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無意識の境界、あるいは王道への帰還

鉄壁の包囲網を突破したあとのホールには、耳鳴りのような静寂が横たわっていた。美墨なぎさは、楽屋へと続くコンクリートの通路を、浮遊感に包まれながら歩いていた。指先の痺れはまだ取れず、喉の奥は焼けるように熱い。勝利したはずなのに、なぎさの胸にあるのは晴れやかな喜びだけではなかった。それは、自らの限界を無理やりこじ開け、未知の領域に触れてしまった者が感じる、本能的な戦慄だった。


「なぎささん、顔が怖いですよ。勝ったんですから、もっとシャキッとしてください!」


星空みゆきが、汗で張り付いた前髪を振り乱しながら、背中に飛びついてきた。彼女の重みを感じて、なぎさはようやく自分が現実の世界に帰還したことを実感する。みゆきの瞳には、恐怖も迷いもない。ただ、次なる獲物を見据える野性的な光だけが宿っている。


「……わかってるわよ。ただ、ちょっと考え事をしていただけ」


なぎさはみゆきを引き剥がし、楽屋のドアを開けた。そこには、すでに戻っていた月影ゆり、夏木りん、日向咲、秋元こまちが、泥のように椅子に沈み込んでいた。誰もが極限まで自分を削り、音の壁に衝突し続けた証だ。


「……なぎさ。今のステージ、私たちは確かに壁を越えたわ。でも、見て」


ゆりが指さしたモニターには、別会場で行われている日向大和率いるユニットのパフォーマンスが映し出されていた。大和たちのユニットは、ぴかりが丘のような危うい「不協和音」などは一切使わない。彼女たちが展開しているのは、聴く者すべてを強制的に陶酔させる、圧倒的な「王道」の輝きだった。完璧なピッチ、一切の揺らぎがないリズム、そして観客の熱量を自由自在にコントロールする、大和の冷徹なまでのカリスマ性。


なぎさは息を呑んだ。自分たちが「鉄壁」という特定の敵を倒すために研ぎ澄ませた武器が、この「王道」に対してどこまで通用するのか。大和は、なぎさたちが苦労して掴んだ「不確定要素」さえも、巨大な引力の一部として飲み込んでしまうのではないか。


その時、楽屋のドアがノックもなく開いた。現れたのは、なおコーチだった。彼女は手にしたタブレットをテーブルに放り投げ、厳しい視線で六人を見渡した。


「勝利の余韻に浸っている暇があるなら、今の映像を脳裏に焼き付けなさい。あなたたちが次に戦うのは、一度敗れた『引力』そのものよ。日向大和は、あなたたちの進化をすでに織り込み済みで、その上を行く準備を整えているわ」


なおコーチの言葉に、楽屋の温度が数度下がったような感覚があった。


「なぎさ、あなたは今回、みゆきを『突き放す』ことで壁を抜いた。でも、大和はそれを『予測不能』とは呼ばないわ。彼女にとっては、それさえも計算可能な変数に過ぎない。……今のままじゃ、夏と同じ結果になるわよ」


なぎさは拳を強く握りしめた。なおコーチの指摘は、なぎさが無意識に避けていた恐怖そのものだった。自分の設計図が、大和という巨大な頭脳に透かされている。その事実が、なぎさの論理的な思考をがんじがらめに縛り上げる。


一方、その頃、日向大和はステージを終え、汗一つかかぬ涼しい顔で通路を歩いていた。彼女の背後には、彼女の指示通りに動き、完璧な成果を出したメンバーたちが従っている。


「……大和さん、ぴかりが丘が勝ち上がってきましたね。あの不協和音、少し厄介かもしれません」


メンバーの一人が懸念を口にするが、大和は足を止めることさえしなかった。


「……厄介? いいえ、あれはただの『悪足掻き』だよ。美墨なぎさは、エースを解き放つことで勝機を見出したつもりだろうけど、それはリードとしての責任を放棄したのと同義だ。……本当の支配が何たるか、次のステージで教えてあげるよ」


大和の瞳に宿るのは、後輩への情けでも、ライバルへの敬意でもない。ただ、自分の美学を邪魔する「ノイズ」を排除しようとする、冷酷なまでの意志だった。


夕刻、ぴかりが丘のメンバーは、次の対戦までの一時的な休息のために、会場の屋上テラスに出ていた。オレンジ色に染まる街並みを見下ろしながら、秋元こまちが静かに口を開いた。


「……私たち、強くなりましたよね。でも、大和さんたちの音を聴くと、まだ届かないような、不思議な感覚になります」


「それは、彼女たちが『正解』を歌っているからだよ」


夏木りんが、手すりを叩きながら応じる。


「私たちは、正解じゃない道を通ってここまで来た。だから、向こうから見れば私たちはただの迷子に見えるのかもしれない。……でも、迷子だからこそ、地図にない場所へ行けるんじゃないかな」


りんの言葉に、なぎさはハッとした。地図にない場所。大和が描く完璧な設計図には、決して存在しない「バグ」。自分たちが目指すべきは、大和の引力に抗うことではなく、その引力そのものを狂わせるような、絶対的な「異物」になることだ。


なぎさは、ポケットからボイスレコーダーを取り出し、先ほどの鉄壁戦での録音を再生した。ノイズ混じりの、剥き出しの音。洗練からは程遠い、けれど心臓を鷲掴みにする、泥臭い咆哮。


「……みゆき。あんた、さっきのステージ、楽しかった?」


なぎさの問いに、みゆきは夜空を見上げたまま、満面の笑みで答えた。


「はい! 死ぬかと思うくらい苦しかったですけど、今までで一番、自分がどこにいるか分かった気がします。なぎささんが、私を暗闇の中に放り出してくれたから!」


みゆきの言葉は、なぎさの迷いを完全に吹き飛ばした。 そうだ。大和が王道を征くなら、自分たちはその足元に広がる深い闇を征けばいい。


「……決めたわ。次のステージ、私の設計図は半分も書かない。残りの半分は、現場の『狂気』に任せる」


なぎさの宣言に、ゆりが、咲が、こまちが、りんが、不敵な笑みを浮かべた。 それは、合理的であることを誇りとしてきた美墨なぎさという少女の、最大の自己否定であり、同時になおコーチさえも予想し得ない、究極の「信頼」の表明だった。


第94話、無意識の境界。 烏たちは今、勝利の安息を捨て、再び自らを壊すための準備を始めた。 王道という名の光に焼かれるか、それともその光を食い破る影になるか。 再戦の火蓋は、まだ切られてはいない。けれど、なぎさの耳の奥には、すでに新しい「不協和音」が、不吉に、けれど輝かしく鳴り響いていた。


なぎさは、みゆきの手を強く握り、決戦のステージへと続く長い階段を見据えた。

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