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空位の頂点、あるいは猛獣の目覚め

秋の選抜フェスティバル、その巨大なホールの舞台裏には、勝ち上がった者だけが纏うことのできる、重く、焦げ付くような熱気が停滞していた。ぴかりが丘学院の次なるステージが近づく中、美墨なぎさは薄暗いモニターの明かりを頼りに、自作の解析ソフトに数値を叩き込んでいた。初戦で見せつけた「不協和音の爆発」は確かに成功した。だが、なぎさの脳裏には、先ほど通路ですれ違った宇佐美いちかの、あの底知れない瞳が焼き付いて離れない。王者の余裕を崩すには、今のままではまだ「鋭さ」が足りないのだ。


「なぎささん、指、震えてますよ」


不意に背後から声をかけられ、なぎさは肩を跳ねさせた。振り返ると、そこには星空みゆきが立っていた。彼女はいつもの能天気な笑顔を封印し、獲物を狙うハヤブサのような、静かな殺気を湛えた瞳でなぎさを見つめていた。


「……別に、震えてなんていないわ。ただ、次の旋律の配置を再計算しているだけよ」


なぎさは努めて平坦な声で返したが、みゆきはそれを許さなかった。彼女はなぎさの前に一歩踏み出し、その小さな手でなぎさのタブレットの画面を力強く伏せた。


「なぎささんの設計図は完璧です。でも、今のままだと、私はなぎささんの『枠』の中でしか歌えません。それじゃ、あの日ドームで感じたいちかさんの圧倒的な光には届かない」


なぎさは息を呑んだ。みゆきの言葉は、ワークショップで日向大和に指摘された「親切すぎるリード」という弱点を、より残酷な形で突きつけていた。なぎさは無意識に、みゆきが怪我をしないように、彼女が歌いきれる範囲内で最も高い音を提示していた。それは信頼ではなく、無意識の制限だったのかもしれない。


「……じゃあ、どうしろって言うのよ。あんたを突き放して、もしステージが崩壊したら、私たちの夏はここで終わりなのよ」


「崩壊させません。……私が、なぎささんの音を全部喰らい尽くして、もっと高い場所まで引きずり上げてみせますから」


みゆきの瞳の奥で、野生の火が爆ぜた。その圧倒的な「個」の意志に、なぎさは背筋が凍るような戦慄と、同時に、かつてないほどの昂揚感を覚えた。


ステージの開演を告げるブザーが、腹の底まで響く重低音を鳴らす。ぴかりが丘学院の六人は、漆黒のウィンドブレーカーを脱ぎ捨て、鋭いカッティングが施された勝負衣装でライトの渦へと飛び出した。


二戦目の対戦相手は、日向大和がかつて目をかけていたという、精密なコーラスワークを武器にする実力派ユニットだ。彼女たちのパフォーマンスは、数学的な美しさを湛え、一糸乱れぬ動きで観客の心を掌握しようとしていた。


だが、なぎさが放った第一音は、その美しい秩序を冷酷に切り裂いた。


なぎさは、これまでの自分を殺した。みゆきが歌いやすい場所ではなく、彼女が死に物狂いで手を伸ばさなければ、音を外して墜落するような、そんな断崖絶壁に旋律を配置したのだ。それは、ユニットの崩壊を招きかねない「毒」の混じったリード。


「——なぎさ、正気なの!?」


月影ゆりの驚愕の声が、インカム越しに聞こえる。夏木りんも、日向咲も、あまりに速く、あまりに高いなぎさの要求に、一瞬だけ硬直した。だが、その直後、星空みゆきが「吼えた」。


みゆきは、なぎさが提示した絶望的な高音に対して、さらにその上を行く、透き通った絶叫に近い旋律を叩き込んだ。


ドォォォォォン!!


会場の空気が、物理的な圧力を持って爆発した。みゆきは、なぎさのリードに「合わせる」のを止めたのだ。彼女は、なぎさが放つ音の破片を自らの燃料に変え、ステージという限られた空間を、まるで重力から解き放たれたかのように縦横無尽に支配し始めた。


なぎさは笑った。喉が焼けるような、鉄の味がする。けれど、思考はこれまでにないほど澄み渡っていた。みゆきが跳ぶなら、自分はその着地点をさらに高くする。みゆきが叫ぶなら、自分はその背中を突き飛ばすような強烈なビートを叩き込む。


六人の音は、もはや「ハーモニー」とは呼べないものになっていた。それは、互いを傷つけ合い、高め合い、喰らい合う、凄絶なまでの「個」の衝突。秋元こまちのコーラスが、その狂気じみたセッションに、かろうじて人間としての理性を繋ぎ止めている。


客席の熱狂は、もはや応援の域を超えていた。観客は、目の前で繰り広げられる「進化」という名の暴力に、抗いようのない力で惹きつけられていた。


ステージの袖で、出番を待つ九条ひかりが、自らのマイクを握りしめる手に力を込めた。彼女の無感情な瞳に、初めて「焦燥」という名の色が宿る。


「……あのリード、美墨なぎさ。あの子、自分のエースを殺す気なの? ……いいえ、違う。彼女は、エースを『神』にしようとしているんだ」


ひかりの呟きは、誰にも届かずに喧騒に消えた。


曲のラスト。なぎさは最後の力を振り絞り、自身の音域を超えた超高音のロングトーンを、みゆきに向けて放り投げた。それは、なぎさからみゆきへの、剥き出しの挑戦状。


みゆきは、その音を逃さなかった。彼女は空中で一回転するような激しいダンスの勢いのまま、なぎさの音を飲み込み、さらにその上を、天を突き抜けるような輝かしい咆哮で締めくくった。


暗転。


会場を支配したのは、爆発的な拍手ではなく、数秒間の完全な「静寂」だった。観客は、自分たちが今、何を目撃したのかを理解するのに時間を要した。そして、一拍遅れてやってきたのは、ホールの天井を崩さんばかりの地鳴りのような歓声だった。


なぎさは膝をつき、激しく肩で息をした。視界が白く霞む中で、汗だくのみゆきが手を差し出してくる。


「……なぎささん。私、今、最高の景色が見えました」


「……当たり前でしょ。誰がそこに、道を引いたと思ってるのよ」


なぎさは、みゆきの手を借りて立ち上がった。その横顔は、もはや「秀才」のそれではない。怪物を手懐け、自らも怪物へと堕ちた、漆黒の設計者の顔だった。


第87話、猛獣の目覚め。 烏たちは、この日、ようやく自分たちを縛っていた「かつての自分」という鎖を完全に断ち切った。 空位となった頂点へと続く階段は、今、彼女たちの不協和音によって、真っ黒に塗りつぶされようとしていた。

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