侯爵夫人の恋バナ
今回までロアン不在です。
エレオノール・フロレア・マルグリット侯爵夫人の『恋バナ』は、彼女がまだ学生であった頃。ただの伯爵令嬢である『エレオノール・サラ・ローゼン伯爵令嬢』だった時代まで遡る。
当時、ローゼン伯爵家は領地経営がうまくいかず、困窮気味であった。
『それでも貴族であれば学園に通うものである』という暗黙のルールのようなものがあり、なんとか学費を捻出して娘を通わせていた。
だが家計に余裕がないことをエレオノールは理解しており、学院での生活を楽しむことが出来なかった。
そして悩みに悩んだ末、遂に貴族であることを隠し、趣味であった刺繍の腕を利用することに決めた。
つまり貴族令嬢らしからぬ、『お針子』としてこっそり働き始めたのだ。
そんな時、現侯爵であり、彼女の夫となる『ウィリアム・アルドリック・マルグリット侯爵令息』が彼女の刺繍の腕を知った。
「ヴィエラ様はご存知ないかもしれませんが、当時の学園には『学科問わず男性が競い合う催し』がございました。そこで男子生徒は、女子生徒から刺繍を施されたハンカチを貰うと、『女神の加護が貰えて勝利できる』『例え負けても怪我を負わずに済む』というジンクスがございましたの」
若干内容が変わっているとはいえ、今でも女性から何かを貰うのは『女神の加護』と称して行われている。
あくまでも『女神の加護の代わり』でしかないが、要するに『気持ちの問題』である。
好いた女性から応援されれば男性もやる気をだすもの。
ましてやその腕が相当なものともなれば、与えられる『加護』も確かなものに感じられる。
そういうことで彼女は侯爵令息に腕を買われ、ハンカチを頼まれたのだ。
「それで、侯爵夫人はハンカチを差し上げたのですか?」
「そう思うでしょう? ですが、当時彼には婚約者候補の方がいらっしゃいました。華やかな方で、私とは正反対でしたわ。フフ。あの頃の私は初心で世間知らずでしたのよ? 折角のチャンスを無駄にすることも、私の腕を買ってくださった彼にも申し訳なく思いましたが、お断りさせていただいたんです」
家のことを考えれば受けるべきだった。侯爵家と少しでも縁が出来れば、そこから何か立て直す希望を見いだせたかもしれない。
だがエレオノールは断った。
幾ら『候補』とはいえ、婚約者として振舞う女性がいたのだ。そんな人を無視してハンカチを渡すことなど、到底出来なかった。
「ですが、結局断ったせいで彼の心に火がついてしまったようで……。危険な行事が控えているというのに、当時ご当主様であったお義父様と殴り合いの喧嘩までして『候補』の皆様との話を白紙に戻し、私に『自分の為に祈ってほしい』とお願いしてきたのです」
「まあ……。それは、なんとも情熱的なお話ですわね」
初めこそ『他人の恋バナなんて』と思っていたヴィエラだったが、あまりにも情熱的な内容にすっかり聞き入ってしまっていた。
ルビーのような瞳も、少し前までは死んだ魚のように沈んでいたのに、すっかり輝きを取り戻している。
そんなヴィエラに侯爵夫人は優しく微笑むと、当時を振り返るようにしてそっと手元のティーカップへと視線を落とした。
「それでもやはり、戸惑いましたわ。『私でいいのでしょうか』『他にも刺繍の腕が立つご令嬢は沢山いるのに』と、そう思っていたのですけれど……。声に出すことが出来ず、俯くことしか出来ませんでした。こう見えて私、学生の頃は引っ込み思案でしたのよ?」
コロコロと笑う侯爵夫人だが、彼女はヴィエラの母、セラフィアのマナー講師でもあったのだ。そして前王妃殿下の侍女として働いていた時期もある。宮廷でも有名な女性なのだ。
だがそんな彼女もかつては『臆病な少女であった』らしく、ひどくもどかしいやり取りをしていたらしい。
ヴィエラは「さっさと受けてしまえばいいのに」と思いながらも、夫人の言葉を待った。
「悩む私に、夫はこう言ってくださいました。『あなたのハンカチを与えられた僕は、必ず優勝してみせる。そしてその暁には、あなたにプロポーズさせて欲しい』と。ウフフ。恥ずかしいでしょう?」
そう言いながらも侯爵夫人は少女のような顔で笑っている。よっぽど嬉しかったのだろう。
何せマルグリット侯爵夫妻は『恋愛結婚をした珍しい貴族』としても、『おしどり夫婦』としても有名だ。
ヴィエラは内心「やるじゃない」という気持ちと、ほんの少しだけ「うらやましい」という気持ちを抱えながら「ステキですわ」と微笑んだ。
「結局、彼の熱意に負け、私はハンカチを渡しました。沢山の祈りと無事を願って。そして迎えた大会当日、危うい場面も沢山ありましたが、彼は本当に優勝したのです」
「まあ。では、約束も守っていただいたのですね?」
「ええ。沢山の観客がいる中で、プロポーズしてくださいましたわ」
大会が終わり、優勝者として挨拶をした直後。彼は夫人の名を呼び、全生徒の前でプロポーズをした。
そのエピソードは現在も学園で語り継がれているのだが、ヴィエラにとって大切なのは『独り歩きした噂話』より『本人から語られる真実』である。
どれだけ賢く大人びていようと、ヴィエラは五歳の女の子だ。心なしか目を少し見開き、赤い瞳を輝かせて「早く続きを聞かせてくださいな」と訴えていた。
「夢を見ているようだわ、と思いましたわ。当時の私は。でも、夢ではありませんでした。侯爵家から婚約を打診する書類が届き、そこに署名した時、私は決めたのです。『一生この方のお傍で、この方を支えていこう』と」
「まあ……。そうだったのですか。貴重なお話、ありがとうございます。本当にステキでしたわ」
ヴィエラは『努力する人間』が好きだ。
足掻き、藻掻き、それでも自らの人生を輝かせる存在を掴み取る人間が大好きだ。
つまりこの話は非常に『刺さる』ものであり、ヴィエラは心底満足していた。
むしろ侯爵夫妻を見れば笑顔で手を振ってしまいそうなほど、二人に対しての好感度が急上昇していた。
そんなヴィエラに、侯爵夫人も微笑む。
「ヴィエラ様にも、そのような殿方に出会っているのではなくて?」
「…………侯爵様のような勇猛果敢な方ではございませんわ」
「あら。フフ。でも、否定はなさらないのね」
「………………」
ヴィエラは返答を拒むようにティーカップに口をつけ、冷めたお茶を飲み込む。
本音を言えば否定したい。だが否定するのもどこか違う気がする。
この微妙な、形容しがたい言葉につける名前を、ヴィエラはまだ知らない。
拗ねた猫のようにムッツリと黙り込んでしまったヴィエラに侯爵夫人はクスクスと笑うが、その表情も声音も甘やかすように柔らかかった。
「ですが……そうですわね。どちらかといえばヴィエラ様は、私の旦那様のように『行動に移す』方が性に合っているかもしれませんわね」
「ええ。わたくしもそう思いますわ」
ただ部屋に籠って刺繍をし、相手の無事を祈り、会いに来るのを待つなど性に合わない。
そう。“らしくない”のだ。今のヴィエラは。
「……侯爵夫人。わたくし、急用ができましたわ。本日はこれで失礼してもよろしいかしら」
「ええ。構いませんわ。私も久しぶりに、ゆっくりと刺繍がしたくなりましたの」
「まあ、ステキ。わたくし、夫人に刺繍についても教えていただきたいですわ」
「嬉しいですわ。その時は、ぜひ」
祖母と孫ほど年齢が開いていようと、一度『恋バナ』をすればもはや友人だ。
ヴィエラはいつものように自信に満ちた笑みを浮かべると、先程までのやる気のなさが嘘のように美しいカーテシーを見せた。
「それではマルグリット侯爵夫人、ごきげよう」
「ええ。ごきげんよう、ヴィエラ様。道中お気をつけて」
「ありがとうございます。行ってまいりますわ」
最初こそ静かに出て行ったが、ヴィエラはすぐさま廊下を走り出す。侍女も釣られて走るため、その足音は静かな部屋によく響いた。
マルグリット侯爵夫人はその騒がしさに眉を顰めるのではなく、クスクスと心から楽しそうに笑ってから荷物を持って立ち上がる。そして見上げた空には久方ぶりの青空が見えており、美しい虹がかかっていた。
「応援しておりますわ、ヴィエラ様」
戦に臨む夫ではなく、賢く勇敢な少女の恋を応援するために、エレオノール侯爵夫人は小さな祈りを捧げた。




