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月下の狂騒、あるいは共鳴の極北

深夜二時を回ったスタジオは、昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、ただ一台のスピーカーから漏れる微かなホワイトノイズだけが、張り詰めた空気を震わせていた。美墨なぎさは、更衣室に戻る機会を完全に失っていた。目の前では、九条ひかりが、まるで精密機械のような正確さで、先ほどなぎさが放った難解なビートを一人で口ずさんでいる。その「同調」の精度に、なぎさは改めて戦慄を覚えていた。


「……あなたの設計図、やっぱり少しだけ優しすぎるよ。ここ、あえて音を外して、聴衆の心に『棘』を刺すべきじゃない?」


ひかりが、なぎさの楽譜の余白に細い指でアクセントを書き加える。それは、なぎさが無意識に避けていた、聴き手にストレスを与える「不協和の美学」だった。日向大和が「突き放す愛」を説いたように、ひかりは「破壊による快感」をなぎさの前に提示していた。


スタジオの反対側では、星空みゆきが、他校のエース級の少女たちに混じって、新しいステップの組み込みを繰り返していた。彼女たちの動きは、もはや「ダンス」という枠組みを超え、ステージという限られた空間をいかに立体的に、そして暴力的に奪い取るかという、領土紛争のような様相を呈している。


「——美墨なぎさ。あんたのところのエース、あのみゆきって子。才能はあるけど、まだ自分の『使い方』を分かってないわね」


ふいに背後から声をかけてきたのは、大和だった。彼女は壁に寄りかかり、なぎさとひかりの奇妙なセッションを観察していたらしい。


「あの子はね、君のリードを待ってから動いている。それでは、宇佐美いちかのような絶対的な存在感には一生届かない。エースっていうのは、リードが音を出す『前』に、そこに旋律があるべき場所を作り出す存在なんだよ」


大和の言葉は、なぎさが考えていた「リードが道を切り拓き、エースがそこを通る」というこれまでの戦略を根底から覆すものだった。エースが先導し、リードがそれを追認する。逆転の発想。なぎさは、みゆきの背中をじっと見つめた。みゆきは今、他校のメンバーと競い合う中で、自分の限界を物理的に拡張しようとしている。


「みゆき。……ちょっと、こっちへ来なさい」


なぎさの声に、みゆきが汗を飛び散らせながら駆け寄ってきた。なぎさは、ひかりが書き加えた「棘」のある楽譜をみゆきの前に突き出した。


「今から、私がこのビートを叩くわ。あんたは、私が歌い出すのを待たないで。あんたが『ここに音が欲しい』と思った瞬間に、私の喉をこじ開けるくらいの勢いで飛び込んできなさい」


「えっ……待たないで、いいんですか……?」


みゆきの瞳に戸惑いが走る。なぎさは、力強く頷いた。


「そうよ。これまでの私は、あんたを『守る』ことばかり考えてた。低空飛行でも、あんたが怪我をしないように。でも、それじゃあ白鳥学園には勝てない。……私を使いなさい、星空みゆき。あんたが太陽になるために、私の設計図を燃やし尽くして」


深夜のセッションが始まった。ひかりが不敵な笑みを浮かべてリズムマシンを起動させる。重低音がスタジオの床を這い、なぎさが刺々しい高音を叩き込む。みゆきは、最初こそタイミングを計りかねていたが、三回目の試行で、なぎさの予備動作を完全に無視した。


なぎさが息を吸い込むより早く、みゆきが宙を舞い、空気を切り裂くような鋭い絶叫を放った。


ガキィィィィィィン!!


スタジオに、これまでのぴかりが丘にはなかった、野性的で予測不能な共鳴が響き渡った。なぎさは、みゆきの放った音の圧力に一瞬怯んだが、すぐにそれを「土台」にして、さらに冷徹な旋律を上書きした。ひかりの「同調」をも振り切るような、高速の相互浸食。


「……あはは! 面白い! これだよ、こういうのを待ってたんだ!」


ひかりが歓喜の声を上げ、自分もその旋律の渦の中に飛び込んでいく。大和もまた、黙ってはいられなかった。彼女の持つ重厚なリードが、なぎさたちの火花に薪をくべるように、圧倒的な重力を加えていく。


スタジオは、もはや練習の場ではなかった。互いの才能を喰らい合い、自分たちの限界という殻を、自分たちの声で粉砕していく、孵化の祭壇だった。


数時間後、東の空が白み始めた頃、四人は床に倒れ込んでいた。肺が焼けるように熱く、喉からは血の味がした。けれど、なぎさの胸の中には、言葉にできないほどの確信が満ちていた。


「……なぎささん。私、今ならどこまでも高く跳べる気がします。なぎささんが、私を置いていこうとしてくれるから」


みゆきが、ぐしゃぐしゃの顔で笑う。なぎさは、その震える手を握り返した。


「……当たり前でしょ。あんたを突き放すために、私はもっと冷たくなるわよ」


日向大和は天井を見上げ、静かに呟いた。


「……烏たちが、真っ黒に染まっていくね。……楽しみだよ、フェスでの再会が」


九条ひかりは、すでになぎさの楽譜を完璧に自分のものにしたかのように、無感情な瞳で朝日を見つめていた。彼女という「鏡」に映し出された自分たちの姿は、昨日までよりもずっと鋭く、ずっと不吉な輝きを放っていた。


第79話、月下の狂騒。 それは、ぴかりが丘学院の二人が、王者の模倣ではなく、自分たちだけの「破壊と再生」の術を掴み取った夜。 鉄格子のレッスン場を去るなぎさの足取りには、もう迷いはなかった。


彼女の指先は、すでに次の設計図を描き始めていた。 それは、誰もが予想し得ない、王者の玉座を根底から揺るがすための、不協和音の地図だった。

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