見えない傷跡
ヴィエラの専属侍女であるフィリアが本邸に『ヴィエラは晩餐会を欠席する』旨を伝えに行く間、二人は並んでソファーに座っていた。
「ヴィー。もう大丈夫? ヤな気持ちじゃない?」
「ええ。大丈夫よ。元々お前には怒っていなかったもの」
「うにゅっ」
ヴィエラに頬をモチモチと揺らされ、ロアンは抵抗することなく受け入れる。カイラスは早々に「見てられるか」と部屋を出て行ったが、その実別邸の使用人たちにヴィエラが本邸に戻る気がないことを伝えていた。
主家の娘が別邸で過ごすのだ。急いで準備をする必要がある。例えそれが無駄骨になるとしてもだ。実際、アルノアが許可しない限り強制的に本邸に戻されることになる。だからこそ、束の間の時間を邪魔する気にはなれなかった。
そうとは知らず、ロアンは機嫌が戻った様子のヴィエラにほっとする。
「よかった。いつものヴィーだ」
「ええ。わたくしこそ、ありがとう。ロアンがハッキリ言ってくれたから、気分がよかったわ」
事実ヴィエラは失望していた。ヴィエラが何故腹を立てたのか察せず、乳母達の所業にだけ目を向けていたアレクシスに。そこを見抜いて指摘したロアンがいたからこそ、今穏やかに笑っていられる。
「お前がいなければ、きっと今ごろ訓練場であばれていたでしょうね」
「ええ? ヴィーが? うーん……うん? うまく思いうかばない……」
いつも優雅で気品あふれるヴィエラが木剣片手に暴れ回る姿を想像しようとしたが、まったく想像出来ずに首をひねる。そんなロアンにヴィエラはクスクスと笑った。
事実本当にその気でいたのだ。ロアンと会っていなければ、今頃視察での不満を訓練でぶつけていた。そうならなかったことに、ヴィエラ自身安堵している。
「でも、お前には悪いことをしたわね。あんな言葉、聞かせたくなどなかったのに……」
王子が何気なく発した“卑しい者”と言う言葉。ヴィエラはこの言葉を心底嫌っている。
階級の差があるのは致し方ないにしても、国王となるべき人間が国民を差別する言葉を使うべきではない。それにヴィエラ自身、才ある者は貴賤関係なく引き上げられるべきだという考えを持っている。
現にロアンがそうだ。『貴族』としてみれば異端なロアンも、虫に注視していたからこそ枯死虫を早期発見出来た。
必ずしも『常識』がすべての正解ではないのだと、ロアンを通して実感したのだ。
だからこそ聞かせたくなかった。見た目に惑わされ、血統のみで相手を判断しようとしたアレクシスに腹が立った。
その腹いせに『赤』を持ち出したのはヴィエラだが、やはり気分のいいものではなかった。
「ヴィー。ぼく、気にしてないよ」
「少しは気にしなさい。お前は、軽く見られてもいい人間ではないもの」
ヴィエラは風呂上りのあたたかな頬に手を伸ばす。そして軽く触れた後、まっすぐ自分を見つめるアップルグリーンの瞳と目を合わせた。だが次の瞬間、ロアンの口から告げられた言葉に、ヴィエラの赤い瞳が大きく見開かれる。
「大丈夫だよ。だって、ぼく、うちではずっと『いらない子』だったもん」
「なっ──」
なにを、とヴィエラが驚愕する背後では、護衛の為に残っていたリゼルも思わずその目をロアンへと向ける。だが隣に立っていたメアリだけは俯き、スカートを強く握りしめていた。
「だからね、大丈夫。ぼくの家族にくらべたら、王子様はずっとやさしかったよ」
「ロ、ロアン……」
ロアンは知っている。本当に相手を嫌っている人間が、どんな目を向けてくるか。
睨みつけるように見下ろしてくる父親。
扇子で口元を隠し、汚いものを見るような目を向けて来た母親。
ロアンのすることがすべて気に入らず、八つ当たりしてきた兄。
視界に入っただけで「早くどこかへ行って!」と叫んだ姉。
それに比べればただ「弁えろ」と口にしただけの王子は優しい。
だから本当に「大丈夫だ」と伝えたつもりだったが、ヴィエラはクシャリと悔しそうに顔をゆがめた。
「ちがう、違うわ……! わたくし、お前にそんな顔をさせたかったわけではないの……!」
「ヴィー?」
いつもより強く両頬を包まれ、ロアンは首を傾ける。その目には今にも泣きそうな顔をしているヴィエラしか映っておらず、何故そんな顔をするのかが分からなかった。
「どうしてそんな顔するの? ぼく、ほんとにだいじょうぶだよ?」
「なにを言っているのよ! そんな……つらそうな顔をしておきながら……!」
ヴィエラは必死に、それでいて震えるように息を吸い込む。それでも痛んだ胸も肺も落ち着いてはくれず、むしろ熱いものが喉元まで込み上げてきた。
何故なら、初めて見たからだ。いつもニコニコと楽しそうに笑うロアンが、眉尻を下げ、苦しそうな顔で無理矢理作り笑いを浮かべている姿を。
だがロアンに自覚はないらしい。困ったような顔でヴィエラを見つめ返す。そして小さく「ごめんね」と呟いた。
「ぼく、今、どんな顔してるか、わからないや」
「────」
ヴィエラはこの時初めて『言葉を失った』。
今までは何があっても言い返してきた。自分の意思を言葉にし、それを貫いてきた。
だが自分の言葉で大切な人が傷ついたのを目にしたのは、今回が初めてだった。
「ごめんなさい……ごめんなさい、ロアン。わたくしが軽率だったわ」
「ヴィー? どうしてあやまるの? ヴィーはなにもわるいことしてないよ」
「いいえ……ちがうのよ、ロアン。本当に……ごめんなさい」
ヴィエラはギュッと強くロアンを抱きしめる。自分の発言でロアンを傷つけてしまった。
『家族に愛されていなかった』と、自分の口で語らせてしまったのだ。
それがどれほど残酷か、分からないほどヴィエラはバカではない。
「ロアン。お前のことは、わたくしが守るわ。何があっても、誰が相手でも。だから、これからもわたくしのそばにいなさい」
抱きしめているのか、それとも縋りついているのか。ヴィエラにももはや分からない。
それでもロアンはヴィエラの背中にそっと手を当て、それからおずおずと、確認するかのように抱きしめ返してきた。
「うん……。ぼく、ヴィーといっしょにいる。これからもずっと、ぼくは、ヴィーのとなりにいる」
婚約者という肩書などない。強いて言えば『保護された子供』と『保護した家の子供』だ。
それでもヴィエラはロアンを手放すまいとしっかりと抱き着き、その目を強く閉じる。
そして次の瞬間には、「もう誰にもロアンを傷つけさせはしないわ」と、新たな決意を滲ませた強い瞳で暮れ始めた空を睨みつけた。
「わたくしとお前のジャマをする者は、誰一人ゆるしはしないわ。誰が相手でも、決して……」
ヴィエラの強すぎる意思は、この瞬間決定され、強く心に刻み込まれた。
次回更新6/13予定です。




