羨望の眼差し、あるいは静かなる覚醒
鉄格子の隙間から差し込む西日が、コンクリートの床に長い影を落としていた。都内屈指の選抜ワークショップ、その二日目。美墨なぎさは、額から流れる汗を拭う暇もなく、スピーカーから溢れ出す暴力的なまでの音の群れに神経を研ぎ澄ませていた。この場所に集まったのは、各ユニットの心臓部を担う少女たちだ。昨日なぎさに鋭い言葉を投げかけた日向大和は、今日もまた、周囲の空気を自分の色に染め上げるような、圧倒的な音の統治を見せつけていた。
なぎさの隣では、星空みゆきが息を切らしながらも、他校のエース級の少女たちに混じってステップを踏んでいる。みゆきの持つ「野生」は、この猛者たちの集まりの中でも決して埋もれてはいない。それどころか、彼女は周囲のレベルの高さに触発され、見たこともないような鋭いダンスのキレを見せ始めていた。なぎさは、そんなみゆきの背中を見つめ、昨日の大和の言葉を反芻していた。「仲間の能力を決めつけている」。その言葉は、なぎさの胸の奥で、抜き差しならない棘となって刺さり続けていた。
「——休憩、十分。各自、今のセッションの反省をノートにまとめなさい」
講師の冷徹な声が響き、張り詰めた糸が一時的に緩む。なぎさは壁際に座り込み、開いたノートの白紙のページを睨みつけた。書くべきことは山ほどあるはずなのに、ペンを握る指先が動かない。視線の先では、みゆきが他校のメンバーに囲まれ、身振り手振りを交えてパフォーマンスの議論を交わしていた。みゆきは、この過酷な環境さえも自分の糧に変えようとしている。
一方で、なぎさは孤独だった。リードという役割は、常に全体を俯瞰し、最適解を提示しなければならない。だが、この場所での「最適解」とは何なのか。大和のような、周囲を強引に引きずり回すような引力なのか。それとも、いちかのような、他者を寄せ付けない孤高の輝きなのか。なぎさは、自分が築き上げてきた「効率」という城壁が、あまりにも脆く、そして小さなものに思えて仕方がなかった。
ふと、なぎさの視界の隅に、日向大和がこちらを眺めている姿が入った。彼女は優雅にスポーツボトルを傾け、なぎさの苦悩を楽しむかのような薄い笑みを浮かべていた。
「……まだ、親切なままだね、美墨なぎさ」
大和が、なぎさの隣に音もなく腰を下ろした。
「周りを見てごらんよ。あのみゆきって子は、もう君の差し出す『心地よい椅子』なんて求めてない。彼女は今、自分をどこまで高い場所へ連れて行ってくれるか、その刺激だけを欲しがっている。君が怖がって音を下げれば下げるほど、彼女の才能は君の手をすり抜けて、もっと冷たくて高い場所にある音に惹かれていくよ」
なぎさはノートを強く握りしめた。
「……私は、みゆきを振り落としたくないだけよ。ユニットとして、最高のパフォーマンスをするのが私の仕事だもの」
「ユニットとして、ね。……でもさ、君が彼女の限界を勝手に引くことは、保護じゃなくて『支配』だよ。あの子を本気で信じているなら、あの子が一度死ぬくらいの絶望的な旋律を叩き込んでみなよ。そこで生き残ったものだけが、本物のアイドルになれるんだから」
大和はそれだけ言うと、立ち上がってフロアの中央へ戻っていった。なぎさは、自分の掌を見た。マイクを握るために鍛えてきたはずのこの手が、いつの間にか仲間を縛るための鎖になっていたのではないか。なぎさの心に、暗い影が広がる。
練習が再開された。午後の課題は、二人一組での即興シンクロ・ボーカル。運命の悪戯か、なぎさのパートナーに指名されたのは、日向大和だった。スタジオ中の注目が、この二人に集まる。
大和がリードのビートを刻み始める。それは、なぎさがかつて経験したことがないほど、激しく、複雑で、そして一切の妥協がないリズムだった。
「——ほら、追いついてきて。君の『親切な音』なんて、ここではただの雑音だよ」
大和の放つ旋律は、なぎさの喉を切り裂かんばかりに鋭く、そして冷たい。なぎさは必死に食らいついた。頭で考えるな、音になれ。なぎさは、自分の中の論理回路を一度すべてシャットダウンした。大和が叩き込んでくる「絶望」に対して、なぎさは自らの「情熱」を燃料にして、限界を超えた高音で応戦した。
それは、対話というよりは、刃を交える決闘だった。二人の声が重なり、干渉し合い、スタジオの空気を物理的に震わせる。なぎさは、意識が遠のくほどの高揚感の中で、初めて「突き放されること」の快感を知った。大和は自分に合わせてくれない。だからこそ、自分はもっと高く、もっと鋭くならざるを得ない。この極限のストレスこそが、翼を育てるための風なのだ。
セッションが終わった後、スタジオには数秒間の静寂が訪れた。大和は少しだけ肩を揺らし、なぎさを見て、初めて嘲笑ではない、一人の表現者としての笑みを向けた。
「……悪くない。君も、少しは烏らしい目になってきたじゃない」
なぎさは、立っているのが精一杯だった。膝が震え、肺が焼けるように熱い。けれど、その瞳に宿った光は、昨日までの迷いをすべて焼き尽くしていた。
「なぎささん……今の、すごかったです……!」
駆け寄ってきたみゆきの手を取り、なぎさは不敵に笑い返した。
「みゆき。……次から、あんたの歌いやすい音なんて一本も出さないから。死ぬ気で、私に追いついてきなさい」
「……! はいっ!!」
みゆきの瞳に、これまでにないほどの歓喜と、そして本物の闘志が宿った。 烏たちは今、自分たちを縛っていた「優しさ」という名の檻を、自らの嘴で破壊した。 鉄格子の向こう側にある、冷徹で美しい世界。そこに足を踏み入れる覚悟を決めたなぎさの背中は、夕闇の中で、より深く、より鋭い漆黒へと染まり始めていた。
第77話の終幕。それは、司令塔としてのなぎさが、仲間を「守る者」から「導き、突き放す者」へと進化した瞬間だった。白鳥学園、そして宇佐美いちか。彼女たちのいる玉座の影が、少しずつ、けれど確実に、烏たちの指先に触れようとしていた。




