第12話「帳簿の闘い」
第12話「帳簿の闘い」
翌朝、わたくしは清々しい気持ちで目を覚ました。
昨夜のディートリヒの言葉が、眠りにつく直前まで頭の中でゆっくりと回っていた。三度、読み返した——その事実が、朝になっても小さな灯のようにどこかで燃えている。
着替えを済ませると、ヨハンナがすでに温かいパンとハーブティーを準備して待っていた。前回のことを学習したらしく、机の端にさりげなく置いてある。
「お嬢様、今日もお早うございます」
「おはようございます、ヨハンナ。今日は城の執務棟を少し借りたいのですが、フリッツ様に話を通していただけますか」
ヨハンナは眉一本動かさず頷いた。
「もうお話しいたしました。執務棟の奥の小部屋を使ってよい、とのことでしたよ」
わたくしはパンをひと口かじり、ハーブティーを一口飲んだ。立ち上がったのは、それが終わってからだ。前回の反省を活かした。
小部屋は執務棟の廊下を奥に進んだ突き当たりにあった。
窓が東向きで、朝の光が差し込む。机がひとつ、椅子がふたつ。棚に積み上げられた帳簿の束が、二列にわたって並んでいた。
わたくしは棚の一番古い帳簿を引き抜いて、表紙を確認した。
三年前の年度始めから付けられているものだ。フリッツが持ち込んでくれた分と合わせると、手元には六冊ある。
机に並べて、背表紙の年月を確認する。古い順に並べ直す。
(まず全体を把握してから、分類する。焦らない)
いきなり数字を足したり引いたりしても意味がない。何が記録されているかを最初に把握する。大きな流れを見てから、細部に入る。
わたくしは一番古い帳簿を開いた。
三十分ほど読み進めたあたりで、小部屋の扉が開いた。
振り返ると、四十代半ばの文官が立っていた。
がっしりとした体格で、短く刈った濃い茶色の髪に、白いものが混じっている。顔は目元が鋭く、整った顔立ちの人物だった。ただ、その目が——わたくしを見る視線が、少し上から来ていた。
「ハンスと申します。この城の帳簿管理を担っております」
名乗り方は丁寧だった。しかし、声の底に何かが潜んでいる。
「エリナ・フォン・ヴァルトシュタインと申します。先日からお世話になっております」
わたくしが頭を下げると、ハンスは微妙な間を置いた後に会釈した。
「フリッツ様より、帳簿を閲覧なさると伺いました。ご不明の点があれば、わたくしにお申しつけください」
言葉自体は丁寧だ。でも、「お申しつけください」の部分だけが、わずかに硬い。
(「どうせ数字なんて読めないでしょう」という空気を感じる)
「外から来た人間に何がわかる」——習慣から来る防御反応だ。
責めるつもりはない。ただ、仕事は進める。
「ありがとうございます。一点だけ伺ってもよろしいですか」
「はい」
「帳簿の項目立て——費目の分類についてなのですが、こちらはどなたが設定されたのでしょうか」
ハンスがわずかに眉を上げた。
「先代の城代が決めた様式で、当領では十五年ほど前から使用しております」
「そうですか。ありがとうございます」
わたくしは帳簿に視線を戻した。
ハンスが部屋を出てから、わたくしは改めて帳簿の分類を眺めた。
項目は大きく三つだけ。食材費も修繕費も燃料費も、すべて「その他雑費」に放り込んである。
(これでは異常が見えない。……いや、見えないようにしてある、と言うべきかもしれない)
わたくしは白紙を引き寄せ、八項目に組み直した。三年分の数字をひたすら振り分けていく。地道な作業だったが、手を動かすほどに胸の底で不安が重くなった。どの年も支出が収入を圧迫している。辺境の台所は、思っていたよりずっと苦しい。鉱山関連の項目もあったが、今は食料備蓄の確保が最優先だ。そちらは後で改めて確認する。
昼過ぎに三冊分の整理が終わった。そして——月ごとの支出の波に、不自然な突起がいくつかある。ひとつは季節の変動で説明がつく。だが、もうひとつは説明がつかなかった。
ちょうどそこで、扉が開いた。
ハンスが戻ってきた。今度は若い文官を二人連れている。二十代後半の男と、三十代の女性。
「お昼の飲み物をお持ちしました」
ハンスが言った。若い文官の一人が、盆に湯気の立つ器を二つ乗せて運んでくれた。
「ありがとうございます」
器を受け取ろうとしたとき、若い男の方の文官が、わたくしの手元を覗き込んだ。白紙に書き写した数字の列が見えたらしく、目を細めた。
「……これは」
「費目を整理しておりました。分類を少し変えると、月ごとの比較がしやすくなると思いまして」
三人が無言になった。
ハンスが一歩近づいて、白紙を見た。それから帳簿を見た。白紙に戻した。
「お嬢様」
声のトーンが、さっきと少し変わった。
「はい」
「この振り分けは……一人でなさったのですか」
「はい。ただ確認したいことがございまして」
わたくしは今年度の帳簿を開いて、九月の欄を指で示した。
「九月の雑費が、前年の約三倍に膨れています。収穫量は減っているのに、です」
数字を口にしたとき、自分の声が少し硬くなるのを感じた。三倍——この規模の領地で三倍の雑費は、誰かが苦しんでいるということだ。
ハンスの目が動いた。
「収穫前後の時期ですので、出費が重なることも——」
「条件は毎年同じです。収入が減った年に、雑費だけが跳ね上がる。何か理由がおありですか」
部屋が静かになった。
ハンスは帳簿を手に取り、数字を目で追った。隣の若い男が自分の手元を見た。三十代の女性が視線をハンスに向けた。
「……調べてみます」
ハンスはそれだけ言って、若い文官を連れて部屋を出た。足音が廊下に消えるまで、振り返りはしなかった。
(まだ判断しかねている顔だった。でも、聞く耳は持ってくれた。それで十分だ)
夕方、わたくしはカインの執務室を訪ねた。
廊下で待っているうちに、ディートリヒが「辺境伯は今お戻りになります」と知らせてくれた。しばらくして革靴の音が近づいてきた。
「カイン様、少しよろしいでしょうか」
カインは足を止めた。外套の肩に、夕暮れ前の寒気を連れてきた気配がある。
「何だ」
「本日の進捗報告をと思いまして。帳簿の整理に着手しました。費目の分類を組み直すと、過去三年分の月別支出が比較できるようになります」
わたくしは手元の白紙を差し出した。昼間に書き直した、整理後の表だ。
カインは受け取り、数秒、目を走らせた。
「……どこが変わった」
「項目の立て方です。元の帳簿は大項目が三つでしたが、八項目に分けました。これで食料費と修繕費が混在していた部分が区別できます。月ごとに何が増えているか減っているかが、すぐに確認できます」
カインは白紙と帳簿を交互に見た。
ディートリヒが少し離れた位置で立っていて、横顔に「また辺境伯が無言になった」という諦めに似た温かさが浮かんでいるのが見えた。
カインは白紙を机の端に置いた。それから、何も言わずに自分の文書に目を戻した。
沈黙が落ちる。
わたくしは少しだけ待った。何か言われるかと思ったが——カインはもう、自分の仕事に戻っている。白紙は机の端に、自然な位置で残されていた。突き返されてはいない。
「……失礼いたします」
わたくしは一礼して、踵を返した。
廊下に出てから、わたくしはゆっくりと息を吐いた。
承認の言葉はなかった。でも、突き返されもしなかった。机の端に置かれたまま、あの白紙はカインの手の届く位置にある。
(あの人なりの、「確かに見た」という意思表示なのかもしれない)
小部屋に戻ると、机の上に残った帳簿がまだ三冊あった。
わたくしは椅子を引いて、続きの整理を始めた。
燭台の灯りをヨハンナが増やしてくれた。「夜になりますよ」という合図だ。
「もう少しだけ」
「はい。では、お茶を淹れ直して参ります」
ヨハンナの足音が廊下に消えていった。
静かな執務棟に、羽根ペンが白紙を滑る音だけが残る。
どれほど経ったのだろう。燭台の蝋が短くなっていた。
廊下から、ゆっくりとした足音が近づいてきた。扉を叩く音。
「失礼いたします。夜の巡回のついでに——まだ灯りが見えましたので」
フリッツだった。白髪交じりの城代が、扉の隙間からこちらを見ている。手に鍵束を持っていた。執務棟の施錠を確認する巡回の途中らしい。
「お疲れ様です。もう少しで区切りがつきますので」
「……あまり遅くならぬよう」
フリッツの声は静かだった。城代としての事務的な注意ではなく、もう少し柔らかい響きだった。
わたくしは羽根ペンを置いた。
「大丈夫です、慣れていますから」
口にした瞬間、喉の奥がきゅっと締まった。同じ言葉を、前世でも何度も繰り返していた。慣れていると言って、限界を隠す。あの頃の自分を変えたくてこの世界に来たはずなのに。
フリッツは何も言わず、小さく頷いて廊下に戻っていった。
羽根ペンを取り直した。でも今夜はもう、ここで止めようと思った。
ふと、机の端に目が止まった。茶器が一つ置かれている。蓋がしてあって、中身はまだ温かかった。ヨハンナが淹れたものではない。形が違う。城の備品の、大ぶりな器だ。
(誰が——)
ヨハンナが戻ってきて、器を一瞥した。「カイン様が先ほどお通りになったとき、置いていかれましたよ」
何事もなかったように言う。わたくしは器の蓋を開けた。ハーブの湯気が立ち上った。
(声もかけずに、ただ置いていった。……そういうところが、あの人らしい)
温かかった。蓋がしてあったから、冷めていない。つまり——置いていったのは、そう前のことではない。巡回の途中で、わざわざここを通ったのだろうか。
考えすぎだ、と自分に言い聞かせた。でも、器を包む掌がなんだか熱い。
数字を整理しながら、わたくしは今日の仕事を振り返っていた。
ハンスたちの最初の目線は、正直なところ気になっていた。「お嬢様に帳簿が分かるのですか」という空気は、言葉より先に体で感じた。
でも、それは変わった。数字を見せたとき、正確さを確認したとき——あの三人の顔が切り替わったのは確かだった。
それは前世で何度も体で覚えた教えだ。言葉より、数字が先に語る。この世界でも同じだった。
数字を書き写す手が、ふと鈍った。
昼間の整理のときにも引っかかっていた箇所がある。十月の「領地管理費」——あのとき一瞬だけ目に留まった数字を、今、改めて確認した。
「特別調達費 — 四十七銀貨」。
昼間は時間がなくて通り過ぎたが、夜になって引っかかりが消えなかった。何がおかしいのかと思って、前の年の同月を開いた。四十五銀貨。さらに前の年。四十三銀貨。三年連続で、ほぼ同じ時期に、ほぼ同じ規模。
他の費目には「○○農家より購入」「○○職人への支払い」と書かれているのに、この一件だけ——備考欄が白紙だった。
月間食料費が二十二銀貨前後のこの領地で、四十七銀貨。食費二ヶ月分以上の支出に、一切の説明がない。
わたくしは帳簿から目を上げた。
燭台の灯りが、静かに揺れている。
(昼間、あの数字を見たとき、嫌な感触がした。その直感は、間違っていなかった)
辺境の城の帳簿の中に、小さな影が潜んでいた。
お読みいただきありがとうございます。
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