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幻影の翼、あるいは静寂という名の戦慄

ステージが暗転し、ぴかりが丘学院の六人が舞台袖に引き上げた後も、メインホールの空気は物理的な質量を持ったまま固着していた。観客席を埋め尽くす群衆は、自分たちが今、何を目撃したのかを測りかねている。それは従来のアイドルフェスで期待される「元気をもらえるステージ」でも、「完璧な調和」でもなかった。美墨なぎさが放った、あの冷徹で暴力的なまでの音の弾丸。そして、それを自らの翼に変えて、誰も届かない高みへと跳躍してみせた星空みゆき。二人が見せつけたのは、信頼という名の「共依存」を焼き切った先に現れる、凄絶な「個」の衝突だった。


「……あんなの、ありえない」


観客席の最前列に近い席で、他校のユニットメンバーが震える声で呟いた。彼女たちの目には、なぎさとみゆきの背後に、巨大な漆黒の翼が羽ばたいた幻影が見えていた。かつて「堕ちた烏」と揶揄された名門校が、既存の音楽理論を根底から破壊する「不協和音」という武器を手に、怪物へと変異を遂げた瞬間だった。


通路の陰で、日向大和は腕を組み、微動だにせずモニターを見つめていた。その瞳は、いつもの嘲笑を完全に消し去り、獲物を精密に分析するハンターのような鋭利さを帯びている。


「……親切なリードは捨てた、というわけか。美墨なぎさ、君は自分のエースを信じることを止めて、代わりに彼女の飢餓感を煽ることを選んだんだね」


大和の隣で、彼女のユニットのメンバーが不安そうに顔を覗き込む。


「大和さん……あのみゆきって子、なぎささんのあの無茶苦茶なビートに、どうして一歩も遅れずに合わせられるんですか? まるで、音が出る前からそこに旋律があることを知っているみたいで……」


「いいえ、逆だよ」


大和は低く、噛み締めるように言った。


「みゆきが合わせているんじゃない。なぎさが、みゆきの本能が求める『最高の飢え』を先読みして、そこに地獄を設置しているんだ。彼女たちは今、お互いを信頼しているんじゃない。お互いを最高速度で殺し合うことで、一つの命になろうとしている。……全く、正気の沙汰じゃないよ」


一方、ステージ裏の通路では、九条ひかりが壁に背を預け、自分の呼吸が僅かに乱れていることに気づいていた。彼女の得意とする「同調と破壊」は、相手の論理をトレースすることで成立する。だが、今しがたのなぎさの設計図には、論理の隙間に「野生」という名の不確定要素が入り混じっていた。


「……トレースできない」


ひかりが小さく、呪文のように呟く。彼女の澄んだ瞳の中に、初めて自分以外の存在への強い「執着」が灯る。なぎさが生み出したあの毒を、自分の喉で、自分の身体でどう消化し、どう叩き返すべきか。ひかりの頭脳は、かつてない熱量で演算を開始していた。


楽屋に戻ったぴかりが丘の面々は、椅子に倒れ込むようにして座った。なぎさはタオルを頭から被り、まだ激しく脈打つ指先を強く握りしめている。自分の設計は成功した。けれど、その代償として失った「何か」の重みを感じていた。もう、かつての安全なステージには戻れない。一度この「毒」を味わせた以上、観客も、そして自分たち自身も、さらなる刺激を求め続けることになる。


「なぎささん、凄かったです! 私、さっき、本当に空が割れたかと思いました!」


みゆきが、汗だくのままなぎさの元へ駆け寄ってくる。彼女の顔には一片の曇りもない。なぎさが突き放せば突き放すほど、彼女は自由になれると確信しているのだ。


「……うるさいわよ、みゆき。次はもっとテンポを上げるわ。あんたが心臓を止めるくらい、速いビートでね」


なぎさはタオル越しに、不敵な笑みを返した。その言葉は冗談ではなく、明確な予告だった。


月影ゆりは、そんな二人を見守りながら、静かに喉のアイシングをしていた。最年長として、彼女はこの変異がもたらす危うさを誰よりも理解している。だが同時に、この「狂気」こそが、宇佐美いちかという太陽に唯一届く影であることも知っていた。


「りん、咲、こまち。私たちも、のんびりしてはいられないわよ。……あの二人の爆発に飲み込まれて消えたいなら別だけど」


ゆりの言葉に、三人が一斉に顔を上げる。


「当たり前だよ、ゆりさん! なぎさとみゆきだけが目立つの、悔しいもん!」


夏木りんが拳を突き出す。日向咲も、秋元こまちも、それぞれの瞳に自分たちだけの武器を研ぎ澄ます意志を宿していた。


なおコーチは楽屋の隅で、その光景を黙って見つめていた。彼女は手に持った対戦表を見つめ、次戦の相手の名前に指を置く。


「……さて。世界があなたたちを『怪物』だと認識し始めた。ここから先は、もう言い訳は通用しない。……本物の殺し合いを、見せてやりなさい」


第88話、静寂という名の戦慄。 会場中に広まったのは、驚きではなく、得体の知れないものへの「恐怖」だった。 けれど、美墨なぎさは知っている。その恐怖こそが、自分たちの音楽が既存の世界を侵食し始めた確かな証拠であることを。


烏たちは、もはや太陽を仰ぎ見る存在ではない。 彼女たちは、その翼を広げ、自らが新しい夜そのものになろうとしていた。 漆黒の帷が、今、フェスティバルの全景をゆっくりと飲み込み始めていた。

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