鉄格子の向こう側、あるいは覚醒の孵化
ドームの熱気が嘘のように静まり返った放課後、美墨なぎさは校門の前で立ち止まり、手元のタブレットに届いた通知を二度見した。そこには、先日なおコーチが口にしていた「合同ワークショップ」の正式な詳細が記されていた。場所は都内でも屈指の設備を誇る、通称『鉄格子のレッスン場』。かつて日向大和が多くのスターを輩出した伝説的なスタジオだ。ぴかりが丘学院のメンバーから選ばれたのは、なぎさと星空みゆきの二名。他のメンバーは、別の場所で開催される夏期集中合宿に参加することになっていた。
「なぎささん! 行きましょう、新しい世界が待ってます!」
隣でみゆきが、鼻息荒く拳を握りしめている。彼女の単純さは時として救いになるが、なぎさの胸中には期待よりも、胃の底がじりじりと焼けるような緊張感の方が勝っていた。白鳥学園という圧倒的な「山」に跳ね返された今、自分たちに足りないのは、いちかのような個の暴力か、それともさらなる共鳴の深度か。その答えを見つけるための、これは「選抜」という名の試練なのだ。
数日後、なぎさたちが辿り着いたスタジオは、その名の通り冷徹なコンクリートと鉄骨で構成された、飾り気のない巨大な空間だった。そこに集まっていたのは、各校、各ユニットから選りすぐられた「一騎当千」の少女たちだ。宇佐美いちかのような完成されたスターではない。しかし、誰もが「自分こそが次の時代を担う」という剥き出しの飢餓感を、その瞳の奥に宿していた。
なぎさは、隅の方でストレッチを始めながら、周囲を観察した。そこには、先日出会った「日向大和の妹」を名乗る少女——日向大和もいた。彼女は、他の練習生たちとは一線を画す静かなオーラを放ち、まるで自分の周囲だけ時間が止まっているかのような正確な動作で、柔軟運動を繰り返している。
ワークショップの講師として現れたのは、かつて伝説のユニットでセンターを務めたという、線の細い、しかし眼光の鋭い女性だった。彼女は挨拶もそこそこに、いきなり難解なポリリズムのビートをスピーカーから流し始めた。
「今から、このリズムに合わせて即興で各自のパートを構築しなさい。隣の人間と合わせる必要はない。ただし、隣の人間が放つ音に『食われる』者は、この場にいる価値はないわ」
あまりにも不条理な要求に、スタジオに緊張が走る。なぎさは、頭の中で瞬時にリズムを解析し、自分なりの旋律の断片を組み立てようとした。しかし、その思考を切り裂くように、日向大和が声を放った。
それは、音量こそ大きくはないが、驚くほど「重い」声だった。なぎさが理論で導き出そうとしたリズムの正解を、大和は本能で掴み、その場にあるすべての空気を自分の支配下に置くような、圧倒的な存在感を見せつけた。なぎさは、自分の指先が微かに震えるのを感じた。
(……これが、次代のリードが持つ『音』……!?)
なぎさのこれまでのリードは、みゆきという奔放な才能をどう活かすか、そのための「最適解」を求めるものだった。しかし、目の前の大和は違う。彼女は周囲を活かすのではない。周囲が彼女に「合わせざるを得ない」状況を、その一音だけで作り出している。それは、いちかの持つ暴力的な光とはまた違う、静かな、けれど逃げ場のない「重力」だった。
「なぎささん……すごいです、あの人」
みゆきもまた、圧倒されていた。いつもなら真っ先に飛び込んでいく彼女が、珍しく躊躇を見せている。なぎさは、そんなみゆきの肩を強く叩いた。
「ひるんでる暇なんてないわよ、みゆき。あんたが跳ばなきゃ、私の音は誰にも届かないんだから」
なぎさは、大和が作った重力に、あえて不規則な高音をぶつけた。大和の音が「正円」を描くなら、なぎさの音はそれを切り裂く「楔」となる。調和ではなく、侵食。なぎさの中で、これまで大切に守ってきた「効率」という名の殻が、パキリと音を立てて割れた。
ワークショップが進むにつれ、なぎさは何度も壁にぶち当たった。他校から来たメンバーは、それぞれがなぎさの知らない技術や、独特の発声法を持っていた。リードとしての自分の限界、設計者としての自分の未熟さ。白鳥学園戦で感じた悔しさとは別の、より具体的で、より鋭い痛みがなぎさを襲う。
昼休憩の際、自販機の近くでなぎさは大和と鉢合わせした。
「……ぴかりが丘のリード。君、面白いね」
大和は炭酸水のボトルを手に、相変わらずの薄い笑みを浮かべていた。
「君の音は、すごく『親切』だ。仲間が一番歌いやすい場所を、一ミリの狂いもなく差し出そうとしている。でもさ、それって結局、君が仲間の能力を『これくらいだろう』って決めつけてることにならない?」
なぎさは、心臓を直接掴まれたような衝撃を受けた。
「……決めつけてなんて、いないわ」
「そうかな。君はみゆきって子の『野生』を信じてるつもりだろうけど、本当に信じてるなら、彼女が絶望するような、もっと高くて、もっと冷たい場所に音を置いてみたらいい。……突き放すことも、愛なんだよ」
大和はそれだけ言うと、なぎさの横を通り過ぎていった。 突き放すこと。なぎさの脳裏に、あの日、宇佐美いちかが放った、誰にも寄り添わない、けれど誰よりも気高い旋律が蘇った。
午後からのセッションで、なぎさは意識を変えた。みゆきが跳びやすい場所ではなく、みゆきが「死に物狂いで手を伸ばさなければ届かない」場所へと、あえて無慈悲な高音を投げ込んだ。
「——っ、なぎささん!?」
みゆきの瞳に、一瞬の戸惑いと、その直後に爆発的な闘志が宿った。彼女は空中で無理やり身体を捻り、なぎさが提示した「不可能な一音」に、その指先を、その喉を、無理やり食らいつかせた。
ドォォォォォン!!
スタジオの壁が震えるような、不協和音ギリギリの共鳴。 それは、これまでのぴかりが丘にはなかった、刺すような、獰猛な輝きだった。
大和が、初めて微かに目を見開いた。講師の女性も、止めていたペンを動かし、なぎさの名前を資料の一番上に書き加えた。
なぎさは、荒い呼吸を整えながら、自分の指先を見つめた。痺れは、まだ取れない。けれど、その先には、これまで見ていたものよりもずっと広く、そして残酷に美しい世界が広がっていた。
鉄格子の向こう側。そこは、個と個が殺し合い、その果てに本物の輝きだけが残る修羅場。 烏たちの翼は今、ここで、より鋭く、より冷徹な「凶器」へと生まれ変わろうとしていた。
美墨なぎさは、不敵に笑った。 宇佐美いちか。あんたのいる高みは、きっとこういう「冷たさ」の上に成り立っているのね。
「……待ってなさいよ。今、そこまで行くから」
なぎさの第二の覚醒。その産声が、伝説のスタジオに響き渡っていた。




