第9話「辺境の現実」
第9話「辺境の現実」
グラフ城に到着した翌朝、わたくしは夜明け前に目が覚めた。
窓の外、空の端がほんのりと白み始めている。針葉樹の梢が、薄闇の中でひっそりと揺れていた。
(癖だ。初日は早く出る)
布団から抜け出し、着替えを済ませる。旅装ではなく、動きやすい濃紺のワンピースに、丈夫な編み上げ靴。今日は歩き回る日だと、昨夜のうちに決めていた。
城下の廊下は、この時間はまだ静かだった。
ヨハンナにはひと声かけておいた。「城を少し見て回りますわ」と言うと、彼女は眉一本動かさず「お供いたします」と答えた。五十二年の人生で、お嬢様の朝の抜け出しに慣れてでもいるのだろうか。
ベルンハルトとレムケは、昨日のうちにカインの指揮下の警備隊に組み込まれたとフリッツから聞いていた。ヴァルトシュタイン家の護衛としての任務は辺境伯領に着いた時点で終わり、あとは辺境の守りに加わるのが筋だ、と。二人とも異存はなかったらしい。
廊下を歩きながら、わたくしは昨日の光景を思い返していた。
カイン・ドラクロワ。辺境伯。昨日、一言「好きにしろ」と言って去っていった、あの人。
無愛想で、笑わなくて、言葉が少ない。でも——。
目が、正直だ。
こういう上司を知っている。口では「なんでもいい」と言いながら、目が全部語ってしまう人。あれに似ている。
何かを言いたいのに、言い方を知らない。そういう種類の寡黙さだとわたくしには思えた。
階段を降りて、城の裏手に向かうと、フリッツが中庭の端に立っていた。
六十がらみのその男は、わたくしの姿を認めると、僅かに表情を固くした。
「……エリナ様。どちらへ」
「城の中を少し見させていただけますか。フリッツ様にご案内をお願いできれば、と思いまして」
「この時間に、でございますか」
「早い方が好みですので」
フリッツは少しの間、わたくしを見ていた。
計っている。遊び半分の令嬢なのか、それとも本気なのか——その目がそう言っていた。
「……わかりました。ご案内いたします」
渋々、というより、観察するような沈黙のあとで、彼はそう言った。
最初に案内してもらったのは、食料備蓄倉庫だった。
城の北側、石壁に沿って建てられた、横長の低い建物。扉は重い木製で、鍵が二重にかかっていた。
フリッツが鍵を外し、扉を開く。
ひんやりした空気が流れ出てきた。薄暗い内部に、棚が等間隔に並んでいる。
わたくしは入り口で少しの間、目を慣らしてから中へ入った。
(……半分しかない)
棚の半分以上が、空いていた。三段の棚のうち上段が完全に空で、中段もまばらだ。これでは冬を越せない——一目で、そう分かる量だった。
背後でヨハンナが小さく息を飲んだのが聞こえた。扉の脇に立っていた警備の兵が、空の棚から目を逸らすように視線を落とした。
「今は何月になりますか」
「霜月の入り口でございます」
冬の始まりだ。そしてここの冬は長い。十月から三月まで。
冬が本格化するまで、あと数週間もない。そのあいだに備蓄を増やさなければ、長い冬を乗り越えられない。
「例年、冬前はこのくらいの量ですか」
「……例年より、少のうございます」
フリッツは短く答えた。声に、わずかな苦さが混じっていた。
「今年は夏の雨が多うございまして。農地の収穫量が一割ほど落ちました。それに加えて、購入しておりました他領の穀物の価格が上がり——」
「輸送の遅れも出ましたか」
わたくしが問うと、フリッツが初めて、少しだけ目を細めた。
「……ご存じでしたか」
「この時期に一割以上の減少があれば、補填を他領の仕入れに頼るしかない。でも雨で道が悪かったとすれば、輸送も遅延する。そう考えました」
フリッツは何も答えなかった。
ただ、その沈黙の質が、最初と少し変わっていた気がした。
続いて、城下町へ出た。
グラフの町の朝は、静かに始まる。
大きな城門を抜けると、石畳の道が緩やかに下っていく。道の両側に、木造の建物が続いた。商店、宿屋、鍛冶屋——それぞれの看板が、くすんだ色で吊り下がっている。
(活気がない)
それが、正直な第一印象だった。
人は歩いている。荷を運ぶ男たちも、市場へ向かう女たちもいる。ただ、どこか目線が低い。足取りに張りがない。かつて見た活気ある商店街と比べるのは酷だが、それを差し引いてもなお、人々の表情に重たさを感じた。
「職人の工房は、どのあたりに集まっていますか」
「街の東側に鍛冶師の工房が三軒、木工師が二軒ございます」
「ご案内いただけますか」
鍛冶師の工房の前を通ると、中から金属を打つ音が聞こえた。扉の隙間から覗くと、四十がらみの男が仕事をしていた。助手もいるが、顔が疲れている。
明らかに、一人でこなす分量ではない。人手が足りていないのだ。
「弟子は取っておられないのですか」
わたくしが問うと、フリッツが小さく息をついた。
「若い者が、辺境に残りません。少し腕が上がると、王都か近くの大きな町へ出ていきます。出稼ぎに、というのが建前ですが、戻らない者の方が多い」
若い人が出ていく。すると残った人に負担がかかる。負担が増えれば、さらに出ていく。そういう流れなのだろう。
鍛冶師の男が、ふとわたくしに気づいて手を止めた。目が、ひどく疲れていた。長い時間、睡眠を削って働いている目だ。前世でも、似た目をした同僚が何人もいた。
わたくしは小さく会釈をした。男は訝しそうにしながらも、会釈を返してくれた。
市場の広場に出ると、週二回の定期市の準備が始まっていた。
野菜の露店、干し魚を並べた商人、日用品を扱う行商人。品物は揃っているが、客の足が鈍い。
(値段を確認しよう)
わたくしは露店を回り、ひとつひとつの値を目に入れていった。根菜の類はそれほど高くない。が、穀物は——。
「これは、昨年より価格が上がっていますか」
麦を売っている年配の農夫に、わたくしは声をかけた。
男は最初、貴族の娘が話しかけてきたことに戸惑っていた。しかしわたくしが真剣な顔でいるのを見て、口を開いた。
「……ええ、まあ。今年は雨が多くて、うちの畑も思うように取れんで。値段を上げんと、正直、つらいんです」
「他の農家の皆さんも同じですか」
「そりゃあ。みんな苦しいです。うちはまだましな方で」
ヨハンナがわたくしの袖をそっと引いた。「お嬢様、そろそろ——」という合図だと分かったが、わたくしはもう少しだけ話を続けた。
「来年の春に向けて、種の手当ては」
「……なかなか。値段が高くて」
種まで手が回らないとなると、来年の収穫にも響く。根の深い問題だった。
わたくしは農夫に礼を言って、その場を離れた。
フリッツの案内で城に戻りながら、わたくしは今日見てきたものを頭の中で整理していた。
食料の備蓄不足。人手の不足。若者の流出。
一つひとつは単独の問題ではない。全部つながっている。人が出ていくから産業が育たない。産業が育たないから収入が増えない。収入が増えないから食料を十分に備蓄できない——。
(悪循環だ。でも、悪循環は逆に回すこともできる)
根本を一つ変えると、その他が連鎖して良い方向へ動き始める——そういう起点を探すことだ。
「フリッツ様」
「はい」
「一つお願いがあるのですが」
フリッツがわたくしを振り返った。
「帳簿を見せていただけますか。領地の収支の記録が、どこかにあるかと思うのですが」
沈黙が落ちた。重い沈黙だった。
フリッツの足が止まった。わたくしを振り返った目に、訝しさと戸惑いが走った。それから——背後のヨハンナへ、ちらりと視線が流れた。ヨハンナは何も言わず、静かに頷いた。
フリッツの喉が、小さく動いた。品定めをしている。この令嬢が本気なのか、もう一度——最後にもう一度、確かめる目だった。
「……領地の帳簿は、執務棟にございます」
「今日、見させていただいてもよいでしょうか」
また、沈黙。フリッツの指先が、腰の鍵束に触れた。迷いが、その指先に表れていた。
「……辺境伯様のご許可がなければ、できかねます」
ふと気づくと、中庭を横切るカインの背中が見えた。視察から戻ったのだろうか。こちらに視線を向ける素振りはないが、足を止めずに通り過ぎるその背中に、なぜか見守られている気配があった。
「では辺境伯様に、わたくしから直接お伺いしてもよいですか」
フリッツの目が、わずかに揺れた。驚いているようだった。
令嬢が帳簿を見たいと言い出すことも、辺境伯に直談判すると言い出すことも、彼の想定の外だったのだろう。
「……話してみましょう。ただし、辺境伯様の決定に従っていただきます」
「もちろんですわ」
その日の午後。
執務棟の廊下を文官のひとりが小走りで通り過ぎた直後、「どうぞ」という声が響いた。
カインの声だった。
扉を開けると、執務室の机の前にカインが立っていた。外套を脱いで、シャツ一枚の姿。昨日より、少しだけ近くに感じた。
「帳簿が見たいそうだな」
「はい。可能でしたら」
「なぜ」
カインは一言で聞いた。余計な前置きも、遠回しな表現もない。わたくしはこういう聞き方が嫌いじゃない。
「今日、城下町と倉庫を見て回りました。問題が連鎖しているように思いました。根の部分を確かめたかったので」
「根の部分」
「問題の出所です。帳簿を見れば、どこで何が詰まっているかが、もう少しはっきりすると思いますので」
カインはわたくしをしばらく見ていた。
その視線は品定めではない。何かを確かめるような、静かな目だった。
「……フリッツ、持ってこい」
扉のそばに控えていたフリッツが、短く頷いて部屋を出た。
しばらくして、帳簿が運ばれてきた。
分厚い台帳が三冊、それに加えて薄い冊子がいくつか。フリッツが机の端に、少し迷いながら積み上げた。
「……古いものから順に並べてはおりますが、整理は行き届いておりません」
「構いません。ありがとうございます」
わたくしは椅子に腰を下ろして、最初の帳簿を開いた。
ページをめくると、手書きの数字が並んでいた。
筆跡も分類もばらばらで、担当者が何度か替わるうちに誰も全体像を把握しなくなった帳簿だ。
(これは……混乱している)
だが——数字そのものは生きている。ちゃんとある。
わたくしはページを繰りながら、少しずつ流れを追い始めた。ある年から輸送費が急に増えている。別の年から農業の収入が段階的に下がり始めている。小さな変化が、静かに積み重なっている。
頭の中で、線がつながっていく感覚があった。
これとこれが連動している。ここが詰まれば、ここも止まる。
気づいたとき、わたくしの手は自然に止まっていた。
目が、ページを離れなくなっていた。
「——これは」
思わず声が出た。
改善できる。
ひとつやふたつではなく、複数の、しかも根本から。
「改善点が山ほどありますわ」
わたくしは帳簿を膝の上に置いたまま、まだ次のページを繰り続けた。




