第13話「小さな不正」
第13話「小さな不正」
「この金額、おかしくありませんか?」
その言葉を口にした瞬間から、わたくしの頭は別の動きを始めていた。
帳簿の前で、ペンを止める。窓の外では冷たい風が城壁を撫でている。静かな午後だった。
項目は「特別調達費」。記録された数字はどこかが歪んでいる。異様に規則的な増減。数字の揺れ方が、自然な価格変動ではない。
(前世で見たことがある。同じパターンを並べて数字を隠すやり方だ)
翌日の午前中、わたくしは物資の納入記録と帳簿を並べて精査した。
城の保存食計画に関わって以来、物資管理の流れはおおよそ把握していた。どの季節に何が入り、何が倉庫に残るか。数字の骨格は頭に入っている。
問題の箇所を遡ると、三年前まで同じ構造が続いていた。
一回の引き落とし額は小さい。だが頻度と年数を掛け合わせると、相当な額になる。
(少額を長い期間で繰り返す。これが一番見つかりにくい)
わたくしは数字を書き出した紙を改めて眺めた。
悪意があって始まったわけではないかもしれない。長年の慣習が、少しずつ正常な範囲を逸脱していった——そういう積み重ねなのかもしれない。だからといって、見て見ぬふりはできない。
物資管理の担当は、ゲオルクという役人だった。
フリッツから以前簡単に聞いたことがある。五十代、古参の文官。カインが辺境伯に就く前から城に仕えている人物だ。
納入業者の記録を辿ると、特定の商人との取引に集中している。その商人の名前は、城の公式の取引先台帳には載っていなかった。
わたくしは記録を丁寧に束ねた。数字、日付、対象物資、金額の差分。三年分の証跡を整理すると、紙の束は思ったより厚くなった。
カインへの報告は、その日の夕方にした。
執務室の扉を叩くと「入れ」という短い声が返ってきた。
カインは机の前で文書を見ていた。わたくしが入ると、手を止めて顔を上げた。
「少しよろしいでしょうか。帳簿の確認中に、気になるものが出てきまして」
わたくしは束ねた記録を差し出した。
カインは無言で受け取り、紙を繰り始めた。
めくる手が、途中で止まった。
目が、数字の一点に据わる。眉の動きが、わずかに変わった。
表情は動かない。でも、目が止まっていた。数字の中の何かを、確かめている目だ。
しばらく沈黙が続いた。
「……ゲオルクか」
確認というより、確信だった。
「はい。少なくとも三年、同じ構造が続いています。一回の額は小さいのですが、積み重なると」
「わかった」
カインは紙を机に置いた。
それから、少し間があった。
「……俺の管理が甘かった」
声は静かだった。
責める相手を探すでもなく、言い訳をするでもなく、ただそのまま言った。
わたくしは思わず目を瞬かせた。
(いま、この人は「自分の問題だ」と言った。何のためらいもなく)
「カイン様が——」
「俺が見るべきだった。以上だ」
それで終わりだった。
カインは手に取った記録をもう一度確認した。指が数字の上を辿る。静かな、でも真剣な目だった。
翌朝、城内にゲオルクがカインに呼ばれたという話が広まった。
昼前、フリッツがわたくしのところに来て、結果だけを短く伝えてくれた。ゲオルクは城を出ることになった。即刻の追放ではなく、三日の猶予が与えられたという。家族の身支度のための時間だろう。カインの判断だった。
わたくしは関与しなかった。
裁く立場はわたくしにはない。証拠を示すことまでが、わたくしの役目だった。その先は、この城の主の判断に委ねるべきことだ。
(告発した後に、自分が裁く側に立ってはいけない。それは分かっている)
城内の空気が、その日の午後から少し変わった。
変化は二方向から来た。
廊下を歩いていると、目が合った途端に逸らされることが一度や二度ではなかった。
食堂の隅で、わたくしが席に着くと、それまで話していた文官の数人が言葉を切った。会話が再開されることはなかった。
ゲオルクが長年城に仕えてきた事実は、誰でも知っていることだった。仕事上の付き合いがある者も多い。そのゲオルクが問題にされた——その経緯を作ったのが、よそから来たばかりの令嬢だとなれば、面白くない者がいるのは当然だ。
わたくしはその視線を正面から受けながら、静かに食事を終えた。
一方、別の動きもあった。
ゲオルクが城を出た翌日、ハンスがわたくしの作業部屋を訪ねてきた。文官主任の、四十代の男だ。最初にわたくしが帳簿の整理を申し出たとき、一番露骨に顔をしかめた人物でもある。
ハンスは扉の前に立ったまま、帳簿の一冊を手にしていた。
「ヴァルトシュタイン嬢。一点だけ確認させていただきたい」
「どうぞ」
「この項目——特別調達費の異常に気づかれたのは、費目を組み直した後ですか。それとも前ですか」
確認だった。わたくしの仕事がどこまで正確なのか、自分の目で確かめに来たのだ。
「費目の組み直しが先です。三年分を並べた段階で数字の偏りが見えまして、そこから項目を追いました」
ハンスは帳簿を開き、わたくしが白紙に書き写した数字と照らし合わせた。二、三分。黙って指で追っていた。
それから帳簿を閉じ、短く頷いた。
「……数字は合っている」
それだけ言って、ハンスは部屋を出た。
翌日の夕方、廊下でまたハンスとすれ違った。
てっきり顔を背けられるものと思っていたが、ハンスは立ち止まった。
「ヴァルトシュタイン嬢」
「はい」
ハンスの表情は変わらなかった。だが、昨日確認に来たときとは、目の奥にあるものが違っていた。
「……わたくしは、気づけなかった」
それだけ言って、ハンスは歩き去った。
昨日は数字を確かめに来た。今日は——認めに来た。
わたくしは少しだけ立ち止まった。
その夜、部屋で一人、帳簿の整理を続けていた。
城内の視線を思い出すと、肩に重さがかかる。仕方のないことだと分かっていても、体は正直だった。目の奥がじんと痛む。
コン、と扉が鳴った。
開けると、廊下にフリッツが立っていた。片手に、湯気の立つ器を持っている。
「辺境伯より、お渡しするよう仰せつかりました」
フリッツはそれだけ言って、器を差し出した。
温かい蜂蜜湯だった。辺境の蜂蜜を湯で溶いたもので、かすかに花の香りがする。
「カイン様が?」
「はい。『渡しておけ』と」
フリッツの声は淡々としていたが、目元がわずかに和らいでいた。
わたくしは器を両手で包んだ。陶器の熱が、冷えた指先にじわりと伝わる。一口飲むと、喉の奥から体の芯へ、温かさが落ちていった。
直接持ってこないところが、あの人らしかった。
(でも、覚えていてくれた。わたくしが今夜、疲れていることを)
フリッツは器を渡し終えると、一度下がりかけた。それから、思い直したように足を止めた。
「少し、よろしいでしょうか」
「どうぞ」
フリッツは部屋に入ると、真っ直ぐ立ったまま口を開いた。その目には、いつもの計るような鋭さとは少し違う、重いものが混じっていた。
「ゲオルクは、わたくしの管轄下で長く働いておりました。彼の家族の事情も、ある程度存じています」
「はい」
「……子供が四人。上の二人は病がちで、薬代がかさんでいたと聞いています」
わたくしは何も言わなかった。
フリッツも続けなかった。ただ事実を伝えた、それだけだった。
「わかりました」
フリッツが小さく頷いた。
「……わたくしも、見落としておりました。恥ずかしい限りで」
それだけ言って、フリッツは下がった。
窓の外の夜風が、カーテンを揺らした。
(不正は不正だ。でも、全てが単純ではない。子供の薬代のために少しずつ手を出した——その道のりを、わたくしは裁く気にはなれない)
カインが「俺の管理が甘かった」と言った言葉が、もう一度頭の中で鳴った。
ゲオルクへの処分は、カインが決めることだ。この城の事情を誰より知っているのは、カインだ。わたくしがいくら数字を読めても、この土地に三年も十年も生きてきた人々の事情には、届かない部分がある。
自分にできることと、できないことを分けること——前世でも、それが一番難しかった。
翌日、城内の空気はまた少し変わった。
明確に変わったのは、若い文官が朝の挨拶を向けてきたことだった。昨日まで目を逸らしていた者の一人だ。
「おはようございます、ヴァルトシュタイン嬢」
「おはようございます」
声に棘はなかった。それだけのことだが、それだけのことがあった。
ヨハンナが廊下で小声で言った。
「お嬢様、昨日から城の方々の顔つきが変わっていますわ」
「そうですか」
「批判的な方もいらっしゃいますが……本物かもしれないと思っている方が、増えているようです」
わたくしは少し考えた。
「それは、どちらでも構いません。ただ仕事をしているだけですので」
「——そういうところが、なのですよ」
ヨハンナが静かに笑った。
それから数日が過ぎた。
城内の空気は、少しずつ落ち着いていった。ゲオルクの件は会話の中に出ることもなくなり、日常が元に戻りつつある。
ある日の午後、帳簿の確認でカインの執務室を訪ねた。
物資の調達先について二、三の確認を済ませ、わたくしが退室しようとしたときだった。
「——ヴァルトシュタイン」
カインが呼び止めた。声は低く、いつもと変わらない。
わたくしが足を止めて振り返ると、カインは文書に目を落としたまま——つまり、こちらを見ずに——ぽつりと言った。
「……あの件は、助かった」
一瞬の間があった。それから、さらに低い声で。
「俺が見落としていた」
カインは顔を上げなかった。そのまま手元の文書をめくり直す。話は終わりだ、という空気だった。
わたくしは「はい」とだけ答えて、部屋を出た。
廊下に出てから、しばらく歩けなかった。
(この人、何日も経ってから——わざわざ別件のついでに、言ったんだ)
直接言うのが苦手なのだろう。だから、何日もかかった。でも——言った。
(前世の上司には、一人もいなかったのに。何年働いても、「助かった」の一言をもらったことがなかった)
鼻の奥が、つん、と熱くなった。泣くほどのことではない。でも、体がそう反応した。
廊下に夕日が差し込んでいた。石造りの壁が橙色に染まっている。
わたくしは、その光の中で少しだけ、息を吐いた。
蜂蜜湯のことを思い出した。あの夜、何も言わずに届けてくれた温かさが、まだ手のひらに残っている気がする。
言葉の少ない人だ。でも——見ている人だった。




