心臓の鼓動、あるいは静寂を切り裂く絶唱
心臓の鼓動、あるいは静寂を切り裂く絶唱
最後の不協和音が消えたあと、ホールには不自然なほどの静寂が残った。美墨なぎさは鍵盤に両手を置いたまま、顔を上げられずにいた。指先の感覚が薄い。胸の奥では、演奏の続きのような激しい鼓動が鳴っている。
自分が最後に何を弾いたのか、正確には思い出せなかった。設計図は途中で捨てた。相手の動きを読んで置いた音ではない。仲間を安全に導くための音でもない。ただ、目の前に立ちはだかる壁を壊すために、最も不自然で、最も危険な一音を選んだ。
それでも、誰も止まらなかった。
日向咲も、夏木りんも、秋元こまちも、月影ゆりも、なぎさの意図など理解できていなかったはずだ。それなのに、全員が自分の判断で音を繋ぎ、最後には星空みゆきを壁の向こう側へ送り出した。
「……なぎささん」
ステージ中央から、掠れた声が届いた。みゆきはマイクを両手で握ったまま、肩で大きく息をしていた。喉は限界に近い。それでも、その目にはまだ強い光が残っている。
「私、届きましたか?」
なぎさは答えようとしたが、声が出なかった。
代わりに、客席の最前列から一つの拍手が鳴った。乾いた音が、静まり返ったホールを横切る。続いて別の場所からも拍手が起こる。一つ、二つと増えた音は、やがて客席全体を覆う大きな轟音へ変わった。
支持率を示すインジケーターが動く。終了直前までほぼ並んでいた二つの数値。そのうち、ぴかりが丘学院を示す光が、わずかな差で相手を上回った。
勝敗を告げる電子音が鳴る。
『勝者、ぴかりが丘学院』
「……勝った?」
咲が、自分の耳を疑うように呟いた。
「勝ったんだよ!」
りんが咲の背中を勢いよく叩く。咲が前につんのめり、振り返って抗議しようとしたが、その顔は笑っていた。こまちは口元を押さえ、静かに涙を流している。ゆりはベースから手を離し、長く息を吐いた。
みゆきだけは、なぎさを見つめ続けていた。
「なぎささん」
「……何よ」
「最後、何をすればいいのか、全然分かりませんでした」
「でしょうね。私だって分かってなかったもの」
「でも、みんなの音は聞こえました」
みゆきは、自分の胸に手を当てた。
「りんさんが床を蹴る音も、咲さんが走る音も、こまちさんの声も、ゆりさんのベースも。だから、あそこへ行けば大丈夫だと思ったんです」
なぎさは、自分の右手を見つめた。これまでの自分は、みゆきが跳ぶための道を先に用意してきた。どの場所から、どのタイミングで踏み切れば、最も高く届くのか。その答えを示すことが自分の役目だと思っていた。
だが、今の一撃に道などなかった。みゆきは崩れた音の中から、自分で着地点を見つけた。
「……偶然よ。今のは、もう一度やれと言われてもできない」
「なら、練習しましょう!」
みゆきは迷いなく答えた。
「あんなものを練習できるわけないでしょう」
「でも、できたら、もっと高く跳べますよね?」
なぎさは言葉を失った。自分たちが触れたものが、どれほど危険なのか、この少女は理解していない。設計者の手を離れた音は、相手だけでなく、演奏する側まで壊しかねない。
それでも、なぎさの胸の奥には、恐怖とは別の熱が生まれていた。
「美墨」
ゆりが隣へ来た。
「怖いのかしら」
「別に」
「そう。その割には、手が震えているけれど」
なぎさは反射的に右手を握った。ゆりも、自分の指先を見せる。ベースの弦を押さえていた指が、わずかに震えていた。
「私も同じよ。次に何が来るのか分からなかった。でも、不思議と曲が壊れるとは思わなかった」
「どうしてですか」
「誰かが間違えたら、残った全員で、その間違いを次の音にすればいい。今日の私たちは、それを最後まで続けたから」
なぎさは客席の一角へ目を向けた。宇佐美いちかが、椅子の背もたれから身を離していた。拍手はしていない。ただ、鋭い眼差しでぴかりが丘の六人を見ている。これまで眼中にもなかった異物を、初めて観察するような目だった。
「……見てなさいよ」
鉄壁を越えただけでは終わらない。自分たちが届こうとしているのは、その向こうで輝いている太陽だ。
勝者を送り出すライトが点灯する。りんと咲が手を取り合い、こまちが涙を拭う。ゆりは客席へ一礼し、静かにベースを抱え直した。
みゆきが、なぎさへ手を差し出す。
「行きましょう、なぎささん」
なぎさはその手を取った。ステージに降り注ぐ拍手は、勝利を祝う音であると同時に、彼女たち自身も知らなかった新しい旋律の始まりを告げる音だった。
なぎさの耳の奥では、静寂を切り裂いたみゆきの絶唱が、まだ激しい心臓の鼓動と重なって鳴り続けていた。




