第11話「辺境の人々」
第11話「辺境の人々」
保存食の計画に取り掛かって、三日が過ぎた。
食料調達の算段、保存に必要な塩と瓶の数量、作業を手伝える人員の見当。やることはいくらでもある。
でも今日は、少し外に出ることにした。
帳簿の数字だけ見ていても、実際の市場の空気は分からない。物の値段と人の顔は、現場で確かめるものだ——前世でそれを痛いほど学んでいる。
城下町の定期市は、週に二回開かれる。
朝のうちに市場の広場に着くと、露店がずらりと並んでいた。野菜、干し魚、木工品、布地。品物の種類は悪くない。ただ、客の波が薄い。
(活気が足りない。先日も感じたことだ)
隣でヨハンナが静かに周囲を見渡している。城下への外出には必ずついてきてくれる。いつも少し後ろ、わたくしの様子が視界に入る位置。本当に気の利く人だ。
最初の露店に近づいた。根菜を並べた農婦が、わたくしの姿を見てわずかに体を固くした。
「良いお天気ですね」
わたくしが声をかけると、農婦は「……はあ」と短く答えた。どこか探るような目だ。
王都のお嬢様が何しに来た——その雰囲気が、空気の中ににじんでいる。
露店を三軒回っても、似たような空気が続いた。
会釈は返してくれる。話しかければ答えてはくれる。でも、どこか扉を半分しか開けていない感じ。
わたくしはそれで構わないと思っていた。信用というのは、最初から存在するものじゃない。少しずつ積み上げるものだ。
四軒目。陶器を並べた初老の男の露店で、わたくしは足を止めた。
保存食計画に使える小ぶりの瓶が、数十個まとまって積まれている。
「これは、おいくらになりますか」
「……ひとつ銀貨三枚で」
男はぶっきらぼうに答えた。
わたくしは瓶を一つ手に取り、底を確認した。造りはしっかりしている。蓋の合わせも悪くない。ただ——。
「この形ですと、積み上げると少し不安定ですね。底が少し広いものですと、輸送のときに崩れにくいのですが」
「……他に形の在庫はありません」
「では、二十個まとめてお願いしたいのですが、少し融通していただけますか」
男が眉を上げた。
「まとめて買い、というのは、いくら?」
「銀貨二枚半でいかがでしょう。来月もまた必要になりますので、そのときも最初にこちらに声をかけますわ」
男は腕を組んで、わたくしを見た。値段の話だけではない何かを、計るような目だった。
「……銀貨二枚六分なら、引き受ける」
「ありがとうございます。それで結構ですわ」
値段がまとまった瞬間、隣の布地の露店から視線を感じた。気のせいかもしれない。
周囲を見渡しても、特に何かが変わった気はしなかった。商人たちは自分の商売に戻っている。こちらを気にしている様子はない。
(まだ何も変わっていない。でも、それでいい)
信用というのは、一回の取引で生まれるものじゃない。繰り返し顔を見せて、繰り返し約束を守って、ようやく少しだけ扉が開く。前世でもそうだった。
五軒目は、干し肉を並べた中年の男の露店だった。
肉の質を確認しながら、保存食計画に使えるかどうかを聞いてみた。
「この干し肉は、何日くらい保ちますか」
「塩の加減によるが、ひと月は持つ。二ヶ月は物による」
「冬の備蓄用にまとまった量が必要になるかもしれません。そのとき、相談に乗っていただけますか」
男は腕を組んだ。先ほどの陶器商とは違う反応だった。すぐに値段の話にならない。
「……城のお方が、うちみたいな小さい店に声をかけるのは珍しい」
「小さいかどうかは、品物の質で決まると思います。この干し肉は塩加減が丁寧ですね」
男はしばらくわたくしを見ていた。それから、小さく鼻を鳴らした。
「まあ、話だけなら聞くよ」
確約ではない。でも、扉を閉じられたわけでもない。
市場の端を歩いていたとき、子供の泣き声が聞こえた。
四、五歳の男の子が地面に座り込んでいる。膝を擦りむいたらしい。
周囲の大人は足を止めていなかった。わたくしが少し立ち止まったとき、向こうから三十代の女性が小走りに駆けてきた。
「——何してるの、もう!」
母親だった。買い物袋を両手に提げている。子供を抱き上げながら、こちらをちらりと見た。城の人間だと分かったのだろう——目が一瞬、鋭くなった。
わたくしは何も声をかけなかった。その場をただ通り過ぎた。
(手を出すところじゃない。親が来ているんだから)
前世なら、つい「大丈夫ですか」と声をかけていただろう。余計なお世話だと言われるのが怖くて、それでも声をかけずにはいられなかったあの癖は——まだ完全には抜けていない。
だが今は、このまちで信用を積み上げる途中だ。善意の押し売りは、距離を詰めるのではなく引き離す。
ヨハンナが小さく頷いたのが、視界の端に見えた。
市場をひと回りして、城への帰り道を歩きながら、わたくしはヨハンナに話しかけた。
「帳簿を読んでいるだけでは分からないことが、たくさんありましたわ」
ヨハンナが静かに頷いた。
「お嬢様。商人の方々はまだ、様子を見ているように感じましたわ」
「そうですね。そうだと思います」
「次はいつ行かれますか」
「来週の市の日に。同じ顔で、また行きます」
ヨハンナは何も言わなかった。ただ、少しだけ歩調を合わせてくれた気がした。
城に戻ると、正面玄関から廊下に入ったところで——カインとすれ違った。
外套を着ていた。兵舎の方から戻ってきたのだろう。革靴の音が石の廊下に短く響く。
「——お帰りか」
足を止めず、視線だけがこちらに向いた。問いかけというより、確認に近い短さだった。
「はい。城下の市場を見て参りました」
「市場か」
カインの目が一瞬、わたくしの手元に落ちた。陶器の瓶を包んだ布袋を提げている。それを見ただけで、何かを納得したらしい。
「……そうか」
それだけ言って、カインは廊下の奥へ歩いていった。振り返りはしない。
(短い。ほんとうに短い会話だったけど——「お帰りか」って、つまり出かけていたことを知っていた、ということだ)
少し離れた場所で、ひとりの男がこちらに歩いてきた。
文官らしき服装。三十代半ばで、落ち着いた目をしている。歩き方に無駄がない。
「エリナ様、お帰りなさいませ」
声に、自然な丁寧さがある。媚びではなく、習慣としての礼儀だ。
「あなたは——」
「ディートリヒと申します。辺境伯の副官を務めております。先日ご到着された際は、まだご挨拶が叶わず失礼いたしました」
ディートリヒは落ち着いた顔をしていた。ただ、目の端に何かほんの少し——呆れにも見える、温かみのある疲弊感がある。
(なんとなく、扱いにくい上司を持つ人の顔だ)
「こちらこそ、ご挨拶が遅くなりました」
「いえ。……実は、ひとつお伝えしておこうかと思いまして。先ほど辺境伯より、保存食の計画書について確認を求められたのですが、実務の詳細についてはお嬢様に伺うようにと」
ディートリヒが、少し声を落とした。
「それで確認にお伺いしたのですが——その前にひとつ、お耳に入れておきたいことがございまして。あの計画書ですが」
「はい」
「辺境伯が、今日で三度、読み返しておられました」
わたくしは思わず目を瞬かせた。
「……三度、ですか」
「はい。昨日も読んでおられましたので、正確には四度になるかもしれませんが」
ディートリヒの口調は淡々としていた。ただ、その目の端に先ほどのほんの少しの「呆れ」が漂っている。彼には、それがカインらしい行動だと分かっているのだろう。
「そうですか。……ありがとうございます」
「いえ、では」
副官は礼をして廊下を戻っていった。
自分の部屋に入って、わたくしはしばらく窓の外を見た。
カインは三度、読み返していた——。
提出してから、三日。
つまりほぼ毎日、手に取っていた計算になる。
(何が気になっているんだろう。疑問点があるなら直接聞いてくれればいいのに——いや、カイン様はそういう方じゃない。言葉にするのが苦手で、でも目はちゃんと見ている)
机に向かいながら、わたくしは小さく息を吐いた。
胸のあたりがなんとなく、落ち着かない。
嬉しい、と思っているのかもしれない。自分が作ったものを、ちゃんと見てもらえているという感覚が。
前世では、提出した報告書が読まれているかどうか確認する術もなかった。承認のハンコだけ押されて返ってきても、中身を読んだのかどうか分からない。
それと比べると——いや、比べるのはおかしい。でも、悪い気はしない。全然。
窓の外、夕暮れがグラフの町に落ちていた。
市場で買い付けた陶器の瓶が、部屋の隅に並んでいる。明日から、保存食の準備が本格的に動き始める。
辺境での暮らしが、少しずつ根を張ってきている気がした。
三度。わたくしの計画書を、三度も。
その事実がまだ、胸の中で温かかった。
◇
——同じ頃、王都では、エリナが抜けた穴が目に見える形で広がり始めていた。
エリナが辺境に発って、ひと月。
「ヴァルトシュタイン嬢が仕切っていた慈善茶会、今年は中止ですって」
「あの方がやっていたんですの? 招待状の手配から花の選定まで」
「代わりを引き受ける方が見つからないとか」
令嬢たちの声に、最初は同情がなかった。だがひと月が経ち、エリナがいたからこそ回っていた歯車が止まり始めると、調子が変わった。
「あの方、意外と色々なさっていたのね」
その「意外と」が、じわりと広がっていた。
アルフレートの政務にも、小さなほころびが出始めていた。
隣国ベルヴァルトとの通商条約の更新期限を一日過ぎた。アルフレートは覚書の存在すら把握していなかった——エリナが毎年、期限の十日前に書類を整えて彼の机に置いていたからだ。先方の外交官が王宮に催促の書簡を送り、宰相府から「第二王子の案件では」と確認が入って、ようやく気がついた。
辺境諸侯への季節の挨拶状も三家分が抜けた。うち一家は、先代の代からの盟友であるラングフェルト伯爵家。「王家に軽んじられた」と不快を示したという噂が、宮廷の片隅に流れ始めている。
以前は、こうしたことは起きなかった。それらがエリナの手で静かに防がれていたことを、アルフレートはまだ知らない。
しかし宮廷の事務方は、気づき始めていた。「以前はヴァルトシュタイン嬢が処理していた案件です」という報告が、宰相府の事務官の口から二度、漏れている。
兄であるシュテファン第一王子の耳にも、そろそろ届くだろう。
——だが、宮廷の別の場所では、別の種類の異変が生じていた。
宮廷魔法師団の一角で、老いた魔法師がメリアの「聖女の奇跡」に関する報告書を閉じた。
「光の波長が、少しばかり一定すぎる」
聖女の加護なら、自然の力の揺らぎがあるはずだ。メリアの光にはそれがない。老魔法師は手帳に一行だけ書き残し、棚に戻した。
だが、その目は閉じていなかった。
——辺境の城で帳簿を前に奮闘する令嬢は、まだ知らない。




