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変化の予兆、あるいは未完の肖像

都内のスタジオを包む夜気は、冷徹なまでに静まり返っていた。美墨なぎさは、ワークショップの三日目を終え、火照った身体を冷ますように更衣室のベンチに座り込んでいた。鏡に映る自分の顔は、疲労で青白くなっているが、その瞳には昨日までなかった、鋭利な刃物のような光が宿っている。隣では星空みゆきが、練習着を脱ぎ散らかしたまま、床に大の字になっていた。


「なぎささん……私、今日、一瞬だけ自分の声がどこまで届いたか分からなくなりました。なぎささんの音が、あんなに遠くて高い場所にあるなんて……」


みゆきの声には、恐怖と、それ以上の歓喜が混じっていた。なぎさは無言で、自分の指先を見つめる。今日、なぎさはあえてみゆきの「限界」を想定せず、より速く、より複雑なビートを叩き込んだ。それは、相手を信じなければできない、冷酷なまでの信頼の形。みゆきはそれに食らいつき、喉を震わせ、新しい領域の音を絞り出した。日向大和が言った「突き放す愛」の片鱗を、なぎさは今、確かに掴みかけていた。


その頃、別の場所で開催されているぴかりが丘学院の夏期集中合宿所では、また別の熱が渦巻いていた。月影ゆり、夏木りん、日向咲、秋元こまちの四人は、なおコーチの厳しい指導の下、徹底的な基礎の底上げを強いられていた。


「——ゆり、今のロングトーン、わずかに重心が浮いたわよ。白鳥学園の陣形を崩したいなら、一人一人が『個』として完結していなければ話にならない」


なおコーチの叱咤が飛ぶ。ゆりは額の汗を拭い、再びマイクを握り直した。彼女の視線の先には、なぎさとみゆきがいない四人だけのフォーメーションがある。リードとエースを欠いた状態での練習は、残された四人に「自分たちがどう動くべきか」という自立心を、嫌応なしに植え付けていた。特に、これまでなぎさの論理的なリードに身を任せていた咲やりんは、自分たちでリズムを構築し、隙間を埋める作業の困難さに直面していた。


「……なぎさたちがいなくても、私たちは私たちの音を鳴らさなきゃ」


咲が、震える声を振り絞るように言った。その瞳には、親友であるなぎさに置いていかれたくないという、切実なまでの焦燥感が滲んでいる。彼女たちは知っていた。ドームで負けたあの日から、自分たちの時間は一刻も無駄にはできないことを。


一方、なぎさが参加しているワークショップのスタジオでは、夜の自主練習が始まっていた。そこに現れたのは、日向大和だけではなかった。


スタジオの入り口に、一人の少女が立っていた。彼女は、これまでの練習生たちとは明らかに異なる雰囲気を纏っていた。背丈こそ小柄だが、その全身から放たれる「威圧感」は、宇佐美いちかのそれとはまた違う、より鋭利で攻撃的なものだった。


「……誰、あの子」


なぎさが低く呟く。大和は、その少女を一瞥すると、初めて嘲笑を消し、真剣な眼差しを向けた。


「……彼女は九条ひかり。別の地方で無双していたソロアイドルだけど、今回のフェスに合わせて、ある有力校に引き抜かれたっていう噂だよ。彼女の武器は、他者の旋律を完璧にトレースし、それを倍の圧力で叩き返す『同調と破壊』」


九条ひかりと呼ばれた少女は、スタジオの中央へ歩み寄ると、誰に断ることもなく、備え付けのスピーカーを操作し始めた。流れ出したのは、先ほどの課題曲。彼女は一人で、複数のパートを歌い分け始めた。


なぎさは、背筋が凍るのを感じた。


彼女の声は、なぎさが昼間に苦労して構築した旋律を、まるでコピー機のように正確に再現し、さらにそこへ「毒」を混ぜるように、より扇情的なアレンジを加えてみせた。それは、創造ではなく侵食。他者の努力を嘲笑うかのような、圧倒的な才能の暴力だった。


「——なぎささん、あの子……」


みゆきが、本能的な恐怖でなぎさの袖を掴んだ。ひかりの瞳は、まるで感情のない水晶のように澄んでいて、そこに映る自分たちの存在を「取るに足らないデータ」として処理しているかのようだった。


ひかりは一曲歌い終えると、なぎさの方を向いて、小さく首を傾げた。


「……あなたの設計図、綺麗だけど脆いね。もっと、私を壊してくれるような音、出せないの?」


その挑発的な言葉に、なぎさの心の中で何かが弾けた。


「……面白いじゃない。なら、あんたのその『コピー』が追いつけないくらいの速度で、新しい図面を引いてあげるわよ」


なぎさは更衣室に戻ろうとしていた足を止め、再びマイクを握った。 宇佐美いちかという「壁」、日向大和という「引力」、そして九条ひかりという「深淵」。 アイドルの世界という名の戦場は、一歩踏み込むたびに、さらなる怪物を烏たちの前に差し出してくる。


なぎさは、みゆきを見た。みゆきはまだ震えていたが、その瞳の中には、ひかりという異質な光に反応する「野生」が、激しく火花を散らし始めていた。


「みゆき。……いくわよ。今夜は、寝かせないから」


「……っ、はいっ、なぎささん!!」


二人の声が重なり、夜のスタジオに響き渡る。 ぴかりが丘学院の「共鳴」が、今、未知の才能を前に、さらなる変異を遂げようとしていた。


烏たちの夏は、まだ終わらない。 敗北の傷跡は、今や彼女たちをより高くへ押し上げるための強靭なバネへと姿を変えていた。 太陽を追いかける翼は、今夜、また一つ、鋭い漆黒をその身に纏おうとしていた。

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