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旋律の鏡像、あるいは天才の憂鬱

会場を埋め尽くす熱狂は、もはや一つの生命体のように脈動し、巨大なホールの壁を内側から押し広げていた。美墨なぎさの指先は、すでに自身の意志を超えて動いている。視界の端で踊る星空みゆきは、なぎさが放り投げる無慈悲なビートを、まるで飢えた獣が獲物を引き裂くような獰猛さで自分の血肉に変えていた。設計図はもうない。あるのは、一瞬一瞬の火花のような即興の連続だ。


「……あいつ、本当に壊れてやがる」


舞台袖で待機する日向大和は、無意識のうちに自分の衣装の裾を強く握りしめていた。大和が最も忌み嫌い、そして最も恐れていたもの。それは、自分のような「積み重ねた努力による完璧」を、たった一瞬の「理性の放棄」で飛び越えていく、剥き出しの才能の暴走だった。


なぎさが繰り出すフレーズは、以前のような冷徹な計算に基づいたものではなくなっていた。それは、仲間の喉が最も美しく鳴る場所を狙うのをやめ、彼女たちが「叫ばざるを得ない」崖っぷちへと追い込む、挑発的なリードだ。しかし、月影ゆりも、夏木りんも、日向咲も、秋元こまちも、その絶望的なまでの要求に、絶望ではなく歓喜の表情で応えていた。彼女たちは、なぎさという独裁者に従う駒ではなく、なぎさが作った嵐の中で、誰が一番高く飛べるかを競う競走者へと変貌していた。


大和は自身のユニットに合図を送り、ステージの中央へと再び躍り出た。なぎさが「不協和音」という名の毒を撒き散らすなら、大和はそれを浄化し、より巨大な「正解」という名の光で上書きする。大和の放つ高音は、会場のすべての音響を掌握し、なぎさたちのノイズを「演出の一部」として従わせるほどの圧倒的な安定感を誇っていた。


「見事だよ、なぎさちゃん。でも、音楽は一人でするものじゃない。……君のその狂気を、支えきれるほど世界は優しくないんだ」


大和の声が、重厚なコーラスに乗ってなぎさの耳元を掠める。 大和のユニットは、大和という「完璧な土台」の上に、五人の才能が寸分違わず積み上げられている。一方、なぎさたちのユニットは、六人が互いの喉元に刃を突きつけ合うような、危うい均衡の上に立っていた。一人が踏み外せば、すべてが崩壊する死の舞踏。


その均衡を崩しにかかったのは、やはり大和だった。 大和は、なぎさが最も信頼を寄せ始めたみゆきではなく、あえて影で全体を支えていた秋元こまちのコーラスに狙いを定めた。こまちの繊細な旋律に対して、大和はあえて自分の音を「ぶつける」のではなく、こまちの音に「寄り添う」ような、極めて甘く、暴力的なまでの同調を見せたのだ。


「……っ、こまち!」


なぎさが気づいたときには、こまちの繊細な感性は、大和が差し出した「心地よすぎる旋律」の誘惑に絡め取られていた。こまちの音色が、ほんの数ミリ、なぎさのビートから大和の引力へと引き寄せられる。


ユニットの連鎖が乱れる。なぎさの作った嵐の目が、内側から崩れ始めた。 大和は、相手を力でねじ伏せるのではない。相手の最も美しい部分を、より美しく包み込むことで、その結束を自発的に解体させるのだ。それが、日向大和という「天才」の、最も恐ろしく、最も慈悲深い戦術だった。


「……これが、私の『愛』だよ」


大和の微笑みが、ライトに照らされて神々しく輝く。 崩れかけたリズム。乱れるフォーメーション。客席の支持率メーターが、再び大和の側へと大きく振れる。


だが、その崩壊の寸前で、なぎさは笑った。 かつての自分なら、ここで絶望し、仲間に「合わせろ」と叫んでいただろう。けれど、今のなぎさは、乱れたこまちの音を、そのまま「新しい不協和音の起点」として受け入れた。


「——ゆりさん、そのままこまちに被せて! りん、咲、今のズレをビートの裏に入れなさい!」


なぎさの指示は、もはや「修正」ではない。起きた「エラー」を、さらなる「進化」の素材として使いこなす、狂気の再構築。 なぎさは、大和が奪い取ろうとしたこまちの音を、あえて大和に差し出し、それを「餌」にして、みゆきの咆哮をより死角から、より鋭利に突き刺した。


「——なぎささぁぁぁん!! 行きますっ!!」


みゆきの絶叫が、大和の完璧な抱擁を、内側から爆破するように引き裂いた。 大和の目が見開かれる。 ありえない。エラーをエラーのまま、より巨大な武器へと変えるなんて。そんな論理は、自分の音楽の教科書には載っていない。


「……君は、どこまで私を否定するつもりだい」


大和のリードに、初めて「焦り」ではない、純粋な「憎しみ」と、それを遥かに上回る「執着」が宿った。 大和は、もはや観客を見ていなかった。彼女が見ているのは、自分を否定し続け、自分の理想とする完璧な世界に泥を塗り続ける、美墨なぎさという「怪物」だけだった。


なぎさもまた、大和だけを見据えていた。 あの日、自分を否定し、救ってくれた憧れの人。 その人を越えるには、その人が愛する「正しさ」を、完膚なきまでに叩き壊すしかない。


第99話、旋律の鏡像。 王道という名の光と、変異という名の闇。 二人の天才のリードが、ステージの上で幾重にも重なり、火花を散らし、誰も聴いたことのない「終わりの旋律」へと加速していく。 それはもはや、勝敗を決めるためのコンテストではなかった。 互いの魂の形を、音という名の刃で刻み合う、凄絶な対話だった。


なぎさは、喉が裂けるような感覚を覚えながら、最後のリフレインに向けて指を振り上げた。 そこにあるのは、栄光でも絶望でもない。ただ、目の前のライバルを、音の彼方へ突き飛ばしたいという、純粋なまでの殺意と愛情だけだった。

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