第116話「乙女ゲームのない世界で」
第116話「乙女ゲームのない世界で」
雨の日だった。
春の雨は、夏のそれとは違う。静かで、細くて、柔らかい。城の石畳が濡れて、大河の水音が少しだけ高くなる。窓に雨粒が当たっては流れて、また当たる。
わたくしは窓の前に座って、雨を見ていた。
カイン様は今日、南の砦に視察に行っていた。
ヨハンナはお茶の支度をしてから、洗い物があると言って出ていった。城の中は静かだ。こういう時間がある。雨の日の、誰もいない午後。
わたくしは、ぼんやりと考えていた。
前世の記憶が蘇ったとき——
(わたしは最初、確信していた。この世界は乙女ゲームか、転生小説の世界だって)
悪役令嬢。婚約破棄。王子。聖女。テンプレートのような展開が揃っていた。前世の記憶があるわたしが、その物語に転生した。だから当然、物語のルール通りに動くはずだと思っていた。
(婚約破棄イベントをクリアして。フラグを回避して。攻略対象の誰かがルートを変えて。ハッピーエンドになる)
そういう話だと思っていた。
でも——違った。
この世界は物語ではなかった。
ヨハンナは、NPCではなかった。
あの人はマルグリット様にお約束をした人だ。三十年以上、ただひとつの約束を胸に持ち続けた人だ。わたくしが泣いた夜、廊下の外から「泣いてもよろしいのですよ」と声をかけてくれた人だ。台本のない、血の通った言葉で。
ルドルフは、攻略対象でも脇役でもなかった。
「あんたと出会えてよかった。あたしの一番の取引だ」——そう言ったとき、ルドルフの目に宿っていたものは、物語の演出ではなかった。商人として、一人の人間として、そう思った、本当の感情だった。帳簿一冊にわたくしたちの取引を全部書き留めて、それを結婚祝いに持ってきた人だ。
ルーカスは、街の少年の役割を担ったキャラクターではなかった。
あの子は、字を覚えた。数字を覚えた。文官見習いになった。「辺境のためになる仕事をする」と言って、本当にそれに向かって動いている。そういう人間だ。
ルーカスも。マルタも。ゲルツも。ガルスも。ザウアー翁も。フランツも。フリッツも。
全員に、ちゃんと人生がある。
全員に、わたくしとは関係なく生きてきた年月がある。悲しみがある。誇りがある。明日がある。
カイン様は——
(カイン様は、攻略対象ではない。わたくしの夫だ)
攻略対象だったなら、もっと単純だったかもしれない。好感度を上げれば振り向いてくれる。正しいイベントを踏めば告白される。そういう人ではなかった。
この人は、ずっと言葉が少なかった。必要なことは言うが、飾らない。「どうした」「……そうか」「……うるさい」——それだけで全部が伝わってくる。
不器用で、頑固で、でも一度決めたことは最後まで貫く人だ。
「お前がいない日は考えられない」。あの言葉は短かった。でも、短い言葉の中に全部があった。
(わたしは、物語のヒロインになろうとしていたわけじゃない)
いつからか、そう思う。
辺境に来た最初の冬に、生き延びることを考えた。帳簿を抱えて城下に降りたとき、売り先のことを考えた。冬越しの食料が足りないと知ったとき、何としてでも解決しようと思った。燻製サーモンを思いついたとき、本当に売れるかを考えた。
それは——物語を追いかけていたのではなく、この世界で生きようとしていた、ということだ。
前世では——仕事の先に、誰の顔も浮かばなかった。
誰かのためにやっているつもりで、その「誰か」が見えなかった。
今は違う。
帳簿を開くとき、ルドルフの顔が浮かぶ。村の麦を数えるとき、ザウアー翁の麦畑が目に見える。収支を整えるとき、その向こうにルーカスとマルタの声が聞こえる。温泉の計画を立てるとき、ゲルツの村の冬の顔が頭にある。
この世界で生きることが、誰かとつながることになっている。
(物語の中のテンプレートに沿って生きたのではない)
わたくしは、自分で選んで、ここに来た。
辺境への出発を選んだのは、わたくしだ。父が「行ってこい」と言ったのは最後の一押しで、決めたのはわたくしだった。
城下に帳簿を持って降りたのも、ガルスに船を頼んだのも、ルドルフに直談判したのも、ゲルツを温泉の管理人にしようと提案したのも。一つ一つ、わたくしが選んだことだ。
転生したから、前世の記憶があるから——そういう理由だけで動いていたのではない。
前世の知識は道具だった。でも、使い方を選んだのはわたくし自身だ。
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前世の記憶は、わたくしの一部だ。帳簿を読む力も、交渉の勘も、冬を生き延びる粘り強さも、あの人生があったから持っている。
でも、それを使って、どう生きるかを選んだのは、この世界のわたくしだ。
物語の主人公であることと、自分の人生を生きることは、違う。
物語ならば、誰かが筋書きを決めてくれる。でも実際には、誰も筋書きを持っていない。ルドルフも、ガルスも、ゲルツも、ルーカスも、カイン様も——誰も、次に何が起きるかを知らなかった。だから一緒に悩んで、一緒に試みて、一緒に驚いた。それが、生きているということだった。
雨が少し強くなった。
大河の音が高まる。窓ガラスに、細かい水の粒が当たっては流れていく。春の雨の音は、不思議と落ち着く音だ。
辺境に来た最初の冬、雨の日は城の中に引きこもるしかなかった。帳簿を見ながら、ただ数字と向き合っていた。今日のように、窓の外を見ながら考える余裕がなかった。
今は、雨を見ながら考えることができる。それだけのものが、できた。
(乙女ゲームのない世界で、わたしは生きた)
物語ならば、もっと簡単に答えが出たかもしれない。テンプレートの通りに進めば、ハッピーエンドが約束されている。
でも実際には、何度も迷った。手紙が書けなかった夜があった。城壁から見た景色がただ遠かった夜があった。泣きたくて、泣けなかった夜があった。
それが——本当に生きているということだったのだと、今は思う。
血が通っていて、迷って、泣いて、笑って。正解がわからないまま選んで、それでも前に進んだ。
その積み重ねが、今日のわたくしだ。
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もしあの世界が本当に乙女ゲームだったとしても、わたくしはもう、それを確かめようとは思わない。
確かめる必要がなくなった。
ここが本物だから。ヨハンナの手が本物だから。ルーカスの字が本物だから。カイン様の「……そうか」が本物だから。冬の城壁の風も、大河の音も、帳簿の数字も、全部本物だから。
(この世界は物語ではなかった。ここには血の通った人がいて、泣いて笑って、一緒に冬を越えてくれた)
それで十分だ。それ以外に、何も必要ない。
扉の向こうでヨハンナの足音がした。
「奥様。お茶のおかわりを持ってきました」
「ありがとうございます、ヨハンナ」
ヨハンナが入ってきて、お茶を注ぎ直してくれた。
ヨハンナは今日も、ヨハンナだ。わたくしの母のような人だ。マルグリット様の記憶を持ち、三十年以上の約束を果たした、この人だけの物語を持っている人だ。
「雨を見ていらっしゃいましたか」
「ええ。少し——考えごとをしていました」
「良いお顔でした」
「え」
「外から廊下を通ったときに見えました。良いお顔でしたよ」
わたくしは笑った。
ヨハンナが穏やかに笑い返した。
お茶の湯気が、窓辺に立ち上った。
雨はまだ続いていた。でも、空の端が少しだけ明るくなっていた。
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早朝、目が覚めた。
空がまだ白みかけている時間だった。カイン様の呼吸が、隣で静かに聞こえている。起こさないようにそっと起き上がって、羽織をかけた。
城の廊下を歩いた。
夜明け前の石の廊下は冷たい。松明はまだついていて、橙色の灯りが壁に揺れている。こういう時間に、わたくしはたいてい温室に行く。誰もいない朝の静けさが、好きだった。
辺境に来た最初の冬から、そうだった。夜が明ける前の時間に目が覚めて、一人で城の廊下を歩いた。温室に行って、土の匂いを嗅いで、少しだけ落ち着いた。あの頃は、それが一日を始める儀式だった。今でも変わらない。
温室の扉を押した。
ガラス張りの天井から、夜明けの薄明かりが差し込んでいた。植物の息吹が、ふわりと顔を包んだ。土と緑の、しんとした香り。春の朝の温室は、どこよりも落ち着く場所だった。
窓の前に、鉢植えがある。
立ち止まった。
八輪の花が、全て咲いていた。
一つ目の花は——花びらの端が、ほんのわずか茶色くなっていた。
辺境に来て最初の春の嵐の後、カイン様が泥の中から見つけてくれた芽から育てた花だ。もう随分と経つ。踏まれる場所にあった小さな芽を、鉢に移して窓辺に置いてくれた。泥だらけで、どう見ても生き残れそうには見えなかった。でも、水をやり続けたら、白い花が咲いた。
あれから何度冬を越えただろう。一輪、また一輪と花をつけて、今は八輪になった。
一輪目の花びらは茶色くなっている。時間が経った。でも、まだ落ちていない。
二輪目から八輪目が、それぞれの向きに開いている。陽の方向に傾いているものがある。少し下を向いているものがある。形も大きさも、少しずつ違う。それぞれが、それぞれのかたちで咲いていた。
(全部、咲いたのね)
最初の芽が出たとき、こんなに花がつくとは思っていなかった。泥をつけた、細くて頼りない芽だった。水をやりながら、本当に育つのかと思った。
でも育った。八輪になった。
辺境に来た頃のわたくしを、誰かが見ていたら——この花の最初の芽のように見えたかもしれない。婚約破棄されて、荷物を持って遠い辺境へ向かう娘。生き残れるかどうか、誰にもわからなかった。
でも育った。ここまで来た。
扉の音がした。
振り向くと、カイン様が入ってきた。
「起きていたのか」
「目が覚めたのです。カイン様こそ」
「……お前がいなかった」
それだけ言って、カイン様は温室の中に入ってきた。
正装でもない、素の姿のカイン様だ。上着を羽織っているが、帯剣していない。夜明け前に温室に来るような人ではないはずなのに、来てくれた。
鉢植えを見た。
「全部、咲いたな」
「はい」
カイン様が鉢の前に来て、少し屈んで花を見た。一輪ずつ確かめるように、八輪の花を見ていた。大きな手で、小さな花を丁寧に見ていた。
「一輪目は、端が茶色い」
「最初の芽です。嵐の後、カイン様が泥の中から拾い上げてくれたものです」
「知っている」
カイン様が立ち上がった。
わたくしは鉢の前にしゃがんで、一輪目の花をもう一度見た。
「最初のあの泥の中の芽が——こんなに」
口にしてから、その言葉がどこかへ向かっているような気がした。鉢植えだけではなく、もっと遠いものに向かって言っているような。
しばらくの沈黙があった。
カイン様が花を見つめたまま、言った。
「お前に、似ている」
「え?」
思わず顔を上げた。
カイン様がこちらを見ていた。夜明けの薄明かりの中で、その目が静かに、でも確かな言葉を持っていた。
「泥の中にいても、折れなかった。——そういうところが」
わたくしは、しばらく何も言えなかった。
カイン様が「お前に似ている」と言った。鉢植えに。泥の中にいても折れなかった、と言った。
折れそうになったことは、何度もある。
最初の冬、帳簿の数字が合わなかった夜。ルドルフのところに売り込みに行っても空振りが続いた頃。手紙が書けなかった夜。城壁から辺境を眺めていて、ただ遠いと感じた夜。
(それでも、折れなかった、とこの人は言う)
「——折れそうになったことは、あります」
わたくしは正直に言った。
「知っている」
カイン様が、短く答えた。
「それでも、折れなかった。——俺は、ずっと見ていた」
ずっと、見ていた。
辺境に来た最初の冬から、今日まで。カイン様はずっと見ていた。言葉にするのが遅い人だ。でも、見ている人だ。最初の冬から、ずっとそういう人だということを知っていた。
目の奥が、じわりと熱くなった。
温室の薄明かりの中で、涙が来そうになった。泣くまいとして、息を整えたら、それでもこぼれなかった。朝の光の中で泣いてしまうのは、少し恥ずかしかった。
「……ありがとうございます」
カイン様が鉢の横に立っていた。
何も言わなかった。でも、手が伸びてきた。わたくしの髪を、ほんのわずかだけ、指でそっとなぞった。
それだけだった。でも、それだけで十分だった。
天井のガラスに、朝の光が当たり始めた。
薄い金色の光が、温室の中に差し込んで、八輪の花を照らした。白い花びらが、光を受けてほんのわずか輝いた。一輪目の茶色い端も、二輪目の真っ白な花びらも、全部同じ光の中にあった。
鈴蘭が、温室の端で静かに揺れていた。
リーゼロッテ様の花だ。結婚式に飾った花と同じ花が、温室でまだ育ち続けている。白い小さな釣り鐘のような花が、朝の光の中でかすかに揺れた。
カイン様の母上が育てた花が、今もここにある。わたくしが来る前から、ここにあった。辺境伯城の温室で、誰かが水をやり続けた花だ。これからも、ここで育ち続けるだろう。
一輪目の花びらの端は、茶色かった。でも落ちていなかった。
最初の冬から、まだここにある。時間が経っても、ちゃんと、落ちずにまだここにある。
「綺麗だな」
カイン様が静かに言った。
「ええ」
わたくしは頷いた。「綺麗だ」は八輪の花に向かっていたのか、それとも別の何かに向かっていたのか、わからなかった。でも、どちらでもよかった。
城下から、人の声が届いた。
誰かが井戸の水を汲んでいる音。荷車の音。子どもが走っている声。市が始まる前の物売りの声。辺境の朝が、いつも通りに動き始めていた。
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わたくしたちはしばらく、温室の中に並んで立っていた。
八輪の花と、朝の光と、遠くの城下の音。温室の土の匂いと、リーゼロッテ様の鈴蘭の香りと。それだけがある、静かな時間だった。
こういう時間が好きだ。特別なことは何もない。ただ並んで立っているだけの朝。でも、この朝が続いていくと思うと、それだけで十分だった。
辺境に来た最初の冬、こういう朝を想像したことがなかった。温室に一人で来て、誰かが後から来てくれて、並んで花を見る朝。想像もしなかった。
でも今は、毎朝がそういう朝になっている。
カイン様がわたくしを見た。
「……泣きそうな顔をしている」
「そうですか」
「……どうした」
わたくしは少し考えてから、正直に答えた。
「いいえ——ただ、ここが好きだなと思って」
カイン様が少し間を置いた。
「……そうか」
それだけだった。でも、口元がほんのわずかほどけていた。
カイン様が「そろそろ朝の支度をするか」と言った。
「ええ」
わたくしは一輪目の花びらにもう一度だけ目をやって、それから温室の扉に向かった。
扉を出るとき、振り返った。
八輪の花が、朝日の中で揺れていた。
まだ落ちていない。
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