気持ちの置き場
ロアンは一瞬、カイラスが何を言ったのか分からなかった。だがカイラスは翡翠の色の瞳を逸らすことなく、ロアンを見ている。代わりに震える唇を開いたのは、専属侍女であるメアリだ。
「カ、カイラス様……今、なんと……」
「詳しい話はいずれ閣下から直接されると思うが、そこでショックを受けねえように先に聞いておこうかと思ってな」
ストーンリッジ家での生活を知っているメアリの顔が青くなる一方で、カイラスは呆然とするロアンの前で手を叩く。
「はっ!」
「息止まってたぞ。ちゃんと呼吸しろ」
「カイラス先生……ぼく、伯爵家に、戻されるんですか……? もう、公爵家にいちゃダメって……公爵様に言われたんですか? ぼく……ぼくが王子様に、王子様を、きずつけたから?」
ロアンの小さな手が、ギュッとズボンを握る。カイラスはその手に力が入っているのを目視した後、首を横に振った。
「違う。勘違いするな。閣下はそんなお人じゃない。いいか、ロアン。冷静になって考えるんだ。お前は、今どんな立場だ?」
「たちば……?」
「そうだ。しっかりと考えて答えるんだ。ロアン。お前は『グラディアス公爵家』の人間か?」
責めるような口調ではない、静かな問いに、ロアンはすぐさま首を横に振る。
「そうだ。違うな。じゃあお前はどこの誰か、言ってみろ」
「ぼくは……ロアン・ノア・ストーンリッジ。ストーンリッジ伯爵家の、次男です」
「そうだ。つまり、お前さんの所属は『伯爵家』にある。幾ら公爵家といえど、『養子』じゃない子供……グラディアス家の子供じゃないお前さんを、ずっと手元に置いておくわけにはいかない。半年に一度、実家に帰還させるのがルールなんだ」
「半年に、一回……」
ロアンはカイラスの説明を必死に理解しようと、働かない頭の中で言葉を反芻する。
メアリは幼いロアンがどんな反応をするか分からず、固唾をのんで見守っていた。
「お前さんにとってはショックかもしれねえが、そのルールを破ると今度は公爵様が悪く言われる。ロアン。お前、公爵様が『あいつは悪い奴だ』って言われていいと思うか?」
「思わない! 公爵様はいい人だもん!」
アルノアに救われたロアンは間髪入れずに否定する。現に『父親』として『立場ある者』としての姿を見せてくれたのは、実父ではなくアルノアだ。そんな人を悪く言われて平気なわけがない。むしろ『何故そんなことを言われなくてはいけないのか』と声を上げたい気分だった。
「そうだな。だから、公爵様を悪者にしたくなけりゃ、お前は一度伯爵家に帰るしかない。それがどんなに嫌なことであってもだ。そしてこれは決められたことだから守るんであって、決して公爵家がお前さんを『見捨てる』と判断したわけじゃない。分かるか?」
「……はい。わかり、ます」
ルールを守るのは大切なことだ。この数ヶ月、何度もカイラスに教えてもらった。
挨拶をする時の作法。テーブルマナー。言葉遣い。歩き方。すべてにルールがあり、意味がある。
実家では誰も教えてくれなかったことを、カイラスはロアンが納得するまで向き合って教えてくれた。そんなカイラスが今更自分を傷つけるはずがないと、汗ばんでいた手から力を抜いていく。
「……カイラス先生も、ついてきてくれる……?」
「ああ。俺はお前の『教育係』だからな。だがメアリはダメだ」
「何でですか?!」
無意識に俯いていたロアンと、控えていたメアリの声が綺麗に重なる。だがカイラスは「当然のことだ」とメアリにも視線を向けた。
「いいか、メアリ。今お前さんの所属は『グラディアス公爵家』だ。つまり『公爵家に仕える一員』とみなされる。雑な言い方をすると『公爵家の所有物』だ。他家のパーティーに参加するのであれば随伴は可能だが、今回は『ルールに則った帰省』になる。パーティーに参加するんじゃない。今のお前さんが伯爵家に踏み込めば、体外的には『グラディアス公爵家が他家への侵略を試みた』とみなされかねないんだ」
「そんな……! 理不尽です! 詭弁です! 私がいない間、誰がロアン様のお世話をするんですか!」
「んなもん、アッチが用意した侍女か侍従だろうよ。こっちから指定できるものでもない」
「そんな……」
メアリは震える唇を引き結び、ロアンを見つめる。ロアンはすっかり意気消沈しており、完全に俯いていた。
「……ぼく……帰りたくない……」
「そうだろうな。でもそれが出来るか出来ないか、俺は説明した。そうだろ?」
「…………」
ロアンはギュッと唇を真一文字に閉じ、込み上げてくる苦しさを、熱を、どうにか抑え込もうとする。そして小さく頷いたロアンに、カイラスも苦いものを飲み込む心地になる。
目の前でたった五歳の少年が『泣くまい』と我慢しているのだ。本当なら声を上げて泣いてもいい年頃なのに、ロアンはそれが出来ないでいる。それがどれほど痛ましいことか、常識人であるカイラスには分かる。
「まあ、今すぐに答えを出すものでもない。今は東部への出立が最優先事項だ。閣下から話が来るまで、ちゃんと考えとけ」
カイラスはそう言って立ち上がると、授業を始めたばかりだというのに「席を外す。その間自習しとけ」と言って部屋を出て行った。そうしてメアリとロアンだけになった部屋で、メアリはロアンに駆けつけ、そっと手の平を背に当てる。
「ロアン様、大丈夫ですか?」
「メアリ……どうしよう……ぼく、おうちにかえりたくない……かえりたくないよ……」
我慢していたのに、我慢しきれなかったのだろう。遂にボロボロと涙を零し始めたロアンに、メアリは痛まし気に顔をゆがめながらハンカチを当てる。
「大丈夫ですよ、ロアン様。カイラス様がいらっしゃいます。カイラス様はお優しい方です。決してロアン様をお一人にはしませんよ」
「う、うぐっ、ひっ、く、う、うぅ~……」
「ロアン様……」
ロアンはもう知っている。『家族』のぬくもりも、誰かに見守られるあたたかさも、褒められる喜びを。だからこそあの冷たい家に帰りたいとは思わなかった。
少し前までのロアンにとっては『当たり前』だった。
日差しが殆ど入らない狭い部屋。スカスカのクローゼット。掃除されていない部屋。
唯一心が穏やかでいられたのは、蜘蛛の巣が張り巡らされている屋根裏部屋だった。あそこから見えた景色だけが、ロアンの穴が開いたような空虚な心を満たしてくれた。
だがもう、それだけでは足りない。昇る朝日だけでは、沈む夕日だけでは、麦の揺れる音だけでは、虚しさを埋められないと知ってしまった。
「ロアン様……。大丈夫ですよ、ロアン様。メアリはいつだって、ロアン様を思っていますから……」
「うっ、ん、うぐっ、……っ、く、ひっ、ぐ、……ん、っ、ふ、うぅ」
嗚咽を漏らさないよう俯き、両腕で顔を覆うロアンにメアリは悲しくなり、そっと小さな体を抱きしめる。
そうしてドアの前で腕を組んでいたカイラスは取ってきた資料に目を通しながら、遣る瀬無さを滲ませたため息を吐き出した。
次回更新6/29予定です。




