第117話「ちゃんと生きている」
第117話「ちゃんと生きている」
辺境の春の朝は、明るい。
夏のような強さではなく、冬の後の安堵のような光だ。窓の外に、柔らかい日差しが広がっている。大河が光を受けて、銀色に揺れている。畑の緑が、朝の風にゆっくりとそよいでいる。
朝のお茶の時間だった。
カイン様が白湯を飲んでいる。わたくしが紅茶を飲んでいる。テーブルの上に、昨夜見ていた帳簿が閉じてある。いつもの、朝の光景だ。
この時間が好きだ。特別なことは何もない。ただカイン様が白湯を飲んで、わたくしが紅茶を飲んでいるだけの朝。でも、辺境に来た最初の冬には、こういう朝を想像したことがなかった。
窓の向こうに、辺境の畑が見えた。
青々とした春の緑が、朝の光を受けている。麦が伸びている。冬の間に整備した水路を流れる水が、畑の端まで届いている。ザウアー翁が「今年は良い育ちだ」と言っていた。
大河の光が見えた。あの川は、冬も夏も止まらない。辺境に来た最初の冬から、ずっと流れていた。
城下に人の声がした。
井戸端の会話。荷車の音。子どもの笑い声。遠くで誰かが呼んでいる声。ルーカスが走っているような足音も聞こえた気がした。朝の辺境が、いつも通りに動いている。
わたくしは紅茶を一口飲んだ。
温かい。
カイン様が白湯を飲みながら、書類を見ている。昨夜の残りの書類らしい。時々ページをめくる音がする。それ以外に音はない。朝の城は、こういうものだ。静かで、少しだけ冷たくて、でも温かい。
前世で——わたしは、二十六歳で死んだ。
(過労で。机の上に、タスクリストを残したまま)
あの夜、終わらなかった仕事の続きをしていた。明日やるべきことを書き付けて、そのまま眠って、目が覚めなかった。隣には誰もいなかった。最後に声を聞いたのが誰だったか、もう覚えていない。
あの人生は、短くて、辛くて——でも、無駄ではなかった。
帳簿を読む力。交渉の粘り強さ。どんな冬でも、次の手を考える癖。全部、あの人生が渡してくれたものだ。
そして——この人の隣にいられたのは。
(あの経験があったから、来られた。ここに)
あの人生が全部、今日のこの朝につながっている。
前世のことを、今さら後悔する気持ちはない。短かったが、あの生き方があったから、今のわたくしがある。誰かに言っても伝わらないかもしれないが、それでいい。わたくしだけが知っていれば、それで十分だ。
そしてこの世界でも——わたくしは、ちゃんと生きてきた。
カイン様が白湯を置いた。
わたくしを見た。
「……どうした」
また、気づかれた。
この人はいつも、わたくしが何かを考えているとき、気づく。遠くを見ているとき、気づく。笑いながら何かを堪えているときも、気づく。目で問いかけてきて、でも無理に話させない。そういう人だ。
「いいえ」
わたくしは正直に答えた。
「——ただ、幸せだなと思って」
カイン様が、少し間を置いた。
「……そうか」
口元が、ほんのわずかほどけた。
笑った、とは言えない。でも、笑っていないとも言えない。カイン様の顔が、そういう表情になった。それだけで十分だった。
朝のお茶を飲み終えて、わたくしは立ち上がった。
「温室に行ってきます」
「……ああ」
城の廊下を歩いた。
朝の石畳は、まだほんのわずか冷たい。でも、日差しが窓から差し込んでいて、歩くうちに温度が変わっていく。廊下の角を曲がると、温室へ続く短い渡り廊下に出る。
ガラス越しに、緑が見えた。
温室の扉を開けた。
緑の香りが来た。土の匂いと、かすかな花の香りが混じっている。今日も、春の朝の温室だ。リーゼロッテ様が育て始めた鈴蘭が、白い小さな花をつけている。ゲルツがお祝いに贈ってくれたルーン石を削った飾りが、窓枠の端に置かれている。
鉢植えが、窓の前にあった。
八輪の花が、朝日の中で揺れていた。
一輪目の花びらの端は、まだ茶色かった。でも、落ちていなかった。
今日も、まだここにある。
辺境に来て最初の春の嵐の後、カイン様が拾ってきた花だ。城壁のそばの泥の中に埋もれていた。泥だらけで、どう見ても生き残れそうには見えなかった。でも土に植えて、水をやり続けた。一輪咲いて、二輪になって、今は八輪になった。
わたくしは鉢の前に膝をついた。
一輪目の花に、そっと指先で触れた。
乾いた花びらの感触。でも、茎はまだしっかりしている。土は湿っている。根はまだ、ここに張っている。
(前世のわたしへ)
あなたが頑張ったおかげで、わたしはここにいる。あの二十六年が、全部この場所に繋がっていた。あなたが残したタスクリストの代わりに、今わたしの手には帳簿がある。一人で仕事をしていた夜の代わりに、今は隣にカイン様がいる。
もう休んでいいよ。
あなたはよく頑張った。
窓の外に、春の辺境が広がっていた。
畑の緑。大河の光。城下の声。空の高さ。前世では見なかった景色だ。でも、今は毎朝見ている。見慣れた景色になった。それがどれほど大切なことか、最初の冬には想像できなかった。
あの頃は、この土地が「わたくしの場所」になるとは思っていなかった。寒くて、遠くて、誰も笑わない日だった。馬車から降りて、風が吹いて、お世辞にも暖かいとは言えない光景だった。
でも今は——ここが家だ。
ここの冬の寒さも、夏の日差しも、大河の音も、城下の人々の声も、全部わたくしのものだ。
腰の、ルーン石が、かすかに温かく脈打った。
この石は、辺境に来た日からずっとここにある。カイン様が最初に渡してくれたものだ。「辺境の石だ」と言って、ただ渡してくれた。冬の夜も、夏の昼も、ずっとここにあった。温かい。
鈴蘭が、温室の端で静かに揺れていた。
白い小さな花が、朝の光の中で、風もないのにわずかに揺れた。
わたくしは八輪の花を見た。
一輪目の茶色い端から、八輪目の白い花びらまで。泥の中の芽から始まって、ここまで来た。
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ここで生きた。
婚約破棄の大広間から、辺境への馬車から、最初の冬から。帳簿を抱えて城下に降りた日から、冬越しの食料を確保した日から、ルドルフと最初の取引をした日から。初めてカイン様と城壁に立った夜から。ヨハンナがわたくしに「泣いてもいいのですよ」と声をかけてくれた夜から。
アルフレートに「恨んでいない」と言えた日から。母への手紙を書いた日から。カイン様がリーゼロッテ様の前で泣いた夜から。鈴蘭を祭壇に飾った式の朝から。
一つ一つが、重なって、今日になった。
一輪目の花に触れたまま、わたくしはしばらく動かなかった。
温室の朝は静かだ。鈴蘭の香りがかすかにある。土の匂いがある。遠くから城下の音が届く。
前世では、こういう静けさの中にいたことが——あまりなかった気がする。いつも何かに追われていた。次のことを考えながら、今を通り過ぎていた。
今は、ここにいる。この温室に。この辺境に。カイン様のいる城に。ここが、わたくしの場所だ。
鈴蘭が揺れている。
風もないのに、かすかに揺れている。朝の光の中で、白い小さな釣り鐘が静かに揺れていた。
今度の人生は——
ちゃんと生きられた。
〈「婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜」完結〉
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