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婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜  作者: きなこ
第1章「堕ちた令嬢と辺境の扉」

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第10話「最初の提案」

第10話「最初の提案」


 帳簿を開いてから、どれくらい経ったのだろう。


 気づいたとき、執務室の窓から差し込む光が、橙色に変わっていた。


 正午前には白かったはずの光が、今は部屋の石床を暖かく染めている。窓の外、針葉樹の梢の向こうに、太陽が山の端に近づいていた。



「飯を食え」


 声が聞こえた。


 わたくしは顔を上げた。


 執務室の扉のそばに、カインが立っていた。外套を着直している。いつの間に戻ってきたのだろう。城内の巡回に出ていったのは——昼前だった、と思う。


「……何時でしょうか」


「夕方だ」


 短い答えだった。それだけで十分だった。


 帳簿に没頭していたわたくしは、昼食を完全に忘れていた。半日が、あっという間に過ぎていた。いつもそうだ。資料に集中すると、空腹を忘れる。


「……申し訳ありません。気づきませんでした」


「いい。来い」


 カインはそれだけ言って、扉を開けた。


 命令形だった。けれど、どこか違う。


 (命令じゃなくて、心配だ)


 声のトーンが、昨日と違う。言葉は短いし、顔は相変わらず無愛想だ。でも、「飯を食え」という言い方に、どこかひっかかりがあった。「飯食ってこい」と言う上司は、怒っていたわけじゃなかった。あれは心配の裏返しだ。


 わたくしは帳簿を丁寧に閉じ、椅子から立ち上がった。



 食堂に案内されると、ヨハンナが温めたスープと厚切りのパンを用意して待っていた。


「お嬢様、お昼を抜かされると思いましてね」


 怒っているわけではない。ただ静かに「知っていましたよ」という顔だった。


「ご迷惑をおかけしましたわ」


「迷惑なんぞでございません。ただ——」


 ヨハンナはそっとスープを置いた。


「お体だけは、崩さないでくださいませ」


 わたくしはスープの皿に目を落とした。


 野菜と豆が入った、素朴な汁だ。味は濃くない。でも、体の奥まで染みるような温かさがある。


 (おいしい)


 素直にそう思った。


 ふと視線を感じて顔を上げると、食堂の端に、カインが腕を組んで立っていた。こちらを見ている。目が合うと、すぐに窓の外へ視線を逸らした。


 (……見ていたのか)


 食べているかどうか、確かめていたのだろう。不器用すぎて笑いそうになったが、堪えた。


 それなのに、頬の力が少しだけ緩んだ。スープのせいだけではない温かさが、体の芯にある。不思議な気持ちだった。



 翌朝。


 わたくしは夜明けとともに起きて、昨日の帳簿の続きに取り掛かった。


 今度はパンとハーブティーをヨハンナに頼んでから机に向かった。彼女が「ご成長でございますね」と言ったのには、少し傷ついた。


 帳簿を三冊、最初から最後まで読み通すのに、今日は昼前までかかった。


 (数字に嘘はつかない)


 前世でも教わった言葉だ。数字は言い訳をしない。記録された数字は、過去に何が起きたかを正直に語る。この帳簿も同じだった。


 三冊を読み終えたとき、頭の中に一本の線が引けていた。


 この領地で何が詰まっているか。どこを変えれば、何が動き始めるか。


 最初の手を打つべき場所は、見えていた。



 夕刻。カインが執務室に戻ってきたところを、わたくしは廊下で待ち構えた。


「少しよろしいでしょうか」


 カインは足を止めた。靴が石畳を踏む音が静まる。


「……今か」


「お時間をいただけるなら、今が都合よいのですが」


 短い沈黙の後、カインは執務室の扉を開けた。無言で中へ入るのは「来い」の意味だと、二日でわかってきた。



 机の前に立ち、わたくしは整理したことを話し始めた。


 紙に書いてきた。数字と、それが示す流れ。余計な装飾は省いた。


「まず、食料備蓄についてです。今年の収穫量の不足分は、帳簿上で約一割三分。本来必要な冬の備蓄に対して、二割近く足りない計算になります」


 カインは黙って聞いている。


「この時期、他領からの仕入れは輸送費が上がります。道が凍る前に動かなければ、真冬の調達は難しくなる。ですので、今から冬の終わりまでの備蓄計画を立てることを提案したく思います」


「具体的には」


 一言だった。しかし、話を聞いている証拠でもある。


「二点です。一つ目は、近隣の農家から余剰の穀物や根菜を、今すぐまとめて買い取ること。相場より少し高い値段で買い取れば、農家も喜びます。彼らは今年の不作で懐が痛んでいる。少しでも現金が入れば、来年の種の手当てにもなります」


 カインは眉を動かした。わずかに、だが確かに。


「もう一つは、保存食の計画です。塩漬けや干し物に向いた素材が、今ちょうど市場に出ています。城の調理場の方々に協力していただければ、一ヶ月で相当量を仕込めるはずです」


 (上手く伝わっているかな)


 カインは腕を組んで、しばらく無言だった。


 フリッツがいつの間にか扉のそばに立っていた。城代の老人は、静かにこちらを見ている。表情は読めない。


「費用は」


「買い取りと保存加工の費用を合わせて、帳簿上の今月の雑費枠に収まります。追加の予算は不要です」


 カインの目が、わずかに細くなった。


 わたくしは自分の手書きの数字を、もう一度だけ目で追った。三度確認した。提出前には必ず見直す。身に染みついた癖だ。計算は間違っていないはずだった。



 長い沈黙が落ちた。


 執務室の空気が、静かに張っているような感覚がある。


 カインはゆっくりと視線を紙から外した。窓の外を見る。針葉樹の先に、夕暮れの色が滲み始めていた。


「……やってみろ」


 それだけだった。


 たった四文字。でも、わたくしには十分だった。


 (許可が出た。動ける)


 承認の言葉は、短いほど重い。「やってみろ」の四文字に、信任の重さが詰まっている。


「ありがとうございます」


 わたくしは頭を下げた。


 カインは椅子から立ち上がり、窓の方へ歩いた。背中がこちらを向いている。しばらくして、低い声が聞こえた。


「……悪くない」


 それだけだった。窓の外を見たまま、振り向きもしない。


 わたくしは紙を畳んで、部屋を出ようとした。


 扉に手をかけたとき、背後で足音がした。振り返ると、カインが扉の方に向かって歩いてきていた。巡回に出るつもりなのだろう。


 わたくしは扉を開けて、道を空けた。


 カインは扉の前まで来て、一瞬だけ足を止めた。


 ほんの半歩分の距離だった。視線が一度だけこちらに落ちて、すぐに廊下の先へ向いた。何も言わずに、そのまま歩き出した。


 外套の裾が揺れて、廊下の薄暗がりに消えていく。


 わたくしは扉を押さえたまま、しばらくその場に立っていた。指先が、扉の冷たさを感じている。


 (今、止まった。確かに、一瞬だけ)


 心臓が一拍だけ跳ねた感覚が、指先にまで伝わっていた。



 部屋に向かう前に、わたくしは提案の内容を一枚の紙にまとめ直すことにした。口頭で話したことと手書きのメモだけでは、関わる人が増えたときに伝わりにくくなる。正式な計画書として残しておく必要がある。


 廊下を歩きながら、わたくしは明日からの段取りを頭の中で組み立て始めた。


 まず農家への聞き取り。余剰分を把握しなければ買い取り量が決まらない。フリッツに協力を頼む必要がある。調理場の責任者との打ち合わせも要る。保存に使う容器の在庫も——。


 歩きながら考えていたわたくしは、扉の影から出てきた人影にぶつかりそうになって、慌てて立ち止まった。


 使用人の一人だった。三十代くらいの女性で、廊下の掃除をしていたらしい。


 彼女はわたくしを見て、表情を硬くした。


 目に、警戒の色が見えた。


 仕方ない。当然だ。昨日今日来た令嬢が、急に帳簿を見て改善策を提案している。わたくしはまだ、この城のよそ者だ。傍から見れば、首を突っ込んでくる邪魔者でしかない。


「失礼しました。前を見ずに歩いていて、申し訳ありません」


 わたくしが頭を下げると、女性はわずかに目を丸くした。


 貴族に頭を下げられるとは思っていなかったのだろう。彼女はぎこちなく、しかし確かに会釈を返してくれた。


 信頼は結果で積み上げるしかない。何度も体で覚えたことだ。


 言葉を重ねても、最初は信じてもらえない。成果を見せるしかない。


 わたくしは会釈を返して、また歩き始めた。



 部屋に戻ると、ヨハンナが茶の支度をして待っていた。


 火鉢の前に椅子が二脚、並べてある。二人分のカップも。


「ご提案は、うまくいきましたか」


「許可が出ました」


「そうですか」


 ヨハンナは静かに微笑んだ。何も言わずに、茶を注いでくれた。


 わたくしはカップを両手で持って、湯気を吸い込んだ。


 仄かにハーブの香りがする。このお茶は昨日も飲んだ。辺境の薬草で作るものらしく、王都のものとは香りが少し違う。でも、嫌いじゃない。むしろ好きになりつつある。


「お嬢様」


「なんですか」


「楽しそうですわね」


 ヨハンナが、穏やかな声で言った。


 わたくしは少しの間、その言葉を口の中で転がした。


 (楽しい)


 そうだ。楽しかった。帳簿を読んでいるとき、改善点を見つけたとき、提案をまとめているとき——ずっと、楽しかった。


 前世では、同じように仕事に没頭していた。でも、あのときとは何かが違う。


 消耗する楽しさではない。


 満ちていく感覚、だった。


「……ええ」


 わたくしは、小さく頷いた。


「久しぶりに、やりがいのある仕事です」


 声に出したとき、自分でも驚くくらい、素直な言葉だと思った。本音だった。


 ヨハンナはカップを持ったまま、何も言わなかった。ただ、目元が少しだけ緩んだ。長年わたくしを見てきたその目が、「よかった」と言っていた。


 でも今は違う。


 やりがいが、ある。結果が出れば、誰かの役に立つ。この場所で、この仕事を、ちゃんとやり遂げたいと思っている。


 それを「楽しい」と素直に言えた自分が、少しだけ、うれしかった。


 ふと、カップを置きかけた手が止まった。


 さっき整理していた数字の中で、ひとつだけ腑に落ちなかったものがある。雑費の欄——金額の動きが、他の項目と合わない箇所があった。


 明日、もう一度あの帳簿を開いてみよう。今日は気のせいかもしれない。でも——数字が引っかかるときは、大抵、気のせいでは終わらないのだ。


 茶を飲み終えてから、わたくしは机に向かって計画書をまとめた。口頭で話した内容を整理し、数字と段取りを一枚の紙に清書する。夜の灯りの下で一時間ほどかけて仕上げ、翌朝フリッツに届けた。



お読みいただきありがとうございます。


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