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思考の混濁、あるいは独裁者の終焉

鼓動が速い。早鐘を打つようなそのリズムは、ステージ上のビートと同期することを拒み、美墨なぎさの思考をじわじわと麻痺させていた。ライトの熱が、肌を焼く。目の前で優雅にステップを踏む日向大和の背中は、まるで遠い異世界の頂に立っているかのように、どれだけ手を伸ばしても届かない。


なぎさが自信を持って放った「不協和音」の仕掛けは、大和の冷徹な観測によって、ことごとく無力化されていた。みゆきの野生を活かすための「空白」は、大和の圧倒的なコーラスによって埋められ、咲やりんの躍動は、大和が張り巡らせた緻密なフォーメーションの網に絡め取られている。なぎさの脳内にある設計図は、今や真っ赤なエラーメッセージで埋め尽くされていた。


「……なぎさ、音が死んでいるわよ」


インカム越しに届いた月影ゆりの声は、鋭い氷の礫となってなぎさの鼓膜を打った。 ハッとして指先を見れば、鍵盤を叩くタッチが微かに震えている。なぎさは無意識のうちに、大和の「正解」に怯え、それに対抗するための「より正しい論理」を探そうとしていた。しかし、大和という巨大なシステムを相手に、論理の積み重ねで勝てるはずがないのだ。


大和は、なぎさが迷う一瞬を見逃さなかった。彼女はセンターで鮮やかにターンを決めると、会場の音響を自らの味方につけるような、圧巻のロングトーンを放った。それは観客の意識をなぎさたちから剥ぎ取り、自分たちの足元へと跪かせる、絶対的な「重力」。


「どうしたの、なぎさちゃん。君の音楽は、そんなに窮屈なものだったかな?」


大和の唇が、歌声の隙間に冷たい嘲笑を潜ませる。 なぎさは奥歯を噛み締めた。あの日、ドームの床に膝をついた時の絶望が、再び足元から這い上がってくる。自分がリードを間違えれば、この六人は沈む。自分が完璧でなければ、みゆきの翼は折れる。その「責任」という名の傲慢さが、なぎさの音を、自由を、徹底的に縛り上げていた。


その時、視界の端で、星空みゆきが笑った。


この絶望的な状況下で、みゆきはなぎさの顔さえ見ず、ただ目の前の「音」に飢えた瞳を向けていた。彼女は、なぎさが苦悩していることなど露ほども気にしていないようだった。ただ、なぎさが次に放つ「不可能な要求」だけを、舌なめずりしながら待っている。


「……そうか。私は、何を怖がっていたんだ」


なぎさは、自嘲気味に息を吐いた。 自分は独裁者として、すべてをコントロールしようとしていた。仲間の可能性さえも、自分の計算機の中に押し込めようとしていた。けれど、ここにいるのは、なぎさの駒ではない。なぎさが突き放し、絶望させたとしても、自力で空を飛ぶことを選んだ、最高に強情な烏たちなのだ。


なぎさは、これまでの設計図を脳内で完全に灰にした。 計算を捨てる。効率を捨てる。 今、この瞬間に自分が最も「聴きたい」と思う、最も自分勝手で、最も残酷な音を、ただ放り投げる。


なぎさが選んだのは、これまでの楽曲の脈絡を無視した、心臓を抉るような鋭利なエレクトロサウンドの連打だった。


「——ゆりさん、私の後ろは頼んだわよ! あとはみんな、勝手にしなさい!」


なぎさが叫ぶ。それは司令官としての指示ではなく、一人の表現者としての、剥き出しの「我儘」だった。


ゆりが、なぎさのその不器用な「信頼」に応えるように、地を這うような重厚なベースラインを重ねた。なぎさが作った、危ういまでの音の断崖絶壁。そこに向かって、夏木りんと日向咲が、笑いながら全力疾走を始める。


そして、星空みゆきが、なぎさの「暴走」に歓喜の咆哮を上げた。


なぎさは、みゆきの喉が最も美しく鳴る場所を狙うのを止めた。代わりに、みゆきが喉を潰してでも叫びたくなるような、狂気的なビートを叩きつけた。


「——なぎささぁぁぁん!! 最高ですっ!!」


みゆきの絶叫が、大和の築き上げた完璧な調和の空気を、物理的に引き裂いた。 会場を支配していた大和の「重力」が、なぎさたちの「混沌」によって激しく歪む。観客は、先ほどまでの陶酔から無理やり引き摺り出され、目の前で起きている「衝突」という名の熱量に、再び瞳を奪われた。


舞台袖に戻ろうとした大和が、足を止めた。 彼女の瞳には、かつてないほどの鋭い光が宿っている。自分の引力を振り切り、自ら壊れることで加速し始めた烏たち。大和は、なぎさのその「正気とは思えない転換」に、ライバルとしての真の恐怖と、表現者としての堪え難い歓喜を感じていた。


「……やるね、なぎさちゃん。自分自身を壊してまで、私に届こうっていうのか」


大和のリードは、さらに冷酷に、さらに完璧に研ぎ澄まされていく。 ここからは、どちらが先に力尽きるかの、命を削る削り合い。


なぎさは、自身の指先から流れる血の味を感じながら、不敵に微笑んだ。 思考の混濁は消え、視界は極限まで澄み渡っている。 独裁者は死んだ。今ここにいるのは、五人の怪物を解き放ち、自らも怪物へと堕ちた、漆黒の奏者だ。


「——見てなさいよ、大和さん。あんたの正解を、私たちの『命』で塗りつぶしてあげるわ」


第98話、思考の混濁、あるいは独裁者の終焉。 漆黒の翼は、自らを焼き尽くす炎となって、黄金の引力へと真正面から衝突していった。 再戦の火花は、今、どちらの未来をも灰にするほどの激しさで、秋のホールを焼き尽くそうとしていた。

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