漆黒の胎動、あるいは観測者たちの沈黙
ステージの残響が、冷え切った舞台裏の通路にまで追いかけてくる。美墨なぎさは、乱れた呼吸を整えることもせず、汗に濡れた前髪を無造作にかき上げた。先ほどまで立っていたあの場所は、もはや「発表の場」ではなく、自分たちの進化を証明するための「解剖台」だった。なぎさが設計した、既存のアイドル像を根底から揺さぶるような不規則な旋律は、初戦の相手を完膚なきまでに叩き伏せた。支持率メーターの圧倒的な数字は、その暴力的なまでの新しさが、少なくとも観客という名の群衆を「沈黙」と「興奮」の渦に叩き落としたことを示している。
楽屋へ戻る途中、星空みゆきがスキップするようにしてなぎさの隣に並んだ。彼女の頬は紅潮し、その瞳にはまだアドレナリンが火花を散らしている。
「なぎささん! 今日の私たち、なんだか空気が震えてるみたいでしたね。私の声が、会場のスピーカーを突き破って、外の街まで届いちゃうんじゃないかって思いました!」
「……声の出しすぎよ、みゆき。まだ初戦が終わったばかり。喉を休めなさい」
なぎさは努めて冷静に返したが、自身の指先がまだ、未知の音を制御した時の痺れで震えているのを隠せなかった。自分たちは変わった。かつて宇佐美いちかの背中に絶望したあの日の烏たちは、もうここにはいない。
通路の角を曲がった時、その「壁」は突然現れた。
そこには、次戦の出番を待つ白鳥学園の控えメンバーと、そして、中心に立つ絶対王者・宇佐美いちかの姿があった。彼女は自身の出番を前にしてもなお、一点の曇りもない黄金のオーラを纏い、まるで聖域のようにその場の空気を支配している。ぴかりが丘学院の面々が通りかかると、白鳥学園の練習生たちが一斉に冷ややかな視線を送ってきたが、いちかだけは、ただ静かに、なぎさの瞳を見つめ返した。
「……面白い音だった。美墨なぎさ、君の描いた図面は、もはや調和を拒絶している」
いちかの声は、雑音の多い通路の中でも驚くほどクリアに響いた。それは称賛ではなく、獲物の生態を正確に記述する学者のような冷徹さだった。
「けれど、不協和音は一瞬の火花に過ぎない。永遠に響き続けるのは、完璧な秩序だけだ。君たちの闇が、どこまで私の光を遮れるか……精々、楽しませてもらうよ」
いちかはそれだけ言うと、優雅な足取りでステージへと続く闇に消えていった。なぎさはその背中に向かって、強く拳を握りしめる。王者はまだ揺らいでいない。それどころか、自分たちの変化を「余興」として楽しむ余裕さえ見せている。
楽屋に戻ると、なおコーチが腕を組んでモニターを眺めていた。そこには、第2会場で圧倒的なパフォーマンスを見せている、日向大和率いるユニットの映像が流れていた。大和の放つ「重力」は、ぴかりが丘の「爆発」とは対照的に、観客の意識をじわじわと、抗いようのない力で自分たちの旋律へと引きずり込んでいる。
「——なぎさ、浮かれている暇はないわよ」
なおコーチの声が、勝利の余韻を切り裂いた。
「初戦のインパクトは十分。でも、今のあなたたちのスタイルは、一度見られれば対策される。特に、大和や九条ひかりのような『観察者』たちは、もうあなたの設計図の弱点を探し始めているわ。次に同じことをやっても、彼らの壁は崩せない」
なぎさは頷いた。今の自分たちは、まだ完成された怪物ではない。孵化したばかりの、不格好で飢えた雛に過ぎないのだ。
「……わかっています。だからこそ、次はもっと『不親切』になります」
なぎさの言葉に、月影ゆりが小さく微笑んだ。
「ええ。あなたの独裁に、私たちがどこまで食らいつけるか……このユニットの真価が問われるのは、ここからね」
その時、楽屋のドアが控えめにノックされた。現れたのは、日向咲が合宿中に仲良くなったという他校のメンバーたちだった。彼女たちは、ぴかりが丘の変貌に怯えながらも、その圧倒的な力に惹きつけられたような、複雑な表情を浮かべていた。
「あの……凄かったです、さっきのステージ。私たち、あんな風に自分たちの色を爆発させられるなんて、思ってもみなくて……」
彼女たちの言葉は、ぴかりが丘という存在が、この閉塞したアイドル界に「新しい毒」を撒き散らしたことを象徴していた。なぎさは、初めて自分が引いた設計図が、仲間以外の人間の心をも侵食し始めていることに気づく。
アイドルとは、希望を与える存在だと、かつての自分は信じていた。けれど、今のなぎさが信じているのは、音楽という名の凶器で世界に傷跡を残すことだ。その傷跡こそが、自分たちがこの場所にいたという唯一の証明になる。
なぎさは、再びタブレットを開き、次戦の対戦相手のデータを呼び出した。 日向大和、九条ひかり、そして宇佐美いちか。 強敵たちの残像が、デジタルな光となってなぎさの瞳に映る。
「……待ってなさい。あんたたちの完璧な世界を、この不協和音で徹底的に汚してあげるから」
第86話、漆黒の胎動。 烏たちは、勝利の美酒に酔うことなく、すでに次の獲物を食い破るための「牙」を研ぎ澄ませていた。秋の夜空に響くのは、もはやか細い囀りではない。それは、光を呑み込み、世界を沈黙させるための、漆黒の序曲だった。




