「来週の献立で相談が」と調理場に呼びに来た。


 一日に三度、四度。誰かがわたくしのところに来る。


 (頼られている)


 その事実は、うれしかった。


 でも同時に、背筋を冷たいものが走った。


 ゾフィの相談を引き受けようとして——わたくしは、ふと手を止めた。


 「……明日でもよろしいですか。今日のうちに帳簿を整理してしまいたいので」


 「ええ、もちろん」


 ゾフィは少し驚いた顔をしたが、すぐにうなずいて去っていった。


 足を止めて、深く息を吸った。石の廊下の冷たい空気が、肺の底まで入ってくる。


 全部を今日やらなくていい。引き受けるのは得意だ。でも今世では、手放すことも覚えなければいけない。




 城下の人々が、城に様子を見に来た。


 ウルズラが「暖炉石の配置を変えたと聞いた。うちでもできるか」と聞きに来た。


 フリッツが城の書庫から暖炉石の設置図を出してきて、わたくしはそれに書き込みを加えてウルズラに渡した。「この位置に動かすと、部屋の中心に温度が留まりやすくなります」


 翌日、ウルズラが「やってみたら確かに暖かくなった」と報告に来た。それから数日で、城下の複数の家からも同じ質問が来るようになった。


 ただ、全員が歓迎したわけではなかった。


 三日目の夕方、城下の老人が一人、城に怒鳴り込んできた。


 「暖炉石の場所を勝手に変えるな。先代の頃から、あの位置で何十年もやってきたんだ」


 ディートリヒが「お嬢様の指示で——」と言いかけたのを、わたくしは手で制した。


 「おっしゃる通りです。長年の配置には理由があるはずです。もしお差し支えなければ、なぜあの位置に置いていたか教えていただけますか」


 老人は一瞬、毒気を抜かれたような顔をした。


 「……あの石は、先代の奥方様が決めた場所でな。居間の正面、家族が集まる場所に一番暖かい石を置くのが、この辺境のやり方だった」


 (——なるほど。効率の話じゃない。暮らしの記憶に結びついているんだ)


 「素敵なお話ですね。それでは、居間の正面の石はそのままにして、追加の石だけ位置を工夫する方法はいかがでしょう。両方の良さを活かせると思います」


 老人はしばらく黙っていたが、「……まあ、それなら文句はない」とだけ言って帰っていった。


 世界が違えど、新しいやり方が古い記憶を踏みにじれば、人は怒る。当たり前のことだ。前世の仕事でも、業務改善で反発を食らうのは決まって「効率」だけを振りかざしたときだった。




 問題は、わたくし自身の体だった。


 準備をして、配置を整えて、帳簿をつけて、質問に答えて——動いている間はいい。体の中から熱が出る。手も足も、ちゃんと動く。


 だが、一人で部屋にいると、寒さが静かに侵食してくる。


 床から来る冷気。壁から染み出してくる冷たさ。暖炉石を最大にしても、石造りの城の深夜は別格だった。


 毛布を重ねても、足先が冷える。


 (……辺境の冬をなめていた。設計図で対策を立てるのと、実際に体が冷えるのは全然違う)


 ヨハンナが心配して「もう一枚毛布を持ってきましょうか」と言った。わたくしは「大丈夫ですよ」と答えた。


 強がりだということは、自分でわかっていた。


 だが「寒い」と言ったところで、すぐに解決できるわけでもない。城の備品はすでに最大限使っている。これ以上は個人の話だ。個人で対処する。それだけだ。


 毛布の中で丸くなりながら、わたくしは天井を見た。石造りの天井。見慣れない天井なのに、不思議と落ち着く。


 でも不思議と、嫌ではなかった。




 異変に気づいたのは、その夜のことだった。


 窓から外を見ると、白が世界を覆い始めていた。前日まで見えていた木々の輪郭が、みるみるうちに雪に呑まれていく。城の中庭が、あっという間に白い平原に変わった。


 壮観だった——最初の数分は。


 だが、雪は止まなかった。


 一時間経っても勢いが衰えない。風が窓枠を叩き始めた。石壁の隙間から、唸るような音がする。


 (これは……普通の雪じゃない)


 前世の記憶にある「大雪警報」の感覚が、体の底から蘇ってきた。備蓄はある。暖炉石もある。でも——この降り方が何日も続いたら?


 城下への道が埋まったら?


 胸の中で、小さな不安の種が芽を吹いた。




 翌朝。朝食のために廊下に出ると、向こうからカイン様が歩いてきた。


 朝の巡回を終えたところだろう。いつもの簡潔な足取りで近づいてくる。


 すれ違いざまに——カイン様が、立ち止まった。


 「暖炉石の具合はどうだ」


 不意を突かれた。カイン様が、わたくしに直接こういう聞き方をしたのは初めてだった。


 「……はい。配置替えのおかげで、昨年より随分暖かいとディートリヒからも」


 「お前の部屋のことを聞いている」


 短く、遮られた。


 わたくしは一瞬、言葉に詰まった。城全体の話ではなく——わたくし個人の部屋のことを聞いている。


 「……正直に申し上げれば、深夜は少し冷えます。ですが毛布を重ねれば——」


 「一つ追加する」


 カイン様はそれだけ言って、もう歩き出していた。背中が廊下の角に消えかける直前に、低い声が振り返らずに届いた。


 「無理をするな」


 足音が遠ざかっていった。


 わたくしは廊下に立ったまま、しばらく動けなかった。


 (あの人は——マントのときは何も言わずに置いていった。それが今日は、直接聞いてきた)


 何が変わったのだろう。あの方の中で、何かが変わったのか。それとも、わたくしが変に意識しているだけなのか。


 どちらにしても、胸の奥が妙にざわついた。


 その日の夕方、部屋に戻ると——暖炉石が一つ、増えていた。



お読みいただきありがとうございます。

ここまでお付き合いいただいた方、本当にありがとうございます。


ブックマーク・評価・感想をいただけると、更新の励みになります。

引き続きよろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ