不協和の洗礼、あるいは烏の影
ステージの床を叩く低音が、内臓まで震わせるような衝撃を運んでくる。代表決定戦の初戦。ぴかりが丘学院の面々が対峙しているのは、派手な演出と安定したパフォーマンスで知られる、地区の古豪ユニットだった。客席の大部分は、王者を追い詰めた「夏のシンデレラ」たちが、どんなに華やかな旋律を奏でるのかと、期待に満ちた眼差しを向けている。だが、美墨なぎさが一音目を解き放った瞬間、ホールの空気は期待とは正反対の「困惑」へと一変した。
なぎさが設計したのは、耳馴染みの良いポップスでも、王道のアニソンでもない。九条ひかりの「侵食」と、日向大和の「重力」を独自の論理で編み上げた、刺々しい不協和音の迷宮だった。なぎさの放つ鋭いリードは、仲間の心地よさを一切無視し、まるで背中から崖へ突き落とすかのようなタイミングで、メンバー一人ひとりに絶え間ない試練を突きつけていく。
「……っ、なぎささん、速い!」
日向咲が息を呑む。これまでの「親切な」なぎさなら、ここで咲が追いつくのを待ってくれたはずだ。だが、今のなぎさは違う。咲が遅れれば、そのまま彼女を置き去りにして、ユニット全体の音像を崩壊させることも厭わないという、冷徹なまでの決意を背負っていた。
この「突き放すリード」に、最初に応えたのはやはり星空みゆきだった。
みゆきは、なぎさが仕掛けた複雑なトラップのような変拍子を、思考ではなく本能で飛び越えた。彼女の放つ絶叫に近い高音は、対戦相手の安定したハーモニーを、まるで重戦車がガラスを砕くように粉砕していく。みゆきが跳べば、なぎさがその着地点にさらなる鋭い音を置く。二人の間で繰り広げられる「殺し合い」のようなセッションに、観客は息をすることさえ忘れ、呆然とステージを凝視していた。
対戦相手のユニットは、この異様な光景に完全にペースを乱されていた。彼女たちは、これまでの「正しい」パフォーマンスを繰り返そうとするが、ぴかりが丘が撒き散らす不規則なノイズが、彼女たちの音の構築を根底から腐らせていく。音楽的な「正解」を求めている相手に対して、なぎさたちは「自分たちだけの真実」を叩きつけていた。
「……なぎさ。本当に、後戻りできない場所まで来たのね」
月影ゆりが、なぎさの影をなぞるように、冷たく、重い低音を叩き込む。ゆりは理解していた。このスタイルは、美しさとは程遠い。けれど、宇佐美いちかという「太陽」に肉薄するためには、自分たち自身が、その光さえも吸い込むような「深い闇」になるしかないのだ。
夏木りんの力強いビートが、なぎさの冷徹な設計に血を通わせる。秋元こまちの静かなコーラスが、剥き出しの音の端々を研ぎ澄ませていく。六人の音は、決して一つに溶け合ってはいなかった。それぞれが、自分の色を主張し、隣の音を侵食しようとする。だが、その激しい干渉の果てに生まれる、一瞬の「巨大な波」が、会場の音響設備さえも破壊せんばかりの圧力で押し寄せる。
ステージの袖では、なおコーチが腕を組み、不敵な笑みを浮かべていた。
「いいわ。これこそが、ワークショップという地獄を潜り抜けた烏たちの、本当の羽ばたきよ。……周りを見てみなさい。観客が、恐怖しているわ」
なおコーチの言う通りだった。観客席には、かつての称賛はない。あるのは、理解不能な怪物に向けられる、畏怖に満ちた静寂。だが、それこそがなぎさの狙いだった。万人受けする「アイドル」であることを捨て、ただ特定の誰か——宇佐美いちかという頂点——を絶望させるためだけの、特化した兵器。
初戦のパフォーマンスが終わり、静寂の後に訪れたのは、これまでのアイドルフェスでは聞いたこともないような、地鳴りのような咆哮だった。それは熱狂というより、何かが壊れる音に興奮した群衆の叫びだった。
支持率メーターは、圧倒的な差をつけてぴかりが丘学院の勝利を告げていた。対戦相手の少女たちは、自分たちが何に負けたのかさえ分からぬまま、呆然とステージを降りていく。
楽屋へ戻る通路で、なぎさは自分の指先を見つめた。痺れが止まらない。喉からは、鉄の味がする。なぎさは、隣を歩くみゆきの肩をトンと叩いた。
「……みゆき。今の、どうだった?」
「……怖かったです。なぎささんに、本当に置いていかれそうで。でも、だから、もっと遠くまで声を出さなきゃって思いました。……最高に、気持ちよかったです!」
みゆきの笑顔には、かつてのような甘さはない。戦士としての、冷たくも美しい輝き。
「そう。……なら、次はもっと高い場所へ突き放してあげるわよ。死ぬ気で、食らいついてきなさい」
なぎさの言葉に、六人が同時に頷いた。
不協和の洗礼。 ぴかりが丘学院は、この日、かつての自分たちを完全に埋葬した。 彼女たちが纏う黒いウィンドブレーカーは、もはや制服ではなく、世界を塗り替えるための漆黒のヴェールへと姿を変えていた。
次なる対戦相手、そしてその先に待つ日向大和。 烏たちは今、自分たちの影で太陽を覆い隠すための、最初の大きな一歩を刻み込んでいた。




