ヴィエラの『愛』
「ヴィーよ」
「え?」
「お前は今日から、わたくしのことを“ヴィー”と呼びなさい。敬語も使わなくていいわ」
「ヴィ、ヴィー……?」
「ええ。お前にだけ呼ばせる、わたくしの名前よ」
ヴィエラは困惑するロアンに向かい、小声で囁いた。
「去年まで家族にしか呼ばせていなかった名前よ。今はもう呼ばせていないけれど。だけど、お前には特別に『許す』わ」
「いいんですか? ぼくが、大事なお名前をよんでも」
“愛称”というのは、よほど近しいか親しい者同士でしか呼び合わないものだ。ロアンの母親も、可愛がっている兄姉には愛称で呼んでいる。愛称がなかったのはロアンだけだ。
別に憧れていたわけではない。ロアンにとって呼び名だとたいして気になるものではなかったから。
だがヴィエラだけは別だ。
ロアンにとってのヴィエラは、それだけ大切で、かけがえのない人だ。だから名前一つ呼ぶにも気持ちが籠る。
まばゆいほどに大切で、この世で一番好きな人だと、自覚しているのだから。
「お前は本当に心配性ね。先ほどからも言っているでしょう? わたくしをそう呼んでいいのは、お前だけよ」
ロアンはギュウ、と心臓が握られたような心地になる。けれど痛くても湧き上がる気持ちは『喜び』だ。
父親に殴られた時も、母親に蔑まされた時も、兄に蹴り飛ばされた時も、姉から突き放された時も、こんなに胸が苦しくなることはなかった。
それだけ今が『幸せ』なのだと、ロアンは改めて全身で感じる。
「ヴィー。ぼく、今ね、すごく、いっぱい、幸せだよ!」
「……そう。それならよかったわ」
ヴィエラにとっても“愛称”は特別だ。特に『ヴィー』など、四歳までの自分が家族から呼ばれていた幼名だ。
あの痩せ細った他国の男と遭遇しなければ、今もそう呼ばれていたかもしれない。だがヴィエラはあの日、この名前を『切り捨てた』。幼い自分のままではいけないと、守られてばかりではいけないのだと家族に「ちゃんと名前を呼んでくれ」と頼んだのだ。
ヴィエラにとって愛称は、自らの弱さと同じだった。だがそんな“弱い部分”を『預けてもいい』と思えたのだ。ロアンになら。
(だってロアンは、ずっとわたくしの隣にいるのだもの。グラディアスを継ぐ、このわたくしの)
本来であれば長子、もしくは男児が継ぐのが基本だが、女性が爵位を継げないわけではない。むしろ『赤持ち』と呼ばれる赤い髪か、赤い瞳を持つ子供が産まれれば性別問わずに継承権が一番になる。
故に黒髪と青い瞳を持つエルディオンよりも、ヴィエラの方が『次代の公爵』としての継承権が高かった。
そしてヴィエラ自身、公爵を継ぐのは自分が相応しいと考えている。
エルディオンは優しすぎるし、イリアスは司令部より現場向きだ。その点ヴィエラは二人よりも冷静に物事を見て対処出来ると自負している。
そんな自分に必要なのは、頼れる相棒でも、甘ったるく愛してくれる人でもない。
『ここが一番落ち着ける』と思える、安心出来る人だった。
「そろそろ日も落ちて来たわ。帰りましょうか」
「うん! いっしょに帰ろう、ヴィー!」
いつものように手を繋いでくるロアンの手は、柔らかくあたたかい。それでも以前より少し皮膚が硬く感じるのは、毎日休むことなく槍の訓練に励んでいるからだろう。
ヴィエラはロアンのそういう実直な部分も好ましく思っている。
「ねえ、ヴィー。またここに来てもいい?」
「いいわよ。でもその時はわたくしも誘いなさい。一人ではダメよ」
「うん! わかった! またいっしょに来ようね!」
ニコニコと、全身から喜びと嬉しさを溢れさせながら自分を見つめる姿にヴィエラも満たされる。
何もかもを『完璧にこなさなくては』と躍起になっていた去年の自分が見たら驚くほど、今のヴィエラは心が穏やかだった。
「ロアン」
「うん?」
「お前は、ずっとそのままでいてね」
何も不安などないかのように、ただヴィエラのそばで『嬉しい』『楽しい』と笑っていて欲しい。
そう願うヴィエラに、ロアンは丸い目を瞬かせた後に「うん!」ともう一度頷いた。
それを聞いていたメアリは感動で溢れる涙を必死にハンカチに吸わせ、リゼルは『お嬢様が今日も尊い』と素早く手帳に書き記した。
次回更新5/28予定です。




