折れない翼、あるいは再戦の閾(しきい)
代表決定戦の会場となった巨大ホールの地下通路には、冷え切ったコンクリートの匂いと、どこからか漏れてくる微かなファンの歓声が混じり合っていた。美墨なぎさは、自らのユニット「プリキュア」のメンバーを引き連れ、最終調整のためのリハーサル室へと向かっていた。彼女の足取りは、数時間前よりもずっと重く、それでいて揺るぎないものに変わっている。背後に続く星空みゆきは、珍しく口数が少なく、自分の指先を何度も握っては解き、内に秘めた爆発的なエネルギーを必死に抑え込んでいるようだった。
「なぎさ、顔を上げなさい。ここからは、迷った方が負けよ」
最後尾を歩く月影ゆりが、冷静な声で釘を刺す。なぎさは「分かってる」と短く返し、リハーサル室の重い扉を開いた。そこには、なおコーチがすでに待機しており、壁一面の鏡の前で腕を組んでいた。
「鉄壁を抜いたことで、あなたたちは一つの正解に辿り着いた。でも、日向大和は『正解』のさらに上を行く『完成』を体現している。彼女の引力に抗おうとすれば、あなたたちの音はバラバラに引き裂かれるわ。必要なのは、抗うことじゃない。彼女の引力そのものを利用して、自分たちの闇をさらに加速させることよ」
なおコーチの言葉は、なぎさが屋上で辿り着いた「設計図を半分しか書かない」という決断を後押しするものだった。なぎさは、自分のノートに書かれた緻密な構成案を、ためらうことなく破り捨てた。驚く夏木りんや日向咲を尻目に、なぎさは即興のビートを刻み始める。
「今の私たちは、誰かのコピーじゃない。大和さんが正解だと言うなら、私たちはその正解を笑い飛ばす、最高に質の悪い『間違い』になりましょう。ゆりさん、低音をもっと濁らせて。りん、咲、ダンスの歩数をあえて一歩減らして、リズムに空白を作って。みゆき……あんたは、その空白の中で、私さえも置き去りにして叫びなさい」
なぎさの狂気じみた提案に、メンバーたちの瞳に火が灯る。秋元こまちが静かにピアノの旋律を重ね、狂気の中に一筋の哀愁を添える。それは、美しさへの決別であり、勝利への執念そのものだった。
リハーサルが終わる頃、六人の身体からは湯気が立ち上り、鏡は彼女たちの熱気で白く曇っていた。なぎさは、自分が引いた「未完成の地図」が、仲間の肉体を通じて一つの生き物のように脈動しているのを感じた。
一方、メインステージの袖では、日向大和が自身のユニットの最終チェックを終えていた。彼女たちのパフォーマンスは、一分の隙も、一音の乱れもない。大和は、自身のリードがメンバー全員の心臓と同期していることを確認し、満足げに微笑んだ。
「……大和さん。ぴかりが丘の連中、リハーサル室でかなり無茶なことをやっているみたいですよ。設計を捨てた、なんて噂も」
側近のメンバーが報告するが、大和は優雅にマイクスタンドを握り直すだけだった。
「設計を捨てる? それはただの自暴自棄だよ。美墨なぎさは、追い詰められて理性を失ったんだね。残念だよ、もう少し楽しませてくれると思っていたのに。……いいかい、本当のアイドルとは、どんな混沌の中でも変わらぬ秩序を示せる者のことだ。彼女たちの『間違い』を、私たちの『正解』で正してあげよう」
大和の言葉には、絶対的な勝者の余裕が溢れていた。彼女にとって、ぴかりが丘はまだ、かつての夏に踏み潰した、飛べない烏の残像に過ぎなかった。
開演三十分前。なぎさは、会場の自販機で冷たい水を買い、一人でベンチに座っていた。ふいに、隣に誰かが腰を下ろした気配がした。見なくても分かった。九条ひかりだ。彼女は自分のユニットの出番を終え、どこか遠くを見つめるような瞳をしていた。
「……あなたの設計図、今度は何を壊すつもり?」
ひかりの静かな問いに、なぎさはボトルを口から離さずに答えた。
「……全部よ。大和さんの引力も、いちかさんの光も。そして、私の理性もね」
「そう。……それは、私にはできない計算だね。計算できないものは、私には愛せない。けれど……少しだけ、その結末に興味があるよ」
ひかりは立ち上がり、そのまま雑踏の中に消えていった。なぎさは、ひかりが座っていた場所に残った微かな熱を感じながら、自分の「不完全な翼」が、かつてないほど激しく羽ばたこうとしているのを自覚した。
通路に戻ると、そこには円陣を組もうとするみゆきたちの姿があった。なぎさが加わると、六人の手が中央で重なり合う。
「——私たちは、烏。地の底を這い、泥を啜って、ようやくここまで戻ってきた」
なぎさが低く、けれど力強く告げる。
「綺麗に歌おうなんて思わないで。正解を出そうなんて思わないで。ただ、自分たちの命がここにあることを、あの王道のど真ん中に叩きつけてやりましょう。……いくわよ!」
「「「「「おお!!!」」」」」
六人の咆哮が、地下通路の壁を震わせた。
ステージへと続く階段を登る際、なぎさはふと振り返り、まだ見ぬ決勝の舞台を見つめた。そこには、黄金の玉座に座る宇佐美いちかの幻影が見える。けれど、今のなぎさの目は、その光に眩むことはなかった。
第95話、折れない翼。 勝利も敗北も、すべてを飲み込んで黒く染まった烏たちは、今、再戦の閾を越える。 不協和音の幕が上がるまで、あと数分。 なぎさは、隣で震えるみゆきの手を強く握りしめた。その震えは恐怖ではなく、世界を塗り替えるための、猛烈な「武者震い」だった。
階段の先、眩いライトの海が、彼女たちの飛翔を待ち構えていた。




