第15話「冬が来る前に(後編)」
第15話「冬が来る前に(後編)」
作業が始まったのは、昨夜のうちに初雪が積もった翌朝のことだった。
城の裏手に設けた作業場——もとは荷馬車の整備小屋として使われていた石造りの建屋——に、早朝から材料が運び込まれた。塩漬け用の大甕、燻製棚、乾燥台。城下の商会から手配した食材が、荷車で次々と届いてくる。
わたくしは手の甲で前髪を押し上げながら、木箱の数を確認した。
問題は、人手だった。
計画書には「城下町の女性の協力を得る」と書いた。店は四軒が手を挙げてくれた。でも作業を手伝ってくれる人となると、声をかけても様子見の空気が強かった。
「貴族のお嬢様が保存食を作る、ねえ」
「どうせ途中でお城に引っ込むんじゃないの」
聞こえないふりをしながら聞いた言葉たちが、頭のどこかにまだ残っている。
(……前世でいう「新しい上司が来た初日の空気」だ。様子見。信用は、あとで積み上げるもの)
わたくしはエプロンを結んで、袖をまくった。
最初に手をつけたのは、干し肉だった。
大きな木の台に肉を広げ、塩を計りながら振る。手のひらで揉み込み、繊維に沿って成形して乾燥棚に並べる。地道で、単調な作業だ。匂いが手に染みつく。指先が赤くなる。
でも、手が止まると進まない。次の束を取り、塩を揉み込み、また並べる。三束、五束、十束。
「……お嬢様、本当におやりになるのですか」
ヨハンナが横に立って、困惑した顔でこちらを見ていた。
「やります。ヨハンナも手伝ってください」
「わたくしはよろしいのですが——」
「では一緒に。ヨハンナが手を動かしてくれれば、わたくしも心強いです」
ヨハンナが小さくため息をついて、それからエプロンを結んだ。
城下町の女性たちが作業場の様子を見に来たのは、午前の半ばを過ぎたころだった。
最初は入口のあたりに二、三人が立って、中を覗いていた。
わたくしは彼女たちに気づいていたが、手を止めなかった。
干し肉の塩加減を確かめながら、次の束の下処理を続ける。手のひらに塩がしみる。爪の間が少し茶色になってきた。
入口の女性たちが、ひそひそと声を交わしている。
「あのお嬢様、手が汚れるのを嫌がらないんだね」
聞こえた。聞こえていないふりをした。
昼を少し前に、一人が作業場に入ってきた。
四十がらみの、肩幅のある女性だった。城下町の民家から出入りするのを何度か見た顔だ。
「手伝っていいかい」
「ありがとうございます。こちらへどうぞ」
二言三言で、もう手が動いている。慣れた動きだった。燻製棚の木の組み方を確認して、「ここ、もう少し間隔を空けた方が煙が通る」と短く言う。
「そうですね。ご指摘ありがとうございます、直します」
わたくしが素直に修正すると、その女性が少し眉を上げた。「お嬢様が素直に直すとは」と書いてある顔だった。
その女性が入ってから、空気が変わった。
少しずつ、作業場に人が増えた。
二人、三人。最終的には午後の時点で六人の女性が手を動かしてくれていた。
ただ、入口の近くにもう一人——痩せた年配の女性が、腕を組んだまま立っていた。手は出さない。目だけがこちらを追っている。
肩幅のある女性が「マルタ、あんたも入りなよ」と声をかけたが、首を横に振った。
「見てるだけだよ。手伝うとは言っていない」
(……全員が味方になるわけじゃない。当然だ)
わたくしはそのまま手を動かし続けた。マルタという女性の視線は感じていたが、無理に声をかけることはしなかった。
ピクルスの漬け込み作業が始まると、自然と会話が生まれた。
ただ、先に問題が起きた。午前中に漬け込んだ保存用の瓶が、八本のうち三本、蓋の密封が甘かった。ヨハンナが気づいて開けてみると、すでに中の空気が変わっている。
「お嬢様、この三本は駄目です。漬け直しても持ちません」
わたくしは瓶を見て、唇を噛んだ。蓋を締める力加減が足りなかったのだ。書物には「きつく締める」としか書いていなかったが、実際の「きつく」は手で覚えるものだった。
(一割の損失。初日から。——でも、止まっている場合じゃない)
「わかりました。中身は廃棄して、瓶は洗い直して再利用しましょう」
肩幅のある女性が横から覗き込んだ。「蓋はこうだよ」と、手首を返す角度を見せてくれた。「音が鳴るまで締めるんだ。カチッと言わなかったら、やり直し」
根菜を刻み、大甕に並べていく。塩を振り、酢を注ぎ、香辛料を数粒加える。わたくしは書物で読んだ配合の基本を話し、町の女性たちは長年の経験を返してくれた。
「そんなに酢を入れたら、辛くなりすぎますよ」
「ありがとうございます。ではこの分量で」
「大根はもっと薄く。この切り方の方が漬かりやすいんだよ」
わたくしが黙って包丁の角度を変えると、くすっと笑い声が上がった。
「お嬢様、結構素直だね」
「素直でいないと覚えられませんので」
経験に裏打ちされた手つきは、どんな書物よりも正確だった。
燻製の棚に火を入れたのは、日が西に傾きかけたころだった。
ゾフィが城の調理場から追加の塩を運んできて、漬け込みの塩梅を確認してくれた。「もう少し塩を足しなさい。この気温なら、多めの方が持つ」と手際よく調整する。さすがに三十年台所を仕切ってきた人だ。
ウルズラも昼過ぎから顔を出して、近所の女性を二人連れてきていた。「うちの亭主が、やってみろって言ったから」と、少し照れくさそうに笑っていた。
木の香りが煙とともに立ち上る。白い煙が出口から流れていく様子を見ながら、わたくしは腕の疲れを確かめた。
腕が重い。腰も張っている。
でも、嫌いじゃない。
肩から先が痛いくらいだが、前世の机仕事で凝り固まった肩とは違う種類の疲れだ。こっちの方がずっと清々しい。
ヨハンナが横に来て、小声で言った。
「お嬢様、先ほど奥で町の方々にお嬢様のことを少しお話しいたしました」
「なんと言ったのですか」
「お嬢様は見かけによらず、働き者でございますよ、と」
わたくしは思わず振り返った。
「ヨハンナ、『見かけによらず』は余計です」
「でも正確でございます」
事実なので反論できなかった。
日が暮れかけても、作業は終わらなかった。
干し肉の束はまだ半分以上ある。燻製棚の火は夜通し見張る必要がある。ピクルスの甕は明日の朝まで漬け込みが続く。今日できた分は計画の三分の一程度だろうか。
わたくしは燭台を追加して、作業の続きに入った。
町の女性たちは日暮れとともに帰り始めた。
「また明日来るよ」
「お嬢様、明日は朝一で燻製棚を確認しないといけないね。あたしも来るから」
最初に入ってきた肩幅のある女性が、帰り際にそう言った。
マルタだけは、最後まで腕を組んだまま出ていった。振り返りもしなかった。
小さな変化だが、「また来る」と言ってくれた人がいる。それは「一緒にやっている」という感覚が、少しだけ芽生えたということだ。全員ではないけれど——それでいい。
気がついたら、作業場にわたくしとヨハンナだけになっていた。
甕の蓋を確認して、干し肉の状態を最後に一度見回す。燻製棚の火加減を調整する。
石造りの建屋の外は、もう夜の気温になっていた。
体の芯から冷えてくるような空気が、隙間から入ってくる。エプロンの上から腕をさすった。
「失礼する」
低い声が、入口から聞こえた。
カインだった。
外套のままで、作業場の入口に立っている。視線が一度作業場の中を回って、燻製棚、甕、乾燥台と順に確認していく。
「燻製棚の火は。夜通し焚くつもりか」
「はい。火の番はわたくしが」
「建屋の排煙口は確認したか」
「しました。煙が抜ける構造です」
カインはうなずいて、棚の継ぎ目に手を当て、壁の通気口を覗き込んだ。施設点検——それが、来た目的らしかった。
わたくしが通気口の近くに立ったとき、外気が隙間から吹き込んだ。思わず肩が震えた。夜の気温は、昼とは別物だ。
カインがそれを見た。一瞬だけ動きが止まった。
それから外套の留め金に手をかけた——が、途中でやめた。代わりに作業場の壁に掛かっていた予備のマントを引き取って、通気口の前に立っているわたくしの方に差し出した。
「使え。俺は動いているから冷えない」
事実を述べただけの声だった。施設を点検して歩き回っている人間と、ここに留まって火の番をする人間では、体の冷え方が違う。それは道理だ。
けれど——そのマントは、壁に掛かっていたものではなかった。わたくしは受け取ってから気づいた。城の備品にしては仕立てが良すぎる。裏地に小さな刺繍が入っている。
カインはもう背を向けていた。壁に掛かっていた備品の方を自分の肩に引っかけて、出口に向かっている。
(……入れ替えた。自分のものをわたくしに渡して、備品の方を自分が使っている)
入口をくぐりかけて——一度だけ、振り返った。
目が合った。いや、目ではなく、視線がわたくしの頬のあたりで止まったのだ。眉がわずかに動く。口が何かを言いかけて、結局閉じた。
外套の背中が、入口の向こうに消えた。
ヨハンナが隣に来て、小声で言った。「お嬢様、頬に煤がついておりますよ」
わたくしは慌てて手の甲で顔を拭った。
わたくしはしばらく、手の中のマントを見ていた。裏地の刺繍——小さな剣の意匠だった。
(……何、この人。黙って入れ替えるなんて)
ヨハンナが隣で静かにしている。助け舟を出すつもりはないらしい。
マントを肩にかけると、確かに温かかった。内側が、まだ少しだけ熱を持っている。
燭台の灯りが揺れた。干し肉の塩の匂いと、燻製の木の香りが混じった空気の中で、わたくしの頬が——少しだけ、熱かった。
(絶対に冷えているせいだ。それ以外の理由はない)
横を見ると、ヨハンナが何も言わずに微笑んでいた。口元を押さえて、にっこりと。
「……ヨハンナ、その笑顔やめてください」
「何のことでしょう。わたくし、ただ微笑んでいるだけですが」
翌朝、ヨハンナが部屋に来て言った。
「昨日の女性たちが、今日は四人増えてお越しになりましたよ、お嬢様」
「そうですか」
「それから——昨夜のマントですが」
「返しに行きます。後で」
ヨハンナが「そうですか」と静かに言った。
その「そうですか」が何を含んでいるのか、考えないことにした。




